第9話
その日の夜。
学は、いつもと同じようにステラに会いに行った。学校での事もあったせいか、今日の学の心中には、ステラ以外の女性の影も見え隠れしている。学自身もそれに気づいているようで、どこか困惑したような顔をしていた。
「こんばんは、ナナシ」
「…………こんばんは、ステラ」
ステラは、いつもと変わらない眼差しを学に向ける。学はたじろんで、後ずさった。
「どうしたの?」
ステラが放った言葉は、突然奇妙な動きを見せた少年に向ける言葉としては、適切であった。だが、言葉ではなく彼女が見せた行動は、あまりにも刺激的だった。
学は、ステラが顔を至近距離まで近づけて来たせいで、更に後退することを余儀なくされた。
ステラはちょっとしたゲームだとでも思ったのか、後ろ向きで歩を進める学を笑いながら追いかけて行く。逃げて追って。数十秒ほどそのやり取りを楽しんだところで、学の足が縺れて、転びそうになった。懸命に空を掻く学の手に、細くしなやかな腕が差し出される。学は、迷うことなくその手を掴んで、転倒を回避した。
「大丈夫?」
ではない。
身体は無事だが、学の心は破裂寸前になっている。咄嗟に繋がれた二つの手は、未だ離されないでいた。
手に汗がにじむ。ステラの汗ではない。学は、気持ち悪がられることを恐れて、手を放そうとした。けれど、その手は理性を無視してより強く握られていく。石のように強固に、意志が固まっていく。
「ねえ、ステラ。聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
「どうして昨日、僕とキスをしたの?」
学が期待している返答。それは、一つしかない。というよりも、学は一つしか知らない。
キスは、好きな人同士がするものだ。
学はそう信じている。だから、ステラが即座にした返答は、いたいけな少年を混乱させた。
「したかったからした。それだけだよ」
「それだけって、どういうこと?」
「…………? どういうことって、それだけは、それだけだよ」
ますます分からなくなる。【それだけ】の中に、【好き】という感情が含まれているようには、到底思えない。ステラがキスをしたことに理由はなく、ただ本能に従った結果、ということなのだろうか。学がステラに抱いた、劣情と同じように。
「ナナシは、またキスがしたいの?」
学の身体が、硬直した。したいに決まっている。可能なら、その先だって――。
「ナナシがしたいなら、何度だってしてあげる」
そう言われて、学は初めてステラを少し理解出来たような気がした。
ああ、そうか。さっきステラが言った【したっかたから】の主語は、彼女自身ではなく、学だったのだ。
いや、もしかしたら学でもないのかもしれない。ナナシ、という、この場だけの人物が、そこに唯一当てはまるのかもしれない。
「ねえ、ステラ。僕がキス以上もしたいって言ったら、どうする?」
「いいよ。してあげる」
ステラは、逡巡する素振りもなく答えた。学は、彼女の虚ろな目を見て悟った。ステラの中には、誰もいないのだと。ナナシの中に学がいるように、ステラの中にも現実で生きる誰かがいるはずだった。けれど、そこには影すらもなく、ただ空っぽな空間が広がっているだけだった。
「キスする?」
学は、夜空に映る星のような彼女に魅了された。ステラが纏う不思議な雰囲気と、優れた容姿は、学の心を虜にした。
美しいステラ。
学は、夜の時間だけではなく、朝も昼も、現実の中で彼女と一緒に過ごすことを夢見ていた。そして、お互いをもっと理解して、歳の差はあるけれど、恋人になりたかった。
でもその願いは。星に乗って、夜空を流れ落ちて行く。
「もっと、させて」
「いいよ」
ステラは、夜にしか存在しない。そして、【ナナシ】の前にしか現れない。
何度も何度もむさぼるようにキスをしながら、学は思う。もしかしたら【ステラ】という女性は、自分が見ている幻なのではないかと。夜空に描いた、理想なのではないかと。
「キス以上も、いいんだよね」
「ナナシなら、いいよ」
夜気を肌身に受けながら、二人は人気のない橋の上で身体を交えていく。幻でも、構わない。学は、身体の中にこもる太陽のように熱い想いを、ステラの中に吐き出し続けた。
ナナシとステラ。この世界には、二人以外に存在していない。
互いが同時に絶頂に達する背景で。一つの流れ星が音もなく、燃え尽きていった。
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