第8話
学は昼休憩になると、いつもと同じように図書室にいた。何度も読んだことのある天体の本を手に持ちながら椅子に座り、本を広げる。傍から見れば読書をしているように見えるけれど、学の脳内では昨晩のことが鮮明に映し出されていて、学は読書そっちのけであの感触を反芻していた。
もう一度したい。
いや、一度だけでは足らない。唇同様に心が潤うまで、重ね続けていたい。
今晩、ステラにその願望を伝えれば、させてくれるだろうか。学は、軽く自分の唇に触れた。
ステラはきっと、嫌な顔一つ見せずまたキスをさせてくれる。そんな気がする。
だが、本当にそれで満たされるのだろうか。キスをする、ということは異性として好意を寄せている、ということに他ならない。学は、ずっとそう信じてきた。
けれどどうだろう。
確かに、自分からステラに対しては、女性としての魅力を感じていて、仮に恋人になりたいかと問われれば、即座に首肯してみせる自信はある。
しかし、彼女の方はどうだ。
自分の人生の半分ほどしか生きていないであろう子供を、男として見ることなど出来るのだろうか。あのキスは、異性としてではなく、赤ちゃんや幼児に対してするキスと同じようなものだったのではないのか。
ステラの心情を考えれば考えるほど、黒いもやもやが体内で渦巻いていく。果ての無いブラックホールの中を彷徨い続けて、あるはずもないステラの姿を懸命に探した。
「隣、いい?」
声に反応して我に返った学は、視線を本から声の主へと移した。座っている学の横に立っていたのは、学が恋心を抱いていたあの女子だった。
「いいけど」
今度は一体、何を企んでいるのだろう。そう勘ぐらずにはいられなかった。
この人物のせいで、学校での肩身が狭くなっているのだ。文句の一つでも言ってやろうか。なんて。別に恨んでもいない。今のこの状況は、自分で蒔いた種だ。彼女を恨むのは、お門違いも甚だしい。
しかし、間近で見れば見るほど、やはり可愛い。優れた容姿というシンプルな武器が、学の警戒の壁を簡単に打ち砕き、彼女の要望を断るという選択肢を学から消し去っていた。
「最近なんだか、変わったよね」
本を持たずに隣に座った彼女は、顔を学に向けながら小声で言った。図書室なので小さい声で喋りかけているのだが、学は彼女の囁く声に少し胸の鼓動が早くなった。
「変わったって、何が?」
「うーん、言葉で表現しずらいんだけど、何か変わった。不思議な感じと言うか……大人っぽくなった?」
もしそうなら、毎晩ステラと会っているからだろう。最近は、ステラ以外の人間と交流をしていないと言っても過言ではない。
自分では気づいていなかったけれど、大人の女であるステラと共にいたことで、彼女に纏うその【大人の雰囲気】が、自分にも纏われ始めていたのかもしれない。
それにまあ――キスもしたし。なんてことを思いながら、学は一言「確かにそうかも」とキザっぽく返答した。
「何かあったの?」
「……別に。特に何も」
ステラのことを正直に話す必要はない。彼女に対して、そんな義理も義務もないのだ。
「ねえ、連絡先、交換しようよ」
唐突に彼女は言った。学は思わず目を丸くして、彼女の顔を凝視した。正気なのか、と思わざるを得ない。目の前の少女は、自分を嫌悪していて、だからこそ学校中に誇張された真実を言いふらしたのだ。
目の前の少女が何を考えているのか、まるで分からない。
ステラの心情も理解出来ないでいるが、目の前の彼女はそれとはまた別のものではあるような気がする。もっとこう、打算的な何かがあるんじゃないだろうか。
陥れて、更に惨めにさせてやるというような。
学は、毅然とした態度で彼女の申し出を断った。惜しい、とも思ってしまう自分の気持ちを押し潰しながら、学は再び本に視線を移していく。先程までみたいに、ステラのことを考えている余裕はない。早くどこかに行ってくれ、と、流れ星に願うように、学は彼女に願い続けた。
だが。横に座る彼女は、燃え尽きて消え去ることはなく、流れ落ちる方向を、学の元へと向けたままその存在を示した。
「あの日のことは、ごめんなさい。でも、あの時は私も見られていて嫌な気分だったから……それで、お兄ちゃんに相談したら、あんなことになってしまって」
傷つけたのは自分ではなく兄。だから、自分は何も悪くない。そんな意思表示は、学には無意味だった。そもそも学は、彼女の行為全てに対して、怒りや恨みなどない。彼女が自分を攻撃してくるのは、当然のことであると、そう思っている。
「謝る必要はないよ。不快なものを除去しようするのは、普通だからね。だから、当然の結果だったんだ」
「そう……なんだ。じゃあ、怒ったりしてないなら、連絡先の交換とかしてくれても……」
「好きな人がいるから」
彼女の言葉に被せるように、学は言った。自分でもうやむやなその気持ちを、初めてはっきりと口にした。頭の中で思案した末に出した言葉ではなく、咄嗟に飛び出たその言葉は、最早逡巡する余地を与えない。
「……それって、何組の子?」
「学校の人じゃないよ」
「じゃあ、何処の人?」
「…………」
答える義理はない。けれど、それとは関係なく、学は答えることが出来なかった。学自身知らないのだ。ステラ、という女性が何者で、どういった人物なのか、まるで知らないのだ。
ステラは星のように美しい。
そんな、陳腐な事実以外――学は何も知らない。
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