第6話 #エレベーター #邂逅


 妻になることを軽んじているわけではなかったし、悲しみも怒りも持ち合わせていたはずなのに、離婚届を滑るペン先は存外スムーズだった。

 最後のデザートを口にしながら、私がそれを書いている姿を見ていた彼は、一体どんな心境だったのだろう。


「うん、美味しいね」


 と頷きながら、


「証人欄はうちの両親に書いてもらったから、大丈夫だよ。そうそう、ここ記入して」


 と指南できる様子を見るに、あがなう気持ちは欠片も持ち合わせていなかったのだと思うけど。

 婚姻届でも見たご両親の達筆な署名は、私の心を一層冷やした。彼は「縁凪のおばあさんは島だからね。お手数かけるのも申し訳ないし」と偽善を綴り、私の心は凍てついた。


「おばあさんの元へは、うちの両親も同行するって言っていたよ」


 と彼が放った時には、さすがに目を見張った。素晴らしい経歴の息子さんをお育てになったご両親は、やっぱり素晴らしいのですね——、なんて皮肉は言いそびれたけれど、


「いいえ。結構です」


 と、精一杯尖った声で突っぱねた。

 百年の恋も冷めると言うのは、現実の話だったらしい。


「ここはご馳走するよ」


 食事を終えた後「ありがとうございました」と腰を折るウェイターの誰もが、私から目を逸らした。離婚届を書いている様を見ていたのだから、当たり前の反応だ。他所でやれよ、という視線が無いだけ素晴らしく、この店はやっぱり一流だ。

 別れ際、サイズぴったりだったはずの指輪はスルリと関節を抜け、彼は


「今までありがとう。婚約指輪は後日でいいから」


 と、私の頭を撫でて背を向けた。交際中の思い出は、ひとつも浮かんでこなかった。


 それで?ええと?——これから、何をすればいいんだっけ。

 明日は引っ越し屋がうちに来て、搬出をする日。明後日は退居立ち会いの日。そのつぎは搬入の日だったはずで。ということは、まず引っ越し屋に連絡して、旭川への搬入を変更してもらわなければいけない。それで、ええと、住所は……。


「あああ……」


 引っ越し業者の営業時間はとっくに過ぎているし、そもそも新たな住所が簡単に繕えるわけもない。

 私は、最上階から下りられないままフロア内を行き来する。スマホを光らせるだけで、フリックは一向に進まない。呪いのようなTo Doリストを開く気には到底なれない。けれど——……。


「ゆう、さん……」


 すでに最上から下った彼の名前を呟きながら、エレベーターへひた走る。私は何度も、下向きのボタン押下した。現実逃避から目が覚めたのか、ようやく脈が荒いで、汗が滲んだ。

 そしてようやく、ポーン、と鳴った音に目を上げる。


「ハァ……ッ」


 乗り込む寸前、詰まっていた息が唇から漏れる。開いたエレベーターのガラス窓が、夜を切り取ったに風景に目が眩む。そこへ一歩進めた足は、小刻みに震えていた。


小國おぐにさん」


 二歩目が阻まれたのは、その直後。箱に乗り込んだ一歩目の爪先は仰け反り、全体の重心が後ろに傾く。その後も自分の意思とは反対に、二歩、三歩と後退した体に私は戸惑った。


「小國さん」


 頭上から響く、酸味の強い声。


 ポーン——。

 エレベーターの扉が閉じられ、無情に下降するのを見送った後。自分の腕を掴んだ強い握力と背から伝播する体温に、私はようやく気がついた。

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