第10話
昼休憩の時間。
学にしては珍しく、図書室で過ごしてはいなかった。廊下を歩き、別の教室へと目的を持って向かって進んで行く。以前の学なら、したくても出来なかった行動を、今は臆することなく自然体で行っていた。
それは、この短期間で学が大人の階段を駆け上がって行ったからなのか、それとも、世の中の儚さを知ってしまったからなのか。どちらにせよ、目で彼女を追いかけることしか出来なかった学は、もういない。
「あ、加藤君」
目的地に辿り着いたと同時に、標的の彼女が廊下へと出て来た。半ば彼女の進路をふさぐような形で、学は彼女の前に立った。
「珍しいね、図書室じゃないなんて。どうしたの? もしかして、会いに来てくれたとか……なんちゃって」
表情だけを笑顔にする彼女に対して、学は優し気な眼を向ける。その瞳はどこか、ステラの目に似ているように見えた。
「その通りだよ。連絡先、交換しようと思って」
「――え? でも、昨日好きな人がいるから駄目だって、言ってたよね」
「うん。でも、もういいんだ」
「振られちゃったの?」
「ううん。振られる以前に、僕のことを見てくれてもいなかったんだと思う」
困った様子で眉根を寄せる彼女に、学は問いかける。
「君は誰?」
「――? 私の名前、知らなかったっけ?
「うん、だよね」
「やっぱり知ってるんじゃん!」
「君は流田さん。そして僕は、加藤学」
「うん? 知ってるよ。何かのなぞなぞ?」
「違うよ。ただ、お互いの存在を確認しておきたかっただけ」
「ふーん、よく分かんない。でも、じゃあ。連絡先交換してくれるって、ことだよね?」
「うん、喜んで」
星奈が連絡先を交換したがっていた理由は、学にとって未だ不明瞭のままだった。もっと辛い思いをさせてやろうと思っているのかもしれないし、もしかしたら本当に好意を抱いてくれているのかもしれない。
慎重になる必要があったのだろうが、学は前者でも後者でも、はたまたそれら以外のどれでもよかった。ただ、加藤学という自分を見てくれるのなら、それで十分だったのだ。
学は、星奈の顔にステラの顔を合わせた。女性としての魅力でいえば、二人とも上位に位置しているのだろう。可愛いと綺麗の違い、のような気がする。
星奈は可愛くて、太陽のように光輝いている。
ステラは綺麗で、星のように闇夜を照らしていた。
ステラが照らす夜空はどこか不安定で、だからこそ惹きこまれる何かがあるのだと思っていた。けれどそれは、ブラックホールだったのだと、学は思った。
ただ飲み込み消滅させる闇。ステラは既に、そこに飲み込まれてしまっていたのだろう。いや、ステラではなく、本当の彼女が。
自分も飲み込まれてしまう。そんな気がした。加藤学を失って、【ナナシ】として生きていくことになる。ステラと一緒になれるならそれでもいい、とも思った。だが思っただけで、中学生の学には自分を捨てるほどの経験が、まだ足りなかった。
昨夜のステラとの行為が、頭の中に思い出された。身体の快感はあれど、心の快感はなかった。貪り、何度も吐き出したが、雄としての本能以外には、何もなかった。
きっと。ステラでなくともよかったのだ。ただあそこにいたのがステラだっただけで、別の誰かがあそこにいて出会っていても、学は同じように求めていたのだろう。
そう。もしも、あそこにいたのが、今目の前にいる流田星奈だったとしても、学は同じように彼女を心の拠り所にしていたはずだ。
「……どうして、泣いてるの?」
「――――え?」
学は言われて、中指で目の辺りを擦った。中指からは放たれる煌めきは、失われる星の、最後の輝きのようにも見える。
学は、どうして自分が泣いているのか分からなかった。分かろうとしなかった。
はっきりと、脳内の奥底にある事実を認識して理解してしまうと、もっと傷つくだろうと、気付いていたから。
「目に埃でも、入ったかな」
笑いながら言う学だった。目に痛みなどはない。あるのは、拭いきれない喪失感だけだ。
「……今日の夜、電話するね」
星奈はそう言い残すと、廊下の先へと歩を進めた。
去って行く彼女の背中を、学はじっと見つめる。今日の夜。何時もなら、家にはいないだろうし、スマホを見ることもない時間帯。だがそれも、昨日までのことだ。たった一日の違いでしかないのに、別の星に来たかのような感じがする。
昨日と今日では、世界がまるで違う。
学は彼女の背中が見えなくなると、自分の教室へと戻り始めた。
願わくば。願わくば、もう二度と。夜など来なければいいのに、と。そう、心の中に流れる星に、願いながら。
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