第49話 業 その1

「いいか。お前は正しく生きるんだ」


 正しさとは何か。

 わずか三歳の少年に、答えなど持ち合わせる訳もない。ただ、正しさとは何かを説く父親が、自分を生かしてくれる存在が白だと言えば、それが白なのだと本能で信じていた。

 幸せとはひとりのものじゃない、みんなのもの。足りないものは、足りるものが与えればいい。それが父親の目指す正しさで、社会の求める理想で、その正しさを理解するには、少年は余りにも幼過ぎた。


 父親は仲間が欲しかった。自分に賛同してくれる仲間が。それを自分の息子に求めてしまった。

 だが、残念ながらわずか三歳の幼児にそこまでを汲み取る能力は無かった。無垢であるということは、どこまでも自分本位であるということ。

 ただ、生きられればそれで良かったのである。


 少年は父を正しさの象徴と認識した。

 すべて、生きる為の適応だった。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」


 午前0時。

 家賃四万円、ワンルームのマンションから叫び声が上がった。テーブルの上で項垂れる少年の父は、ぐしゃぐしゃに潰れた紙切れを握りしめ、その周りには乱雑に破かれた紙片が散らばっている。

 最愛の妻だった女性から一方的に送り付けられた離婚届。生涯支えると誓ってくれた女性は、男から金が無くなったと知ると、相談一つもなく家族を捨てて逃げ出した。


「永遠の愛を、誓い合ったじゃないか」


 呟くように吐き捨てられた悲痛な訴えは誰にも届かない。眠気を阻害され、騒音に恐怖した少年の泣き声が全部掻き消してしまった。

 父親としての責務だけは消えない。覚束ないながらも、どうにか少年を泣き止ませようと抱いてあやす。しかし、育児は妻に任せっきり、かつ育児経験など持ち合わせている訳もなく、結果は散々なものだった。


「わああああああああん、わあああああああん」

「静かにしてくれ、お父さんが悪かったから……」


 不景気が来るまでは円満な家庭だったと自負していた。

 仕事に精を出したこともあり、毎日のように残業もあったが、それでも笑顔で帰りを待つ妻や子の顔が見られれば、疲れなんて簡単に吹き飛んだ。なにものにも変え難い、最愛の時間だった。

 だが、それは父親から見た家族の姿。

 実情は、妻が子供の面倒を見て、仕事で夜遅く帰る父親の為に夕飯を用意し、風呂を用意し、子供を寝かしつけ、夜も満足に眠れず、誰にも助けを求められず、ずっと一人で必死に家庭を守り続ける生活。

 追い討ちに金銭苦まで加われば、つぎはぎだらけの幸せなんて簡単に壊れることを、この夫婦は知らなかった。


「まーま、まーま」

「僕はパパだよ、ほらパパって呼んで」

「ぱーぱ、ぱーぱ、ままは?」

「ママは、いつか帰ってくるよ」

「まま、あいたい」

「……そうだな」


 父親は自分達を捨てた妻を憎んだ。自分の金や名誉に惹かれただけのクズなのだと誤認した。きっかけは小さなすれ違い。

 そして、その小さなすれ違いは、親子の間に決定的な亀裂を生み出した。


 時は進み、小学校入学式。

 少年は成長し、六歳になっていた。だぼついた制服を着て、その場に立ち尽くしている。少年の目をくぎ付けにしていたのは、親に手を引かれて学校の門を潜る新入生の姿。その姿に違和感を感じながらも、気に留めることはせず少年は門をくぐる。

 父親からは「仕事だから行けない。絶対に遅刻はするな、地図は渡すからひとりで行け」と言われ、家を追い出された。

 先を歩く子供達に続き、どうにか会場の体育館に到着。誘導係の指示に従い、新入生向けの小ぶりな椅子の一つに座る。少年が辺りを見回すと、辺りを見回すと、次々とやって来る子供たちが親と共に自席を埋めていく。空席が少しずつ消えるのを見ていた少年は、ふと、あることに気付いた。


(あれ、ぼくのとなり。あいてる)


「あ、あの!」

「どうしました? えっと、君の名前は……――くん?」

「はい。ぼ、ぼくのとなり。まだひとがきてなくて」


 時刻は八時五十五分、始業式は九時。遅刻したら空席の主が怒られてしまう。怖くなった少年は、近くで見張りをしていた女教師を呼んで、右隣に空席があることを伝えた。


「あー、その子は欠席なんです」

「けっせき?」

「そう。用事があってお休みなの。私達は知ってるからそれで大丈夫よ。わかりましたか、――くん?」

「わかりました」


 少年は大人に言われた通り、気にしないことにした。

 結局、式が終わっても隣は空席のままだった。


 少年の父親が入学式に顔を出すことは無かった。小学校を卒業して、中学校を卒業して、高校に入るまで、家を除いて顔を合わせる事はなかった。

 学内における金銭面以外の全てを、少年はひとりでこなした。

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