第7話
「こんばんは、ステラ」
「こんばんは、ナナシ」
二人は挨拶を交わす。何度も行われているその出会い頭の挨拶は学にとって、苦悩に満ちた現実から夢の中の現実へと向かうための儀式のようになっていた。
「今日は両親とも家にいなかったから、簡単に抜け出せたよ」
「そう。よかったね」
たまに学が自分やその周囲について話してみても、ステラはいつも素気ない返答をしてくる。興味を持たれていないのだろうか、と不安にはなるが、横に座ると初めて出会った頃と変わらない笑顔を、ステラは向けてくる。
この笑顔は作り物なのか、それとも好意の表れなのか。不安になればなるほど、学はそんなことを考えてしまう。どれだけ考えても、その答えは学の中にはない。
「二人とも、今日はなんだか妙に仲が良くってさ。僕の前で、キス、したりなんかしてて……ほんと、まいっちゃうよ」
学は意識的に【キス】という単語を強調しながら言った。あわよくば、ステラがそこに食いついてはくれないだろうかと、下衆な思考が学を支配していた。
性の欲求。それもあるが、ステラからの好意を確認したいという欲求も、その思考の中にはあった。
もし、ステラが自分とキスをすることを容認してくれるのならば、それはつまり、自分を好きだと、そういうことだろう。
好きでもない人とキスは、しないはず。
まだ中学生の学は、懸命に自分主軸の真実を信じ込んでいた。
「仲が良いことは、いいことだよ」
ステラは、微笑みながら言う。
学の意気地のない主張を無視された、とそう見えたが、ステラの表情はそうではないことを物語っていた。
笑みに隠れる意地の悪さが、上がる口角に映し出されている。
「私とナナシも仲良し、だよね?」
小首を傾げながら言うステラにたじろいで、学は思わず上半身を反らした。物理的距離を出来るだけ取らないと、宇宙誕生の奇跡が学の体内で起こってしまいそうだった。
「仲良し、だと、思うよ」
歯切れの悪い言葉を並べる学を眺めながら、ステラは目を細めた。学は、自分が発した【仲良し】という言葉に、男女の関係を含めたことがばれているような気がして、視線を逸らした。
思う、と付け加えたのは、ステラと自分が男女の関係であるという絶対的な自信がないからだ。そう。例えば、キスのような、恋人がする行為をすれば、きっと自分たちは男女の関係であると、胸を張って言える気がする。
「ナナシは、私とキスしたい?」
そう言われて、学は座った姿勢のまま飛び跳ねるようにしてステラから距離を取った。異性に想い馳せる多感な時期の男子には、ステラの言葉は刺激が強すぎたようだ。学は目を見開いて、荒い呼吸を繰り返しつつ星を眺めた。
「逃げるってことは、したくない、ってことかな?」
「――っ。し、したい!」
天の星に向けて叫ぶ。
滑稽でもあり可愛くもある学の様子に、ステラは声を出して笑った。また、からかわれたのか。学がそう思って悔しさを噛みしめるように目を瞑ると、左の頬に柔らかな、濡れた感触が優しく触れる。
「――え?」
目を開き、横を向く。
温かな命の呼気が、顔を撫でた。星のように美しい。彼女の顔が、そこにはあった。
「君は誰?」
ステラが問う。学が惑う。
一瞬の逡巡すら、ステラは許さなかった。
「君は誰?」
「僕は、ナナシだよ」
ステラは、満足そうに微笑む。
「そう。そして私は、ステラ。この世界には、ナナシとステラの二人だけ」
だから。ここで起きたことは、全て。加藤学とは、無関係。
ナナシは、ステラの言外の意味を汲み取って、彼女が突き出した無防備な唇に、自分の乾燥した唇を重ねた。
自分の唇にある未知の感触。もしかしたら、まだ自我の芽生えていない幼児の頃に、同じ体験をしたことがあるのかもしれないけれど、学にとってこれは明確に《初めて》の経験だった。
初めてのキスは甘酸っぱい、なんてことをどこかで聞いたことがあったような気もするけれど、味を確認する余裕など、学にはない。平常心を保ち、おとなしく唇を重ねているだけで精一杯になっている。
一分ほどが経って、二人の唇が離れた。潤いを得た学の唇は、風に触れて少しひんやりとした。
「じゃあ、お話聞かせて」
ステラは、いつもと変わらない様子で言った。
学の動悸はまだ収まってはいない。ステラは、学と違って慣れているようにも見えた。
自分だけ動揺して舞い上がっていることに、学はどこか寂しさを感じた。
今、この世界には自分とステラの二人だけ。唯一の他者である彼女が、対等な存在ではないと、思い知らされたような気がした。
学にとってキスをする、なんていうものは、人生観が変わってしまうほどの大事件である。しかしながら、ステラにとっては、太陽が光を放っているように自然で日常的なのかもしれなかった。
胸を張って男女の関係である、なんてことは。当然、言えるはずもない。
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