第20話

 ステラがまだ、里中叶であった頃の話を聞き終えた学は、自分を殴りたくて仕方がなかった。右の拳を握り締め、きしきしと骨の軋む音が、静寂の夜の中に響いている。歯を噛みしめ身体を震わせていなければ、愚かしい自分を許せなくなる気がしていた。


 耐え忍ぶ学の右手にそっと、星奈の両手が重なった。固められていた拳はゆっくりと解かれて、星奈の小さく柔らかい手によって優しく包まれていく。


「学君は何も悪くないよ。悪くない」


「でも、僕は、あの時……ステラと……」


 言葉の先を塞がれるように、星奈の温かい唇が、震える学の唇と重なった。ステラは唇を重ねている二人を眺めながら、足をぱたぱたと上下に動かしている。

 一分ほどが経ってようやく唇が離れると、学は先程よりも落ち着いたようで、怒りに震えていた身体は通常へと戻っていた。


「ごめん、つい」


 おどけた様子で謝る星奈。


「ついって、なんだよ。キスって、そんな簡単にするもんじゃないだろ」


「するよ。というか、したい、かな。好きな人とはね。学くんだって、そうでしょ?」


 言いながら、星奈の視線はステラへと向けられた。中学の時、学が好きだと言っていた女性がステラだったのだと、女性の勘が告げたのだろう。


 中学生の学は、ステラとキスをして、身体を交らせた。それは、愛ゆえの情欲だったのか、それとも、年相応の性への好奇心ゆえだったのか。


 学は、以前よりも無邪気に映るステラの横顔を眺めた。


 世界規模で見ればきっと、情欲の形は複雑で、人の心理が絡めば絡むほど迷宮のようになっていくのだろう。

 情欲で愛を感じる者もいれば、情欲を利用して富を得ようとする者もいる。そして、情欲によって心を破壊される者もいる。


 学はじっとステラを見つめた。


 高校生ぐらいの年ごろから見れば、ステラの年齢はいわゆる【おばさん】に該当してくるのだろう。今のステラなら、大勢の男に乱暴されるようなことはなかったのだろうか。

 ステラの見た目が美しかったから、彼女は別人にならなければいけなかったのだろうか。


 僕は本当に、ステラの見た目に惹かれていたのだろうか。


――断じて違う。大人の思考を得た学は、心の中でそう言い切った。学が惹かれたのは、ステラの名を与えられて、別人となった彼女ではなかった。学が彼女を心の底から美しいと感じ、夜空で光輝く恒星のように思えたのは、死を決意して橋の上に立っていた、里中叶だったのだ。


 純粋で真っすぐに。夢に向かってがむしゃらに突き進んできた里中叶の存在そのものが、星のように見えたのである。


「もう一度、星のような君に会いたいと思うのは、自分勝手な話かな」


「星? 星のことなら、ナナシに聞くといいよ」


 学はステラに向けて微笑んで、立ち上がった。視線をステラの横に座っている星奈に向けて問いかける。


「お兄さんとステラの関係って、ステラから聞いたの?」


「ううん。お姉ちゃんが家を出て行った後、お兄ちゃん自身が教えてくれたの。自慢話みたいな感じでね」


「自慢になるの、かな」


「なるわけないじゃない。女性を好きなように扱っていたっていうのが、格好良いと思っている、クズだったのよ。今では血が繋がっているのも気持ち悪い」


 僕を殴りに来た時は、随分と仲が良かったのにね。そう言いたくなったが、止めて置いた。今更蒸し返しても仕方のない話だ。


「今はステラと一緒に暮らしてるの?」


「うん。クズたちから逃げ出した後、お姉ちゃんは色々なホテルで寝泊まりしながら生活してたらしいの。現状を知った私はお姉ちゃんを探し出して、一緒に暮らすせるよう両親に頼み込んだんだ。その時お姉ちゃんは既にステラになっちゃってたから、びっくりとしたのと同時に、苦しかったな」


「僕と出会わなかったら、ステラは――」


「死んじゃってたと思う。だから、学君と出会ってステラになれたお姉ちゃんは、ラッキーだったんだよ」


 他意はなく、星奈は本当に学と叶が出会ったことに感謝しているようだった。大好きな二人が惹かれ合っていたことにもやもやとした部分はあるが、それでもそのおかげで生きてくれていると思うと、二人の関係性を尊重するしかなかった。


「ステラは、以前の彼女に戻ることは出来ないのかな」


「どうだろう。お姉ちゃんにとってどっちが幸せなのか、私たちには分からないから、お姉ちゃん次第かもしれないね」


 星奈の優し気な瞳が、そんなことは問題ではない、とそう語っているようだった。


「――君は、強いな」


「……ううん。さっきも言ったでしょ、苦しかったって」


 きっと。


 一番苦しかったのは、別人格を造らざるを得なかった当人だ。でも、当人を知っている人間も、別人となった大切なその人を見れば、苦しくなる。


 寄り添い助けてあげられなかった自分への怒りと、苦痛に歪むその人の顔が確かにあった過去への悲しみが、綯い交ぜになって涙へと変わる。


 自分勝手に。


 後悔と悲痛を感じて――決意する。


「僕はこの先ずっと、彼女の横に座っていたい」

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