< 第三章 > - 第三節 - 「休憩」


 田中の心得修得の修行はまだ続いていた。

 ここまで、1時間近く息を吸ったり吐いたりを繰り返し、ただひたすら心身をリラックスさせることに集中していた。そして、ようやく下腹部に鼓動を感じ、源藤が言った第一目標に到達できたのだ。

 この下腹部の鼓動が、気を練ることだと説明を受けたが、これはまだスタート地点に立った段階で、もちろん修行はこれで終わりではなかった。


「田中君、いよいよ心得其の一、『自然の声に耳を傾けよう』の実践に入ろうか。吐納法は続けたままで聞いて欲しい。」

 田中はゆっくりと大きく頷いた。


 田中が頷いたのを確認すると、源藤は説明を続けた。

「さらに難しくなるけど、心して取りかかって欲しい。

 気を練る感覚は、鼓動を感じることでつかめたと思うけど、実際体内を巡っている気は、既に田中君の細胞を活性化して、代謝を促進し、感覚も非常に鋭敏になってるはずなんだ。

 そこで、その感覚をもって、体外の気の流れを感じとってみて欲しい。

 とにかく感じるまでは時間がかかると思うけど、大事なことは、呼吸法を守り、リラックスすること。それと体内に流れている気を丹田に流すのと同じように、体外の気の流れを丹田に流すことを意識すること、そうすれば、自ずとできるようになるはずだから、それを心がけてみて。」


(また無理難題を持ちかけてきたな。そんなの無理に決まってるじゃん。)

田中は諦め半分でそんなことを考えながらも、言われたとおり、ゆっくりと呼吸を続け、下腹部の鼓動に意識を置いた。

 田中の進捗は思ったより早いと、源藤は言っていたが、田中自信にとっては思い通りにいかず、もどかしさを覚え、言い知れぬ不安と、悔しさが込み上げていた。

 一度は冷静になった心も、内側に反骨心のようなものが芽生え、それは表情にも表れていた。


 呼吸に合わせて脈打つ鼓動は、息を吐くたびにトク、トクと微かに下腹部を圧迫してきたが、時間が経つにつれ、呼吸に意識を置かなくても、鼓動を感じられるようになっていた。

 続けるうちに、田中の意識は徐々に明晰になり、それにつれて、感覚が鋭敏になって行った。吹き流れる風、木々や草花の葉が擦れる音、鳥の囀り、昆虫が飛ぶ羽音に至るまで、あらゆる音や気配を感じ取れるようになっていた。

 しかし、源藤が言う、気の流れというのはまったく分からなかった。

 この先に何かがあるような、そんな気がするのだが、もやかモザイクがかかったように、そこだけが、明晰ではないのだ。


 どれぐらい時間が経っただろうか、源藤が、

「田中君、そろそろ休憩時間だ。取り敢えずそこまでにして、一息入れようか。呼吸を普通の呼吸に戻して良いよ。戻す時に、少しずつ速度を上げるようにね。」

と、スマホを見ながら、休憩時間になったことを告げた。


 田中は言われたとおり息を整えながら、目をゆっくりと開け、明るさに目をならしながら、普通の呼吸に戻し、

「ありがとうございました。」

と源藤に礼を言った。

 そして、額に浮き出ていた汗をハンカチで拭い、大きく息を吐きながら、

(くそっ、時間か。もう少しで何かつかめそうな感じだったんだけど。)

と内心悔しい思いでいっぱいだった。この時ほど、休憩時間を呪ったことはなかった。

(前職では死ぬほど休憩時間を欲していたのにな。)

 

「どうだった。1時間半ぐらい吐納法をやってもらっていたけど、大変だったでしょ。」

源藤が、現場事務所に向かって木道を歩きながら、田中に聞いてきた。

「はい、ちょっと大変でした。ただ、温泉にでも浸かってるような気分で、全身リラックスしていたので、そう言う意味では苦ではなかったですし、むしろ気持ちよさを感じてました。」

田中は正直にそう応えると、

「おおそうか。温泉にでも浸かってるような感じか。それは凄いことだよ。」

源藤は、うれしそうにそう言うと、続けて、

「実はこの吐納法は、道教で言うところの納気のうき吐気とき胎息たいそくの3つを体系化したもので、中国武術でも使用される呼吸法なんだ。この吐納法は、体内の気を活性化させるのに重要な方法で、すべての基本になるんだよ。」

と、得意げに説明を始めた。

「そうなんですね。」

田中は、源藤が得意げに説明するのに耳を傾けながらも、

(あれはなんだったのか、ぼんやりと感じ始めて、もう少しでその正体が分かりそうだったのに。)

と、考えを巡らせていた。


 源藤が得意げに色々と説明しているうちに、現場事務所に着き、引き戸を開けた。

 冷房の効いた室内には、すでに作業員たちが涼んでいて、それぞれ好きな飲み物を手に持ち、テーブルにあるお茶菓子をつまんでいたが、二人が入ってくると、

「お疲れ様です。」

と一斉に声が上がった。


「おつかれ。」

と源藤、

「お疲れ様です。」

と田中が、それぞれ声をかけながら、事務所に入った。

 そこに京極が声をかけてきた。

「お疲れ様です。お二人は何飲みますか。」

 源藤はコーヒーを、田中はお茶を頼んだ。京極はかなり年季の入った、一人暮らし用の小型冷蔵庫から、缶コーヒーとペットボトルのお茶を取り出して、二人に差し出しながら、

「田中さん、首尾はどうっすか。」

田中に対し興味津々の眼差しで、聞いてきた。

「えっ、自分ですか。」

田中は驚いて自分を指差しながら聞いた。

「そうっすよ。修練大変だったっしょ。」

「はい、京極さんが言ったとおりで、ものすごく大変でした。」

そう言って、田中は受け取ったお茶を一気に3分の1程飲み干した。喉の渇きを感じてはいなかったのに、やはり身体は水分を欲していたようだ。


「丹田は認識できたんっすか。」

と、京極はさらに聞いてきた。

「一応、源藤さんに言われたとおり、下腹部に鼓動を感じることはできましたけど、それが丹田かと言われても、自分にはよく分からないですね。」

田中が正直に答えると、

「まじっすか。もう鼓動が分かったんっすか。すっげぇ。仙道さんの記録塗り替えちゃったんじゃないっすか。そりゃ、工藤さんが一目置く訳だよ。マジ尊敬っす。

 で、心得其の一は達成できたんっすか。」

目を見開いて、キラキラした眼差しで、京極が興奮気味に捲し立てると、

「いえ、それはまだです。休憩時間になったので、途中で切り上げてきました。この後、続きをやるんですよね、源藤さん。」

圧倒されながらも、田中は源藤に聞いた。

「ああ。休憩が終わったら、続きだね。」

源藤は、また京極の病気が始まったとでも言わんばかりの表情で、そう応えた。

「うぉぉぉぉぉ、すっげぇ。それじゃ、今日中に其の一達成っすね。」

なぜか、京極は自分のことのように雄叫びを上げた。

 京極の雄叫びに、作業員たちが自分たちのおしゃべりをやめて、三人に注目したが、いつもの京極かと言わんばかりの表情で、また自分たちのお喋りに戻っていった。


 京極の雄叫びに、気圧けおされながらも、周りの注目が引いたのを確認して、

「いや、できるかどうか分かりませんよ。休憩前にちょっと挑戦しましたが、何にも感じられませんでしたから。」

と言いつつも、内心、後もう少しで何かつかめそうだったのにと、思っていた。

 田中の言葉に、ちょっとがっかり気味で、

「えええええ、丹田まで認識できたんなら、其の一なんてすぐっすよ。

 コツは、そうっすね、無の境地です。頭の中を空っぽにするんっすよ。そしたら、感じるんっすよ。自分はぼうっとした霧みたいなんっすけど、仙道さんは光が見えるって言ってたっす。源藤さんは、確か熱を感じるんっすよね。」

さらに聞いてもいないコツまで、京極は捲し立てるように教えてくれた。


「京極、おまえ興奮しすぎだよ。そう、私はほのかな温かみを感じるんだ。それこそ田中君が感じた温泉に浸かってるようなね。」

源藤は、京極に釘を刺しながらも、田中に向かって自分が感じている気について教えてくれた。

「田中さんは温泉を感じたんっすか、それならもうすぐっすよ。

 そうそう、ちなみに、千葉さんは、闇を感じるらしいんっすよね、めっちゃ怖わくないっすか。自分ホラーは苦手なんで、あれ聞いた時は、まじブルッちゃいました。

 で、森野ちゃんは冷気らしいんすけど、ある意味二人とも、今の時期は最高っすよね、エアコンいらずっすから。まあ千葉さんの闇は自分勘弁っすけど。

 でも、田中さんのはどんな感じなんっすかね。楽しみっすね。温泉を感じたってことは、熱なんっすかね。それとも、うーん、ワクワクするっすね。」

「はあ。」

残念がったり、興奮したり、笑ったりと、感情の起伏激しい京極が、自分のことのように盛り上がって捲し立てる様子に、田中は圧倒されながらも、先程の修行の時に感じた気の流れを、田中はずっと考えていた。


(さっきの、靄ともモザイクとも感じたあれは、京極君が言うような、霧、光、熱、闇、冷気のどれでもなかった。

 意識ははっきりしてるから、空気の流れも、音も、光も、温度も何もかも感じ取ることができるのに、なんでモザイクがかかったように、ぼんやりしてるんだよ。

 このぼんやりがはっきりすれば、何がそこにあるのかが分かるのに、どうしてはっきりしないんだよ。

 それに、温泉に浸かっているような感じとは言ったけど、なんとなくそんな感じがしただけで、温度とかお湯を感じた訳でもないし、全身がリラックスしてる感じを表現したに過ぎないから。実際、体内の気も、流れそのもの以外に、なにも感じなかったし。

 もしかしたら、何かに拘っているから感じられないのかも。

 京極君は無の境地と言ってたけど、先入観を捨てることが、突破口になるかもな。

 休憩終わったら、ちょっと試してみるか。)

田中はそんなことをつらつらと考え、あまり乗り気ではなかった修行に、自分では気づかないうちに、いつの間にか積極的にヤル気になって、のめり込んでいた。


 そんなことを考えている田中をよそに、京極は話を続けていた。

「でも、仙道さんの光って格好いいっすよね。なんかカンフー映画の主人公みたいで。敵の弱点とか光って見えるんっすよ。そこへ仙道さんが放つ気が炸裂して、やっつけちゃうみたいなの、良くないっすか。まさに正義の味方って感じっすよね。

 男子憧れのヒーローっすよ。ホント彼女カッコいいっすよね。」

 子供が憧れのヒーローについて語るように、目をキラキラさせ、京極の興奮はとどまることを知らなかった。


(この人、ホントにカンフーとかヒーローものが好きなんだろうな。でも、仙道さん女性だからヒーローと言うよりヒロインなんだけど、まあ悪をやっつけるならヒーローでも良いのか。でも、それなら英雄とか英傑とか、それこそ女傑とか言ったりするんじゃないのかな。仙道さんに女傑は合いすぎ、いや怒られるからそれはないとしよう。)

とかつらつらくだらないことを考えていたら、京極に対して、田中はなんと返して良いか分からずに、

「はあ。」

と、生返事をしてしまった。


それを見た源藤が、

「京極、田中君が困ってるだろ、興奮しすぎなんだよ。

 ホントこいつカンフー好きだから、止まらなくなるんだ、田中君勘弁してやってな。」

と、助け船を出してくれた。

「いや、全然構わないですよ。夢中になれるって良いことですから。」

田中も、内心余計なことを考えていた照れくささもあって、少し気を遣ってそう言うと、

「田中さん、分かってるぅ。夢中になれるって良いっすよね。」

京極は、相変わらず調子に乗る。


「京極、調子に乗りすぎだ。」

 源藤は、京極の頭の上に自分の左手を翳して、その左手を右手で叩いた。

「暴力はんたぁ~いっす。分かりましたって。田中さん済みません興奮しちゃって。」

 バチンと小気味の良い音はするが、まったく痛くはない体罰を受けた京極は、首をすくめながらも、さすがにリミット越えと察したのか、田中に謝罪した。

「別に気にしないでください。自分も上手くお相手できずに済みません。」

「田中さん、優しいっす。俺惚れちゃいそうっす。」

「こら、京極!」

源藤は、京極の頭の上に、今度はげんこつを翳して声を荒げたが、顔は笑っていたので、いつもの悪ふざけかと、田中もようやく察することができた。


(まったく紛らわしいんだよな。やりとりを文字通り受け取ると、勘違いしそうになるからな。

 でも、源藤さんもさっき無茶苦茶興奮してたけど、それは棚に上げるんだな。)

 田中は、この会社の乗りに、いまだについていけないことに、ちょっと寂しさと、悔しさを感じるとともに、源藤のチグハグさにクスッとしてしまった。


「でも、楽しみっすよね。あとで、どんな感じだったか、また教えてくださいね。」

そう京極が懲りずに、ニコニコしながら言うと、

「分かりました。また色々教えてください。」

田中はそう返した。


 源藤がスマホを見ながら、

「そろそろ時間だ、皆お昼までまたしっかり頼むよ。今日も暑いから、水分補給はこまめにするようにな。辛くなったら、無理せず上長に報告すること。」

そう言って、休憩している作業員たちに向かって休憩終了の宣言をした。

 それを聞いた京極は、冷蔵庫から取り出した経口補水液を、全員に配っていった。

 作業員は、各々腰に下げた工具バッグに取り付けてある、ペットボトルホルダーに、受け取った経口補水液の容器を取り付けて、ガヤガヤと出て行った。


 冷蔵庫に、飲み物の補充を終えた京極は、

「じゃ、田中さん頑張ってくださいね。成功すると良いっすね。」

とウインクしながらそう言って、源藤と田中にも経口補水液を手渡しながら、事務所を出て行った。


ああいうところはイケメンなんだよなとか思いながら、田中は、

「ありがとうございます。頑張ります。」

と、京極に向かって感謝を述べ、

「おう、ありがとう。まったくあいつは、いっつも台風みたいなんだから。」

源藤も、経口補水液を受け取りながら、そう言い放って溜息をついた。そして田中に向かって、

「それじゃ、私たちも行こうか。」

そう言って、源藤は先程の場所に向けて歩き始めた。

田中は、慌てて、

「はい。」

と言って、源藤の後を追った。

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