< 第三章 > - 第二節 - 「気、气、氣」
いよいよ、源藤による心得修得の訓練が始まった。
田中が学ぼうとしている心得は、源藤曰く道教の教えに基づいているらしい。田中にとっては未知の領域だ。それをこれから一つ一つじっくり教えて貰う。
源藤は、田中に背を向けると、できたばかりの木道を歩き始め、ついてくるように言った。そして、まず講義が始まった。
「まずは心得の1つ目、『自然の声に耳を傾けよう』だが、これは単に耳を澄ませば聞こえる、と言う訳ではないんだ。そんな生やさしい話ではもちろんなくて、ちょっと大変だから、心してかかって欲しい。」
源藤は、いつになく真剣な眼差しで、そう言うと、何かを探すように、辺りを見回しながら歩を進めた。
「分かりました。」
源藤の後について歩きながら、
(大変て言うけど、一体何をやらされるんだろ。そもそも、心得10ヶ条が
源藤さんは道教徒になる必要はないって言ったけど、詭弁のような気もするし。心得を守ってるフリをすれば済むかなとも思ったけど、そんな話じゃなくなってきたな。
触らぬ神に祟り無しとは言うけど、これは意外と
田中は内心そんなことをつらつら考えながら、どんなことをさせられるのか、かなり戦々恐々としてきた。
二人は暫く木道を歩いていたが、突然源藤が足を止めると、
「田中君、この場所に立ってみて。」
そう言って、源藤が木道の一点を指差した。
田中がその指された場所に立つと、
「何か感じることがあるかな。感じることがあったら言ってみて。」
と源藤に言われた田中は、指定された場所に立ち、
(まったく何にも感じないんだけど。何か霊的なものでも感じろって言うのかな。オカルトチックなのはちょっと勘弁だな。)
そんなことを考えながら、深呼吸をしたり、目を瞑ったり、辺りを見回してみたり、耳を澄ましてみたりした。
暫く何かを感じようと、試行錯誤してみた田中は、
「ペンキとかニスの匂いの他には、マイナスイオン的な気持ちよさとか、鳥の
結局何も感じられず、気落ちしたようにそう言った。
「まあ、そうだよな。それが普通だよ。」
源藤は、それも当然かと言うような、落胆した表情を浮かべたが、それでも納得したようにそう言って、続けてこう聞いた。
「ところで田中君、『気』って言葉を聞いたことはあるかな。気分とか気合いとかの『気』だね。」
「気ですか。それって格闘アニメとか武侠映画に出てくるものですかね。詳しいことはよく知りませんが、修行のシーンで良く気を練るなんて言ってますよね。その気のことなら聞いたことはあります。」
暫く考えて、田中がうろ覚えながらもそう答えると、源藤が説明を始めた。
「そう、その気のことだよ。心得十ヶ条を実践する上で、『基本のき』というか『いの一番』と言うか、とにかく一番大事なので、まずはこの気を認識して貰うことになるんだ。
ちょっと専門的な話になるけど、気というのは、万物の源、原動力を指す言葉で、気という文字が誕生した経緯から説明しようと思う。」
そう言って、源藤は手に持っていたタブレットに、手書きの文字で「三」「気」「气」「氣」の4文字を書いて、田中に見せ、話を続けた。
「気と言う文字は、実はこの4種類があるんだけど、一番左の『三』に似た文字は甲骨文字で、たなびく雲を表したものらしい。
2つ目はいつも見慣れた日本語の『気』だね。その隣が中国大陸で使用されている簡体字というやつだ。実はこの文字は、古代中国でも使われていたんだ。
そして、一番右側の文字がいわゆる旧字体と言われる、異体字だね。台湾とか、韓国なんかで使用されている文字になる。日本でも戦前までは使われていたね。
この文字の歴史について話そうと思う。ちょっと長くなるから心して聞いて欲しい。」
源藤の説明に、田中は大学の講義でも聴くつもりで、
「はい、分かりました。」
と応えた。
「古代中国において、いわゆる甲骨文字として、たなびく雲を表す『三』のような3本線の文字が発明された。これが気の始まりだ。」
そう言って、源藤は気についての説明を始めた。
源藤によれば、古代中国で発明された「三」のような文字は、様々な文字が開発される中で、混用を避けるためか、やがて「气」と言う文字に取って代わり、意味もそのまま継承された。
やがて、時代が下り文明が発達してくると、水蒸気や気体を表す文字として使用されるようになり、そこから派生して、息や空気、天気、気候、
そして、「气」は、天地間の自然現象、生命の活力を表現する文字として使用されるようになった。
さらに時代が下ると、現在旧字体とされている「氣」と言う文字が現れ、その意味も大きく変わった。
元々「氣」と言う文字は、米や穀物を与えると言う意味の文字として、中国秦代の頃に作られたと言われているが、やがて、この「氣」が「气」の借り文字として使用され、意味が混用された。
元々「气」には生命の活力という意味があったこともあり、喜怒哀楽と言った感情や気質などの精神状態に加え、疾病などの身体状態をも表すようになった。
こうして「气」に取って代わった「氣」という文字が、「氣」の元の意味と相まって、表現する意味の範囲を大きく広げた。
「气」と「氣」が混用されるようになった経緯は諸説あり、中国では中華人民共和国が簡体字の「气」を、日本では戦後常用漢字の「気」を、それざれが制定するまで、「氣」と言う文字が一般的に使用されていた。
いわゆる繁体字とか旧字体、異体字と今は呼ばれている文字である。
「これが『気』と言う文字の歴史的変遷になるんだ。
中国四千年の歴史だからね、ちょっと話が長くなってしまったけど、理解して貰えたかな。
この他にも様々な気に代わる文字が発明されては、歴史の狭間で廃れていったが、その説明は、ここですると日が暮れちゃうから、学者さんに譲るとしようか。
さて、こうして、現在使用されている『気』と言う文字は、様々な意味を持つようになったのだが、その根本は『流動体』を表していて、その一点で共通しているんだ。
そして、この気を操るのが『
ここまでは、理解できたかな。」
源藤が一気呵成に説明をしたが、田中はふーんという感じで、話半分だった。難しいと言うよりも、源藤の圧に圧倒されたというのが正直なところだった。そして唐突に宣告された気功術の修練に、田中は驚き、戸惑いながらも、
「なんとなくは分かりました。要は気というものは流動体を表しているってことで、それを操るのが気功術ということですね。」
田中がそう応えると、源藤は、
「まあ、端的に言うとそう言うことだね。それを理解して貰った上で、これから体得して貰う『気』と言うものの本質を理解すると、この後説明する気功術が理解しやすいと思う。」
そう言って、田中が頷いたのを見てから、さらに続けた。
「『気』と言うものが、流動体を表す言葉だと言うことは理解できたと思うけど、これから言う『気』は、流動体としてではなく、『万物の根源』を表すものとして理解して欲しい。
なぜ、万物の根源が気であるかと言うと、気という文字が、生命の活力を表すようになったことに由来するからなんだ。
すべての物質には活力があり、この活力を利用して、すべての物質が存在していると言える。
ここで言う『気』とは、物質が持つエネルギーやパワー、原動力と言った、存在そのもの、すなわち根源を表していて、有機物はもちろん、無機物にも、多かれ少なかれこの『気』は存在しているんだ。
逆に言えば、『気』のない物質は存在しないし、存在できないと思って貰って構わない。
そして、すべての『気』は流動体であるため、もちろん流すことができる。
つまり、体内にある気は人為的に流すことも可能だし、達人ともなれば、大地や大気の気を自在に流すこともできるようになると言う訳だ。まさにこれが気功術の真骨頂だね。
田中君に、そこまでできるようになれとは言わないけど、気というものの本質を理解して、この世界に流れる気を感じるようになるのが、ひとまずの目標となる。」
源藤の説明を聞いて、
「壮大な話ですね。『世界に流れる気を感じる』ですか。まさに雲を掴むような話で、ちょっと想像できませんが、自分にできるようになるんでしょうか。」
田中は戸惑い、不安になりながらも、そう聞いた。
「大丈夫。不安になるのは分かるけど、ウチの社員でできない人はいないから。時間がかかっても、皆できるようになってるから、安心して挑戦して欲しい。
安心してって言うのも変な話だね。まあ、そう気負う必要はないから。」
源藤はそう言うと、田中の真正面に立ち直した。
「何か不安しかないんですが、とにかく頑張ってみます。」
田中は、身長180㎝を越える源藤の巨体が目の前に立ちはだかる、その威容に圧倒されながらも、そう応えた。
田中の言葉を聞いた源藤は、田中を見下ろしながら、
「それじゃ早速始めようか。」
そう言って、修練を始めた。
「まずは、肩幅に足を広げて、背筋を伸ばして立ってくれるかな。」
田中が姿勢を正したら、
「そう、そうしたら全身から力を抜いて、まずはリラックスをしようか。」
田中は全身をブルブルっと揺すって、力を抜いた。
「そうしたら、まずは呼吸法から学んでいこう。」
「はい。」
田中は、いつになく真剣な眼差しの源藤を見上げ、これから始まる試練に恐怖を覚えながら、恐る恐る返事をした。
いよいよ始まる訓練に、
「気を感じるためには、まず呼吸が大事なんだが、この呼吸法は腹式呼吸の応用版だと思って欲しい。ちなみにこの呼吸法は
「わかりました。」
田中の返事を聞いて、源藤は続けた。
「まずは、ゆっくり息を吸っていこう。お腹を膨らませながら、鼻からゆっくりと。10秒ぐらいかけてゆっくりと吸って。」
早速田中は言われたとおり息を鼻から吸い込み始めた。
「苦しくなる寸前まで吸い込んだら、今度はお腹を凹ませながら、口からゆっくり吐き出す。同じように10秒ぐらいかけてゆっくりと、苦しくなる寸前まで吐ききる。吐ききったら、またゆっくりと吸う。
それを何度も繰り返すんだ。心身共にリラックスすることに重きを置いて、ゆっくり、ゆっくりとね。」
田中は言われたとおり呼吸を続けながら頷いた。
(結構これ苦しいな。なかなかしんどい。社員は皆できるとか言ったけど、できない人は辞めていったとかじゃないよな。)
ただ呼吸をするだけだが、これが結構大変なのだ。息を吐ききったり、目一杯吸ったりすることは、日常生活でほぼしたことがないので、かなりしんどい。それをずうっとやるのだ。繰り返し繰り返し。
5分、10分と時間が過ぎていく。
15分が過ぎた頃、ようやく源藤が声をかけてきた。
「そろそろ、身体が軽くなって、全身がリラックスしてきたと思うがどうかな。」
確かに、始めたばかりの時は、慣れなくてしんどかったが、徐々に慣れてくると、丁度温泉にでも浸かっているような、全身が熱を帯びて、うっすらと汗をかいていたが、それにもかかわらず、身体が軽く、疲労感が溶けるようになくなっいた。
源藤に言われてみて初めて、全身がリラックスしていたことに気づいたのだ。
そして、それが気なのか、血流なのかは田中には判別つかなかったが、何かが全身を巡っているのを感じた。
田中は、源藤に向かってゆっくりと頷いた。
田中が頷いたのを確認すると、源藤は、
「全身がリラックスしてきたら、今度は下腹部に意識を集中して、
田中は頷いて、呼吸を続けながら下腹部に意識を集中した。
木陰にいるので、夏の焼けるような日差しを直接浴びていないとは言え、吹き寄せる風が熱を送ってきて、気温が高くなっていたのに加え、さらに体温が少し上がったため、田中の額には玉のような汗が浮き出ていた。
田中は、呼吸を速くしたくなる衝動を必死に抑え、ゆっくりを意識する。
時間の感覚を忘れ、意識が途切れそうになりながらも、ひたすら呼吸に集中し、玉のような汗が流れ出しても気にすることなく、目を瞑り、下腹部に意識を集中していった。
さらに10分程経過した頃、田中は、下腹部に何か違和感を感じた。身体の内側から押されたような感覚があったのだ。
呼吸と共に訪れるその違和感は、徐々に鼓動へと変わり、息を吐くたびに、トク、トクと心臓の鼓動とは違う鼓動が感じられたのだ。
田中は片手を上げて、源藤に鼓動を感じたことを伝えた。
源藤は、田中が手を上げたのを見て、
「えっ、もう認識できたのか。数日はかかると覚悟はしていたのに。」
(いや、別にそんなに驚くことか。感じたものは感じたんだから。)
源藤の驚きに戸惑い、勘違いかもと思いながらも、もう一度下腹部に意識をやるが、それでもはっきりと鼓動を打っているのを感じた。
田中は、吐納法を続けながら、ゆっくりと頷いた。
「身体のリラックスはすぐ体感できても、下腹部の鼓動は1日2日は最低でもかかるのに。
確か仙道君も早かったけど、それでも半日はかかったからな。君は凄いよ。1時間も経ってないからね。新記録かも知れない。」
源藤はものすごく興奮して捲し立てた。
(源藤さん、まだ興奮してるよ。そんなに凄いことなのか。もしかして俺って天才。なんて自惚れることはしないけど、あんなに興奮されると、ちょっと変な気分だよ。)
田中は、源藤の様子を見て、最初に感じていた恐怖心はどこかに行き、冷静な気持ちでそんなことをつらつら考えていた。
「おっと、ごめん、ごめん。ちょっとテンション上がっちゃった。」
少し照れくさそうにして、我に返った源藤は続けて、
「呼吸を続けたまま聞いてくれ。その鼓動を感じてる場所が、
その場所は『第二の心臓』とも、『気の心臓』とも呼ばれる場所で、その丹田に気を流すことで、身体の調子を整え、精神の気、病気の気、呼吸の気、そして体内に存在する、あらゆる気を正常に戻す力を養うんだ。
気が活力と言ったのは、そう言うことなんだ。今田中君の身体から吹き出ている汗は、体温調節機能が働いていると言うこともあるが、体内に気が巡り、細胞が活性化している証拠でもあるんだ。
つまり、鼓動を感じるぐらいに気が流れると、それが気を練っている状態であり、全身に気が巡るようになって、全身の細胞がエネルギーを得て、活性化することになるんだ。すなわち細胞が活力を得たと言うことだね。
そうしたら、次の段階にいこうか。」
興奮が冷めやらない感じで、源藤が捲し立てたが、それに反して田中は、
(単に暑いからじゃねぇのかよ。喉も渇いたし、これいつまで続けさせるんだよ。)
少し冷めた感じで、腹の中では毒づきながらも、全身がリラックスし、疲労感もなく、汗をかいていて喉の渇きがあるはずなのに、水を今すぐ飲みたいという衝動は湧いて来ないことに、違和感を覚えていた。
田中は、次の段階へいくことを了承し、頷いた。
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