第9話 俺はこの世界に触れる
生暖かい風が顔に吹きかけられる。恐怖のせいで、体が鉄のように固まって身動きを許してくれない。死ぬかもしれないのに、何も出来ないと言うのは想像以上に気が狂いそうだった。
「グゥ?」
ドス、ドスと鈍い音を立てて、囲むように何かが俺の周りを動きまわっている。不用意な真似をすれば一斉に俺を食い散らかすだろう。
それが目と鼻の先まで迫るのを感じて、背筋からゾワリと汗が噴き出す。喉は一瞬でカラカラに乾いた。パニックと平静が混ざり合い、吐き気と目眩といった健康状態にまで影響を与える。
早く終わらせてくれ。そう何度も願いながら、その時はやって来ない。
「ハッ、ハッ、ハッ」
「ギュルルルウ、ゴァ」
足音は止まず、むしろ数が増えている。そのうえ、今度は耳元から明らかに人ではない息遣いがする。間抜けな俺でもわかる、コイツらに遊ばれているという事実。効率だとか覚悟だとか、用意していた建前は次々と剥がされ、残されたのは無力なガキだけ。
「キャ、キキキキキキ」
「グォロロロラロロ」
早く殺してくれ、俺はもう抵抗なんてしない。死ぬ覚悟は出来ている。しかし、その時は来てくれない。ずっと観察されている。
願いはまるで届かない。
「……はは、そうだよな」
言葉にして、ようやく足音がピタリと止んだ。そして、血の様に赤い二つの光が闇の中に浮かび上がる。フワフワとじれったく揺れ動く様は、俺を品定めしているようで。それから目を背けようとしても気配は消えてくれず、気付けば俺を囲うように数えきれない程の赤い光が怪しく揺らめいていた。
恐怖する理由もない、最初から俺はここの住人だった。誰かに監視され、色を出そうものなら存在を否定されるだけ。
怖いと思う必要なんてなかった、それを否定する為に俺は自分を終わらせたのだから。また同じことをすれば良いだけだ。
「生きる理由なんてない。生きる必要なんてない」
逃げだろうが何だろうが、どうでも良かった。
奴らは最初から目と鼻の先にいる。さっきから石が潰れる音が鳴り止まない、それだけ俺を狙ってる奴は大きな存在であるということ。そんな奴が群れで俺の体を引きちぎって、食い散らかす様なんて簡単に想像できる。
喰われるのは一瞬だ、大丈夫。痛いのには慣れてるから。
さあ、一思いに……
「目を覚ませッ」
その時、頭にぶん殴られたような衝撃が襲った。
「痛ッ!?」
「何をしている」
何が起きたのかまるで呑み込めなかった。だが、その言葉を皮切りに、さっきまで見ていた光の集まりは、吸い込まれるように視界の歪みと共に薄れ始める。
直後、俺は急にめまいと耳鳴りに襲われ、バランスを崩してしまった。それを誰かに支えられ、滲んだ視界が戻って、ようやく支えてくれたのが勇者であることを理解した。
そして、
「――うわっ」
暗闇が消え、代わりに現れたのは死骸だった。俺の体よりもデカい、カミキリムシを彷彿とさせる昆虫の頭が転がっている。そして、この昆虫の頭上や横に転がっている体の断片には、びっしりと真っ赤なキノコが生えていた。
「この赤いのがニトロツムジダケだ。火薬のような匂いは幻覚作用があり、親玉の元へと引き寄せる」
「ちょ、ちょっと待ってください。確か俺は――」
「幻覚だ。君はひとりでに洞窟の中へ入り、うわごとのように何かを喋っていた」
それを証明するように中に光は届いていて、勇者が口元を布で隠しているのが見える。一体どこからが幻だったんだ?
「シア」
「な、なんですか」
勇者の顔は険しい。
「君は、本当にそれでいいのか」
「……何ですか。いきなり」
「覚悟を問われた時、確かに君は応えた。言い方はどうであれ、それが真理だと俺も思う。だが、それは君の本心か?」
「本心ですよ。俺は弱者というものを理解している」
「理解はしているんだろうな、だが納得はしていない」
さっきから回りくどい。何が言いたいんだ、この男は。
「何を恐れている? さっきの君は、見えない物に怯えているようだったぞ」
何を恐れてるって? 知るかよ、知った口聞きやがって。
「口先だけでは、この世界はやっていけない」
「口先じゃありません。俺は覚悟を決めてます」
「それは君の本心か?」
「だから、そうだと言っているでしょう」
勇者は目を瞑り、何か考える素振りを見せると「そうか」と答えて、
「なら、ここで君の覚悟を試す」
「……ハァ?」
「君に一つ情報を与える。どうするかは君が決めろ」
取り繕った俺の意地を切り捨てたのは、勇者から告げられた冷酷な現実だった。
「俺達を殺そうとしている奴がいる」
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