第5話 #婚約指輪 #返却
うん? いま、なんて言った——?
「ごめん優さん、ちゃんと聴こえなくて……今、なんて?」
「こんなタイミングで言い辛いんだけど、別れて欲しいんだ。今日は、縁凪にそれを伝えたくて」
「……ハ?」
待て、待て、待て。
私の前に居るのは、いつだったか『飲み会とかで冗談が巧く吐けない』と弱音を溢したサラリーマンで、誠実な夫だったと思うのだけど。
ソースを配分正しく使い終え、綺麗になった前菜の皿が目の前で下げられる。彼はウェイトレスに頭を下げて優しく微笑む。新妻のひきつった顔を見つめ直すと、今度はばつが悪そうに笑った。
「本当はこうなる前に決断すべきだったんだ。ごめんね、縁凪」
返す言葉を探しているときに限って、雑音を妙に拾ってしまうのはなぜだろう。
先ほどまで全く耳に入らなかった周りの会話。シルバーナイフが皿を擦る音。ワインがトポトポとグラスに沈む音——、どれもが思考を塞き止める。
フリーズしてしばらく経った頃には『もう冗談やめてよ』と突っ込むタイミングも、向こうから『ごめん。ドッキリだよ』と切り出す間も疾うに失くなっていた。
たぶん……だから……、これは本気の申し出なのだろう。
「あの……私、明後日には退居しなきゃいけないんだけど、」
そうして、ようやくこの唇を割って出た言葉に、私が一番驚いていた。自分は自分が思っていた以上に理性的で、あまりにも現実的だ。
「すまない」
「えっ、と。すまない、っていうか……あ、なんで?」
「何で、か……いや。明確な理由があるわけじゃないんだ」
直後に運ばれてきたスープの説明が、他国語の字幕のように通過する。もはや音声にすらならない。それを真剣に聴いている彼って、もしかすると同じ人類じゃないのかもしれないわ。
現実逃避なのか、はたまた防衛本能なのかは分からないけれど、私の脳内は、簡単に彼の台詞を呑み込もうとしなかった。
だって、何もかも意味が分からない。冗談ではないらしい別れ話も、こんな豪勢な食事の前で、軽薄なセリフを吐く紳士も。
「エビのビスクだって。温かいうちに食べよう」
「へぇ、エビ……そうだね」
やっぱり人類なのか。彼の言語を聞き取ることが出来たので、少しげんなりする。
「ねえ、その、他に素敵な
目を上げて、どうにか理性を保って問いかける。
「違うよ。浮気とか、そんな器用なこと出来ないよ。知ってるでしょ、俺が嘘つくの苦手だって」
言いながら、彼は目を安らかに閉じてスープを堪能する。新婚夫婦の別れ話を切り出しながらコース料理を召し上がれる器用さは、他に類を見ないと思うけど。
「その、離婚ってことだよね……?」
「まぁ、そうだね。そうなるね」
「離婚って、こんなに簡単にしていいの? 不倫とか家庭内暴力とか、どうしても分かち合えない価値観の違いとか……大きな問題に直面したときに出す切り札じゃないのかな」
そこまで言っても、彼の表情は一向に歪む気配がない。むしろ、テーブルクロスを擦るようにグラスの中身を揺らしながら、余裕綽々と微笑んだ。
「一概には言えないよ」
放たれたのは、いつもの彼の口癖だった。
凝り固まった視点でなく柔軟に、様々な視点で物事を見ることが大事なんだ——と、これまでの彼はよく熱弁していた。
そのせいか、すっかり悪びれる様子の消え去った表情に虫酸が走る。はじまりの『ごめん』連投は、もはや飾りにも思えた。
「合わないと思ったんだよ。俺と縁凪が一緒に暮らしていく日常が、だんだん想像できなくなって。このまま蟠りが残ったまま続けるのは、縁凪にも、縁凪のご家族にも悪いと思ったんだ」
“ご家族”——。そのフレーズが乾ききった
——縁凪ちゃんが結婚なんて、早いものねぇ。そうだわ。
離島に住む祖母の、綺麗に皺を刻んだ笑顔が浮かんで苦しい。私は懸命に喉を開いた。
「家族なんていいよ。いいけど、……買ってくれたドレスは、」
「うん、いいよ。ドレスは餞別としてもらってくれて。すごく気に入ってくれてたし」
いいよ?ドレスは?気に入ってくれてたし?
——おばあさんのお下がりかぁ……。かなり古いモデルになるよね? それなら、縁凪には俺が新しいドレスを買ってあげるよ。うん、俺もその方が嬉しいな。
祖母のドレスが着たいのだと伝えた時、彼が被せた言葉が蘇る。
気に入っていたのは事実だった。だけど、幸せの代償に夢を半分諦めたという事実も、彼は知っているはずなのに。
あのときは、代償を払っても幸せだった。彼が私だけの、ありのままの価値を見初めてくれたと思っていたからだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。これから対応することは、全部ここに纏めてるから」
正面で光ったスマホの画面に、謎の四角と文字が羅列している。
「To Doリスト、いま共有するから。縁凪も、これがあればスムーズに対処できるでしょ。せめてものお詫びになると思って、用意したんだ」
唖然としていると、私のスマホにリストが届く。チェック項目の一つには、
“□婚約指輪および結婚指輪の返却”
と、記されていた。これ、いつかほん怖に応募してみようかしら。
「指輪、返すんだ」
「夫婦の証だからね」
「それは、優さんに返すの?」
「そうだよ。一応出処だからね」
「あー……うん、分かった」
まだ少し温かいビスクが体の管を滑り落ちる。こんなときでも正常な味覚が恨めしい。悲しいことに、三ツ星レストランの中での世間体と理性が、何度もスプーンを往復させた。
「旭川の新居はどうするの?」
「予定通り俺が使うよ。ちょっと広いけど、2LDKなら持て余すほどでもないし」
「じゃあ……私は、引っ越し先変えないと」
「お手数かけてごめんね。大変だとは思うけど、よろしく頼むよ。あと、届けは今日のうちに書いてくれると助かるな。メインのあとで署名もらえる?」
「……ああ、うん」
「ありがとう。話が早くて助かるよ」
「あのさ」
「うん?」
「——私の、どういうところと合わなかったんだろう」
アスパラとチーズを添えてグリルされた魚料理が、ふらふらと陽気に湯気を立てる。
そういえば、カトラリー脇に置かれた箸は一度も使わなそうだな。でもきっと、私たちが去った後は “使用済み” ということにされてガシガシ洗われて、ああ、すり減っていくんだな、と少し哀れんだ。
それってまるで、今の私じゃないか——思わず、握っていたフォークを箸に差し替えた。
「一番は、タイプが違うってことかな。価値観の違いと似ているかもしれない」
「ああ……うん、そっか」
「うん。ごめんね」
そっか。私が悪いのか。私の、何かが悪かったのか。
——日常が浮かばない。
私たちは、食べ方も、確かに違う。些細なことかもしれないけれど、そういう“違い”が積み重なっていたのだろうか。
メインディッシュが運ばれる前に、彼はグラスを二度変えた。種類の同じ白ワインをオーダーしたのに
「グラス、違うのでお願いできます?」
とクロスに滑らせる様が、今更とても気になった。別に、同じのでもいいじゃないか。と思うのは、飲食店でのバイト経験があるからだろうか。洗い物を増やしてしまう、という意識が私の根底には眠っている。でも、それもきっと“違い”の一つ。
ワインは私も飲むことが出来るけど、彼のように産地を気にしたりはしない。ウェイトレスが持ってきたボトルのラベルを、まじまじと眺める彼に対して、私は大概「お任せで」と放っていたことを思い出す。
たぶん、そんな風に。私が“違う”と感じるように、彼にも「合わない」と感じさせていた事があったのかもしれない——。
「縁凪。仕事、本当にお疲れさま。退職おめでとう」
選りすぐりのスペイン産のワインを掲げ、彼は柔和に目を細める。
「それと、こんな形で本当に申し訳ないと思っているよ。今日のメインは、贖罪だと思って食べて欲しい」
ミディアムレアの肉料理に視線を落とすと、今更目が熱くなった。このときまでは、冗談云々に未だ期待を寄せていたのかもしれない。
「今までありがとう。これから、縁凪が幸せになってくれることを祈るよ」
私は唇の震えを押さえながら、手にしたグラスの中身を彼に浴びせることもなく、ただ冷静にその瞳を見据えた。
——素敵なお名前ですね。
あの日、初めて交わった瞳が蘇る。だけど、クロスの横に準備された離婚届を一瞥して、最上からどん底に落とされた。まさに急転直下だ。
「優さんも。旭川でもお元気で」
グラスを合わせた直後、私はミディアムレアに向けてスマホのカメラを起動する。何度もシャッター音を響かせながら、鼻を啜る音を掻き消した。
「……ねぇ見て。すごく綺麗に撮れた」
画面に向かった彼の視線は、変わらず優しさに満ちていて。だけど確実に、記憶の中の緋いチューリップは、色を失くしていた。
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