第50話 業 その2
少年の人生を総括すると、常に自分と他人を比べる生活だった。それを強要されたわけではない。"足りないものは、足りるものが与えればいい"という教えの元、他人の不足と自分を比較して、何を満たせばいいのかを理解しようとしていたのである。
少年は律儀にも、父親の教えを守ろうとしていた。
そうするには、人との関わる力があまりに未熟だった。
「父さん。疲れているの?」
「……お前に関係ないだろ」
閉じられたカーテンの隙間から、おぼろげに光が差す。薄暗い部屋の中で、父親はソファの上で毛布に包まって横になっていた。それを遠くから少年が心配そうに眺めている。
少年は十歳になった。
少年の目には父が疲れているように見えた。ここ最近、物心ついた頃から住んでいたマンションを引き払って、古びた一軒家に住み始めてから異様に家に居ることが増えた。
毎朝何かに急かされるように家を飛び出し、夜になって疲れて帰ってくる父を心配していた。しかし、それがめっきり減り、ずっと家に閉じこもるようになっていた。
その時の父親の顔が、今こうしてソファに寝転がって少年には何かに耐えているようで苦しそうに見えた。
少年は癒しが足りないと考えた。子供と遊ぶ親はとても幸せそうな顔をしていた。自分もそうすれば、父親を救えるのではないか、と。
「あ、あのさ。よかったら、一緒にキャッチボールしない?」
少年の誘いに父親は答えない。布団にくるまり、傍から見れば外界をシャットアウトしているようにも見える所作。しかし、少年は何としても救いたかった。自分はこの人の子供で、親の全てが正しいと信じて止まなかったのである。
それは、他人からすれば、ただの善意の押し付けに過ぎなかった。
「ほ、ほら。久しぶりに晴れてるからさ。そんな辛気臭いとカビ生えちゃうよ。ねえ、ねえっ!!」
少年は無理矢理父親の毛布を引き剥がし、手に持ったボールを父親の顔の前に差し出す。子供が親にイタズラを仕掛けて、追い掛け回されているのを見たことがあった。その時の子供と親の顔はとても幸せそうで、自分も同じようにすれば、父親もきっとそうなれる。
本能はそれは危ないことだと訴え続けた。しかし、自分みたいな足らない奴より、周りの大人や子供達、父親が正しい。そう信じていたのである。
「ねえ、あそぼ?」
父親はのそりと立ち上がると、少年の前に立ち塞がる。異変を感じた時には既に腹を蹴とばされていた。それから倒れたところに何度も腹を蹴られ、髪を掴まれて、顔面を殴られた。
少年は何度もやめて、と懇願した。同時に、どうしてと考えていた。他の子たちと同じようにしたのに、何で自分だけこんな目にあっているのか本気でわかっていなかった。
ふと、父親と目があう。
また一つ想定とのズレを理解させられた。自分を睨みつける父親の目からは幸せなんて何一つ感じられなかったのである。その正体を掴もうとして、怖くなって考えるのを止めた。しかし、暴力は収まらない、床にその日の給食だったものをぶちまけようが、血を吐こうが終わらなかった。
「お前が、僕の、言うことを聞かないのが悪いんだッ」
「いだい、おどうさん……うわあああああ」
「こんなことで泣くなよ、僕の方がずっと、僕がどれだけ……謝れ。謝れよッ」
「ご、ごめんあさい。ごめんあさい、うぐっ」
父親は気の済むまで少年を殴りつけると、その場を後にした。少年はやっと許してもらえると思い、朦朧とした意識で父親の元へ向かおうとした。謝る為だ、自分が間違えたから頭を下げないと。そう思って、痛む体に鞭を打ち続けた。
「お前は本当に悪い子だな」
「と、とうさん。ごめんなさい、ぼく」
「じゃあ、外に出てろ」
「え」
「反省するまで、中に入るな」
「ちょっとまって。今冬だし、ぼくもう反省して――」
ふらふらの体を引っ張られ、家の外に追い出された。玄関の引き戸はぴしゃりと閉じられ、少年が開けようと引くが動くことはなかった。鍵が閉められている、どうしようもなかった。
「あ――?」
少年はわからなくなっていた。大人が全て正しいと思っていた。だから父親の真似をして、自分を虐めた奴はひたすら殴って黙らせたし、教師が親と会話しろと言えばそうして来た。子供と会話する親の顔に笑みが見えれば、それが正しいと思って、同じことをした。
皆と同じことをしてきた。それなのに、何で自分はこんなことになっているのか。何が間違っているのか。何が正しいのか、まるでわからなくなってしまった。
「ねえ、ぼく。まちがってないよね?」
(みんなのまねしたんだ。だって、みんな正しいから。ぼくだけが間違えて来たから、みんなのまねすれば間違えることもないって。テストだってそうじゃない、答えの通りに書けば正しいじゃない。ねえ、なんで)
「なんで?」
冬風が少年の頬を撫でた。冷えで痛みも染み、息を吸うだけで激痛が全身を満たす。苦しい顔を浮かべるのも悪いことだと刷り込みされた少年は、少しでも無表情でいようと頭の中で必死に自分の感情を殺した。
答えなんて誰も教えてくれない。ただ、自分が何かをすれば間違っているとか止めろとだけ言われる。誰も何をすれば良いのか教えてくれない。それが少年には辛くて辛くて仕方がなかった。
「はやく、はやく移動しなきゃ」
過去にも似たようなことで家を追い出されていた。その時は夏で、街を歩く姿もちらほら見かけた。そんな中、少年は同じようにボロボロになりながら玄関に背もたれて、父が許してくれるのを待った。黒い帽子と制服を着た大人達がやって来て、父親と何かを話し始めた。
父親は少年には見せたことのない綺麗な笑顔で、「誤解です」と言い切った。少年には何の誤解なのかわからなかった。
理解が追いつかないまま会話が終わると、父親はその人達の姿が見えなくなるまで見送り、居なくなったかと思えば少年を無理矢理家に入れて、
「二度と家の外に居座るな。警察に通報されるだろう。お前は僕の言うことを聞いてればいいんだ」
悪いことはするな、そう少年を怒鳴りつけた。
そんな毎日だった。常に誰かに監視されて、誰かに怒られないように、不快にさせないように、それだけを考えて、自分に足りないものを猿真似で補って、普通であろうとした生活。
その経験が、少年の足を動かしていた。
全て生きる為だった。
世の中が間違いだらけだと知ったのは、少年が自分の最期を決めた時。
かつての痛みや悲しみ、恨みは消えない。未だに悪夢に苛まれることだってある。取返しの付かないことはいくらでもあった。
「まちがえたやつがわるいんだ。おれはなにもまちがってない」
それでも歩みだけは止めない。
全ては植え付けられた忌々しい記憶と決別する為に。
◇ ◇ ◇
当時を思い出せば、脳内に響き渡る喧騒も何事もなかったかのように息を潜めた。
生きる理由なんて無い、本能の前にひれ伏しただけ。死ぬという覚悟は偽物だった。
でも、思うのだ。それがどうした、と。俺は我慢ならなかっただけだ、誰かに道を示されるのが。誰かに道を奪われるのが。奪われるのは俺のせいじゃない、奪う奴が悪いのだ。
そう、俺が求めるべき覚悟は、死を求めることじゃなくて、間違いを否定することにこそあったんじゃないかって。
「ぼちゃん」ともう一度唱えると、頭上に小さな球状の水たまりが出来た。それが重力に従って落ちて、頭にぶつかる。水が弾けてベッドは水浸しに、顔面もびしょ濡れ。
さっきの魔法より、ずっと冷たい。
それでいい。
柔らかな感触を踏み台に立ち上がる。それから内と外を繋ぐ一枚扉を湿った手でそっと触れる。木目から伝わる滑らかな手触り。いくつもの溝から無作為に選んだ一つをなぞり、途中で道が二つに分かれた。そのどれも無視して、自分の爪を目一杯に押し付けて、新たな溝を作る。
ちぢれてやせ細った不格好な道。全く滑らかではない、木片が指先に突き刺さり、血が滴るような、そんな道。
俺がひとりで生きる道。
「邪魔する奴は全員殺す。どんな奴であっても、絶対に」
目指す場所なんていらない。
ただ、あるがままに生きられれば、それでいい。
甘えた自分を冷たい現実で狂わせて、余韻に浸った体で扉を開けた。
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