< 第三章 > - 第四節 - 「無」


 休憩を終えた田中と源藤は、先程修練した場所へと戻ってきた。

 戻りながら、もう少しで掴めそうだった「何か」について、田中はずっと考えていた。

 先程体感した、研ぎ澄まされたような感覚は、ついぞ体験したことがなかったのだ。バイクで峠を走っている時に体感する、あの感覚とはまるっきり違ったのだ。


 コーナーのRを瞬時に把握し、最適なスピードで、車体をバンクさせてアウトから入り、目に飛び込んでくる路面の状態、傾斜や工事跡、水溜りに油染み、落葉や小石、ひび割れに至るまで、すべての状況を瞬時に把握し、最適なコース取りを見抜く。そして、絶妙なアクセルワークとブレーキングで、理想のコースを抜け、再びアウトから立ち上がり、コーナーを抜ける。


 制限速度内の攻防に過ぎないが、それでも神経が研ぎ澄まされ、アドレナリンが出て、最高のツーリングになる。いやなっていたのだ。

 それが、今となっては、そんなツーリングで体感する感覚が幼稚に思えるほど、身体の底から震えるほど最高の感覚を、今日は体感したのだ。


 しかし、その興奮するような感覚も、田中の疑問には答えてくれない。

(一体何なんだ。)

 田中は頭をフル回転で考えるが、答えは出てこない。

(駄目だ、考え過ぎる。こんな調子じゃ、無の境地なんてとてもじゃないが無理だ。)


「田中君、では、さっきの続きと行こうか。まずは、肩幅に足を開いて、全身をリラックスさせて、吐納法だね。

 ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。腹式呼吸の要領で、まずは下腹部に鼓動を感じるまでやってみようか。

 鼓動を感じたら、さっきと同じように手を上げて。」

源藤が、田中の逡巡など気にもせず、そう言うと、

「分かりました。」

田中もそう言って、ひとまず考えるのを辞めて、休憩前にしていたのと同じように、姿勢を正し、吐納法を開始した。


(無の境地。無の境地。何も考えるな。意識するのは鼓動だけだ。)

田中は、自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐くことを繰り返した。


 今回はものの一分もしないうちに、鼓動を感じられた。

 田中がおもむろに手を上げると、

「もう、鼓動を感じたのか。コツを掴んだのか、才能なのか。はたまた……。

 分かった、いずれにしても、次の段階だな。」

と驚きながら源藤は続けた。


「そうしたら、体外に流れている気を感じてみようか。

 さっきも説明したとおり、吐納法を続けながら、リラックスすること。これが一番重要だから。

 それと、体内に流れている気を丹田に流すのと同じように、体外の気の流れを丹田に流すことを意識すること、これがコツだから。

 無の境地と京極君も言ってたが、まずは、何も考えずに無心になることだ。吐納法を意識することなく、気の流れを感じるようになれば、自ずと感じるはずだから。」

源藤の説明に、田中はゆっくりと頷いた。


 5分、10分と時間が過ぎていくうちに、田中は焦りを感じるが、焦りは禁物だと自戒し、ひたすら吐納法を続ける。


(とっくに、頭ん中ははっきりしてるのに、なんでこのモヤモヤが取れないんだよ。)

 1時間も経っただろうか、田中の意識は今までにないほど明晰になっていて、感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。


 肌に触れるあらゆるものの動きが手に取るように分かり、体毛の揺らぎから、皮膚を押し開け、汗腺から汗の吹き出るその感覚までが、明確に感じ取れるのだ。

 もちろんそれだけではない。鳥の囀りや虫の羽音に始まり、木々や草木が風で擦れる音、遠くにいる作業員の、微かに聞こえる話し声や作業音に至るまで、耳に届くあらゆる音が鮮明に聞こえ、木道やベンチに塗られたペンキやニスのにおい、生臭さが混じった草いきれのにおい、どこから漂ってくるのか分からない動物の体臭や糞のにおいなど、其処此処から漂う様々なにおいをはっきりと感じ、極めつけは空気の流れそのものも、手に取るように分かるのだ。

 目を瞑っているはずなのに、まるで目を開けて見ているように、前も後ろも右も左も、そして上も下も、そこに存在するすべての事象が認識できるのだ。


 しかし、それは靄がかかったような、いやモザイクがかかったような、薄ぼんやりとした、何かはっきりとしないものなのだ。

 もう少しでそれがなんなのか掴めそうな気がするのに、どうしても掴めない。もどかしさが募るだけで、気持ちばかりが焦るのだ。


 源藤は、田中の表情が変わったのを見て、

「田中君、そろそろ何か感じ取れるようになったかな。」

と聞いてきたが、田中はゆっくりと首を横に振った。


 靄のような、はたまたモザイクのかかったような、このモヤモヤする感覚は、いまだに拭えないのだ。源藤の言う『気の流れ』とはほど遠いものであろうと、田中は考えていた。

(もう少し、もう少しで掴めそうなのに。)

焦る心を必死で押さえ込み、どうしても晴れないモヤモヤと田中は格闘していた。


「田中君、本当に何も感じられないのか。」

田中の反応に疑問を持った源藤は、田中が首を振った意味を確認するために、再度問いかけたが、田中はゆっくりと頷くだけだった。


 実は、源藤には感じとれていたのだ、田中の身体に流れ込む、大量の気の流れを。

 源藤は気の流れを熱として感じることができるのだが、田中の周辺の温度は少し高くなっていて、空気の揺らめきを感じていた。そして、田中に向かってその温かいものが流れ込んでいるのを、感じ取っていたのだ。

 この状態で何も感じないとなると、相当鈍感か、何か勘違いをしているかのどちらかでしかないのだが、会長や工藤さんの様に、一発で原因が特定できるほど源藤に力量がないため、アドバイスしてやることができないのだ。

 悔やむ源藤だが、力量不足はどうしようもない。自分の力不足を嘆く前に、原因を特定しないと、と源藤は考える。ただ、もし田中が何かを掴む寸前まで行っているなら、中断させるべきじゃないし、かといって、このまま続けさせても徒労に終わるなら、それは無駄な時間にもなってしまう。

 源藤は、悩みに悩んでいた。


 すると、田中がおもむろに手を上げたのだ。

 源藤は破顔して、

「何かを掴んだのか!」

思わず大声で叫んでしまった。

しかし、田中の表情は晴れず、首を横に振っただけだった。

そして、呼吸を整えながら、ゆっくりと目を開け、吐納法をやめた。


「源藤さん。済みません。言葉にしないと、自分の現状を説明できないので、勝手に中断しました。」

田中は息を整えると、申し訳なさそうにそう言った。

「いや、別に良いんだよ。それで、どうした。」

源藤は、何かトラブったのか、やり方に問題があったのか、それとも他にのっぴきならない問題が起こったのか、頭の中であらゆる嫌な可能性が浮かんできて、心配になり、おずおずと聞いた。


「はい、実は何か掴めそうな感じがするんですが、どうしてもそれが掴めないんです。靄のような、モザイクのような、なにかよく分からないものが邪魔をして、モヤモヤした感覚がするんです。

 感覚は非常に鋭敏になっていて、空気の流れだけでなく、身体の周囲にあるすべてのものを感じるんです。

 ただそれが、京極さんが言ったような、霧でも、光でも、熱でも、闇でも、冷気のどれでもなくて、何も感じないんです。いや、モヤモヤを感じると言った方が正確なのかもしれません。

 自分でもよく分からないのですが、意識ははっきりしているのに、感覚がはっきりしないんです。ものすごくもどかしくて、上手く説明できないんですが、とにかくあと一歩で何かを掴めそうなのに、それを掴かむことができないんです。ずっとそんな感覚が続いているんです。

 実は休憩する前にも、この感覚はあったのですが、どうやったら突破できるか分からないんです。

 焦ってしまって頭を無にできないことに原因があるのでしょうか。それとも、呼吸法が間違っているとか、なにかやり方が間違えているのなら、それを教えて欲しいんです。」

 田中は、焦燥感に苛まれ、焦っていた心に沸き起こった疑問を、すべて源藤にぶつけた。


「なるほど、そう言うことか。わかった。ちょっと待ってくれ。」

 源藤は、田中の説明を聞いて、頭をフル回転させたが、結局答えは出なかった。源藤が指導してきた建築部のメンバーに、そんなことになった人はいなかったからだ。

 2日目で心得其の一に達成した仙道でさえ、周囲の気の流れが変わったのは2日目になってからだ。そして流れが変わった途端、すぐに反応し、体外の気の流れを感じ取ることができたのだ。一番時間のかかった京極でも、4日目に気の流れが変わった途端、すぐに反応したのだ。


 しかし、田中は違った。吐納法を始めた瞬間から、気の流れが変わり、低きへ流れる水のように、田中へと向かって気が流れ込んでいくのだ。ところが、田中はそれを認識できないと言う。


 最初は鈍感なのかとも思い、経過を観察するつもりだったが、鼓動を感じるのは早かったので、源藤は違和感を覚えた。

 そして、体外の気を感じる段になった途端、田中に流れ込む気の量は尋常ではなくなったが、結局それを田中が感じ取ることはなく、今に至ったのだ。

 田中の言い分を聞いた源藤は、何か原因の特定ができるかもと思ったが、結局原因は分からなかった。


 田中が鈍感なのではない。むしろ鋭敏すぎるぐらいなのだ。モヤモヤを感じると言う話を、源藤は入社してから20数年、このかた聞いたこともなかったが、田中自身が感じているモヤモヤは紛れもなく気の流れであるのだろう。

 しかし、ここで結論を出すのは早計だろうと、源藤は考えを巡らせたが、結局為す術がなく、最後の手段とスマホを取り出し、電話をかけ始めた。


「あっ工藤さんですか。お疲れ様です、源藤です。済みませんお忙しいところ、今大丈夫ですか。……ありがとうございます。

 実は田中君のことで、ご相談したいことがありまして。……はい。実は、今日から心得修得の訓練に取りかかっているんですが。気の流れを感じる段階で問題がありまして。

 ……はい。そうです。本人によると、感覚は非常に鋭敏になって、周囲を認識はできるのに、気だけが感じられないと言うんです。靄かモザイクがかかったみたいに、モヤモヤするだけで、その正体がわからず、なにかがそこにある感じはするのに、と言ってます。

 ……はい。そうです。実際私が見ても、彼へ気が大量に流れ込んでいるのは確認しています。彼を纏う気は、尋常じゃないので、おそらくそれを感じ取っているのだとは思いますが、本人はそれを認識できないようなのです。

 ……はい。私もそう思います。……そうなんです。……えっ、無ですか。……そんなものがあるんですか。……そうなんですね。だから何かと勘違いして、認識できていないと思い込んでいると。……なるほど、分かりました。

 では、田中君にはどう説明したら良いでしょうか。……そうですか。それは助かります。本人にはそのように伝えます。

 ……はい、大丈夫です。……午後帰社しますので、2時ぐらいにはお伺いできると思います。……はい。分かりました。お忙しいところありがとうございます。では、後ほど。……失礼します。」


 ペコペコしながら電話をしていた源藤が、電話を切ると、田中に向かい直して、今電話で話したことを、要点を掻い摘まんで話した。


「無属性ですか。」

田中は源藤の説明を聞いて、思わず問い直した。あまりに荒唐無稽の単語が出てきたからだ。無属性なんて言葉は、ゲームやアニメの中でしか聞いたことがなかった。


(マジ訳分かんねぇ。無ってなんだよ。じゃ、俺は気を感じることができないってことなのかよ。あまりに滑稽な話じゃんか。後もう少しで何かが掴めそうだったのに。)


 田中自身が感じる気の流れが「無」であり、属性がない「無属性」なのだと源藤は言った。気の流れを感じることすら荒唐無稽な行為だったのに、さらに属性がないとまで言われ、田中は驚きと、怒りと、呆れと、そして滑稽味を感じていた。


「そうだ。工藤さんが言うには、無属性である可能性が高いそうだ。詳しくは彼女から直接説明があるそうだから、その時に色々質問すると良いよ。

 私も無属性と言うのは初めて聞くからね。よく分からないんだよ。

 ただ、気の流れを感じることはできているみたいだから、そこは心配しなくても良いよ。

 本当に力になれなくて済まないね。」

源藤は申し訳なさそうにそう言った。


「いえ、そんなことないです。自分が変な属性持ちで、逆に申し訳ないです。お手数をかけてしまったようで。」

思うところは色々あっても、尽力してくれた源藤に対して、田中は申し訳なく感じていた。

「手数なんて気にすることないよ、ウチは自然を相手にしているんだから、不測の事態は当たり前。これは手数の内に入らないから、気にしないで。」

源藤は優しくそう言って、声もなく笑顔を見せた。

「ありがとうございます。」

田中のために知恵を絞り、考えを巡らせ、解答を導き出そうと尽力したが、力及ばなかったことを思い悩んでいるような、そんな源藤に、田中は項垂れながらも感謝した。


「それにしても、無属性とは驚いたね。他の部署にも多分いないと思うんだよな。大体、光、熱、水に大別されるから、無属性と言うのは珍しいんだよ。工藤さんも数例しか知らないって言ってたし。

 とにかく、工藤さんの詳しい説明を聞いてから、田中君の訓練について考え直す必要があるかもね。」

源藤は、ぽつりぽつりと、そんなことを言いながら、頭をひねらせていた。


「いずれにしても、工藤さんの話を聞いてからと言うことですね。ところで、この後どうしますか。修練を続けますか。」

田中は自分のせいで修練が中断していたのを済まなく思い、この後どうするのか聞いた。

 無属性だとしても、気の流れを認識できていることには変わりないと、源藤は言った。であれば、このまま修練は続けるだろうし、ここで終わりにする意味もないだろうと、田中は考えたのだ。


「そうだね、おそらく田中君は体外の気を感じることはできているので、第一関門は突破と言うことになるから、次の段階へ進むことにはなるかな。なんか済し崩し的な感じではあるけど。」

申し訳なさそうに、源藤が言うと、

「ありがとうございます。素直にうれしいです。確かにゴールテープを切ったような、達成感は味わえませんでしたが。」

そう言って苦悩に満ちていた田中の表情に笑顔が戻った。

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