第7話 #生意気な後輩 #ネクタイ


 振り返って飛び退くと、予想外の人物が苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見下ろしていた。


「え……あの、行っちゃったんだけど、」


 エレベーター。

 そう続けると、高みから大きな嘆息を吐いた男は、綺麗に整った眉を寄せる。眉だけと言わず、全体的にとても綺麗な顔だ。しかも今日は普段・・と違って、しゃんとした背広を羽織っている。


「荷物、忘れてますよ。大荷物」


 普段は動きやすさ重視のパーカーにノーネクタイの男は、久しく締まった首元が苦しいのか、ネクタイの結び目を左右に揺らして首を伸ばす。その仕草はモテ仕草のお手本のようなのに、


「クソ。動きにくい」


 と、漏れた口調で大減点。

 やっぱり彼は勿体ない。私は、元勤め先の後輩である八坂青柊を、空虚な目で見上げた。


「荷物?」

「あっち。困ってますよ、店員サン」


 吊り目がちな二重の瞳が、私と店員サンを交互に見やる。私は「あっ!」と目を開いて、すっかり忘れていた大荷物を抱える店員サンに掛け寄った。


「すみません!すっかり忘れてしまって、」

「いえいえ。こちらこそ気づかず、申し訳ございませんでした」


 ばつが悪そうに微笑む男性店員を前に、思わず顔を熱くする。クロークに預けていた荷物と花束を受け取り、彼より深く頭を下げた。

 どうやら、フロア内でずっと私を探してくれていたらしい。考え事に夢中で、全く気づかなかった。


「つーか、すごい荷物ですね」


 クソ怠いなこの格好。と、吹き出しを宛がいたくなるような表情で八坂は見下ろす。大荷物に手を差し伸べる気配は毛ほどもないので、この男のレディーファーストは不在のようだ。


「今日、最終出社日だったから」


 とはいえ、愛想も思い遣りもない後輩のことなどどうでもよく、私は再びエレベーターを押下しようと手を伸ばす。だけど、


「え、辞めるんすか?」


 と放たれた声に手を止め、思わず振り向いた。


「知らなかったの……?今日セレモニーやってたじゃん。私の」

「なんですか、セレモニーって」

「私を送る会のことだよ」


 この男、信じられない。

 午後には貴方のいる写真部にも挨拶回りしたのだけど、と責めると、八坂は


「ほとんど外勤だったんで知らなかったです」 


 と、未だにネクタイを緩めている。いい加減、取ったらどうだ。


「まぁいいけど……これからも頑張ってね。八坂くん」


 塞がった手の代わりに花束を振る。もう二度と会うことは無いだろうけど、彼の無礼講のおかげで冷静さを取り戻せたので、心の内で感謝する。


「小國さんも、バツイチでも頑張ってください」


 ——……前言撤回。

 私は再びエレベーターに背を向け、彼のネクタイを掴んで睨み上げる。握っていた大荷物は背後に崩れ、代わりに憎たらしいほど端整な顔が首を傾げた。


「なんですか?」

「なんですか、じゃないでしょ~~?」


 バツイチって言った? いまバツイチって言ったよね?


「こっちこそ『なんで』なんだけど。なんで知って——」

「聴こえたから」

「はぁ?」

「あの店、俺も取材の関係で居たんですよ。つーか、あんなとこで離婚届書くなんて、相当やばいっすね」


 八坂は鼻で笑う。片手をポケットに入れたままな所もいけ好かない。要するに、とてもムカつく。

 珍しいスーツ姿は取材あってのことだろうけど、このネクタイはあまり似合っていない。だから、一番に目に入ったそれを引き寄せて、頭突きでもお見舞いしようと思っていたのに、彼の体はビクとも動かなかった。


「私だって……っ、やばいなんてわかってるし!あの場で書かされたの!」

「協議離婚ですか?」

「知んないよ!」


 協議だとか調停だとか、そんなの知らない。調停じゃないから協議? あれが協議? やり直し。ふざけんな。


「逆ギレやめてください。面倒くさい」

「八坂くんが煽るからでしょ?!」

「煽ってねーし……。つーか、これ部長のネクタイなんで離してください。シワになったらぶちギレられる」


 無造作な前髪の奥で、綺麗な瞳がすこし怯む。 他部署から見ると写真部の部長はとても優しいのだけど、体育会系という噂は強ちデマではないらしい。

 しかしなるほど、道理でネクタイだけが浮いてみえるわけだ。スーツの仕立ては普通なのに、ネクタイの素材だけが一流を物語っている。


「……へぇ~」


 私はとても大人げなかった。一流のワインレッドのネクタイを解き、彼の目元にぐるりと巻き付ける程度には、大変大人げなかった。

 彼は「あ?!おい!」とすぐにネクタイを下ろしたけれど、無論手遅れだ。私がシャッターチャンスを逃すわけがない。

 このタイミングで『バツイチ』と易々唱えた罰は重いのだ。


「あーあー。いけないんだァ、部長のネクタイで遊んじゃいけないんだァ」


 八坂の前に突き出した画面のなかで、彼はネクタイを巻いて羽目を外している“へべれけ”に扮している。

 腹いせを含んだ復讐は効果覿面てきめんだったようで、整った表情から余裕が消えた。


「最悪……ガキっすかまじで。早急に削除してください」

「嫌だよ。まぁいいじゃん、私もう退職するんだし」

「消して」

「いやだ」


 べ、と舌を見せた後、エレベーターのボタンを押下する。スマホを仕舞い込んだポシェットを抱えながら、散らばった荷物を拾い上げ、やっと扉の向こうへ足を踏み入れた。


「消してくださいお願いします」

「付いて来ないでよ」

「消してくれたら離れます」

「だから嫌だって」

「——じゃあ、奪います」

「っ?!」


 分速百メートルで下る静寂のなか、不覚にも喉を鳴らす。凭れていた壁と腰の間に、八坂の手が滑り込んだからだ。

 会社で関わる機会はほとんどなく、すれ違えば挨拶程度。取材で何度か同席した程度の関係だった後輩の、骨ばった節々が所々で体に触れる。どうやら、腰の方に回された手は壁際の手すりを掴んでいるらしい。

 胸元にあるカバンだけが目当てなのだとわかっていても、心臓は不可抗力に呻いていた。


「セクハラ」

「心外です」


 うるさい心臓を押さえつけるように、ポシェットをしっかり抱え込む。すると、中のスマホがバイブを響かせた反動で、私は大きく肩を弾いた。


「通知、来てますよ。開いた方がいいんじゃないですか?」

「八坂くんこそ。そろそろ退いた方がいいんじゃない? 通報されるよ」


 彼は嘆息混じりの舌打ちを落として、渋々と私の体を解放した。

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