< 第三章 > - 第一節 - 「心得」


 田中が転職してから、早3週間。3カ所のプロジェクト現場を、源藤についてそれぞれ廻り、他にも個人宅の現場などをいくつか見学した。

 源藤の業務を手伝う傍ら、田中は会社の業務内容を少しずつ覚えていった。取引先との挨拶もいくつか済ませ、既に顔見知りもでき、現場で会えば、世間話をするまでには親しくなれた。

 

 派遣会社での業務とは完全に畑違いで、尚且つ建設業独特のものなのか、業務の仕方も違っており、戸惑うことも多々あった。

 現場の作業時間一つ取っても前職とは大きく異なっていた。朝は8時から作業が始まり、10時のお茶休憩を15分、12時のお昼休憩は1時間、15時のおやつ休憩を15分と2時間おきにそれぞれ休憩が入る。そして17時には作業を終えて、退勤となる。

 これは、事務所にいる時も同じだった。


 こんなことは前職ではあり得なかった。前職では9時に始業、12時から1時間の昼休憩、そして18時まで休憩なしのぶっ通し作業だ。当然、このあと残業が数時間あった。週の労働時間は60時間越えは当たり前、時には80時間を越えることもざらにあった。

 それに比べてこの会社はよほどでない限り、残業は一切なく、休憩も一日3回必ず取る。そして残業はよほどのことがない限り発生しない。この違いは大きい。いや大き過ぎた。


 建設業が「きつい」「汚い」「危険」の3Kなんて言われていた時代はとうに終わり、今や一番のホワイト業界なのかもと思うぐらい、しっかり休憩を取らして貰えるのだ。もちろん、この会社が優良企業だからなのかも知れないが。前職から見たら、あり得なかった。


 他にもこの会社独自だと思うが、ペーパーレス化がされていることで、出退勤もデジタル管理だ。会社に出勤した場合は、事務所入り口に、ちょうど無人駅などにあるような縦置きのICリーダーが設置されているので、そこにスマホを翳すことで管理される。

 そして、現場では現場監督のスマホがICリーダーの機能を有し、それで作業員のスマホをスキャンして出退勤を管理する。

 ほぼすべてがデジタル管理されていて、会社にある紙は、お役所に提出する書類と、入口に設置してあるラックに置いてある会社のパンフレット、それと、新入社員に手渡す社訓、心得、社則のファイルぐらいのものだ。そうそう、トイレットペーパーも会社に存在する紙ではある。

 

 そういうわけで、この会社は、支給されたスマホ一つで、すべての業務が事足りるようになっている。

 田中は一応自分のスマホは持っていたが、もっぱらネットを見たりするぐらいで、資料の確認からメールの送受信やチャットまで、ここまでがっつりと使ったことはなかったので、慣れるまでに少し時間がかかった。

 キーボード入力はかな入力を覚えたこともあり、ローマ字入力勢よりは多少早く打てる自負はあった。

 しかし、ガラケー時代からトグル入力が苦手で、スマホになってからフリック入力になったが、苦手意識はいまだにある。

 メールやチャットのやりとりをスマホでやるのは、少し苦痛で、中年の域に達したことを田中は痛感した。

 

 源藤も、タブレットは、キーボードを画面に表示させたフルキー入力で使っているが、スマホでは、もっぱら音声入力をしている。そんな源藤曰く、

「スマホは字が小さくて、良く打ち間違えるんだよ。この手だからな。」

と言って、大きな掌を広げて見せた。確かにタブレットがスマホサイズに見える程の、手の大きさだ。


(そんなに指が太くない自分でも押しにくいんだから、源藤さんならなおさらか。)

 自分の1.5倍はありそうな大きな掌と、スマホサイズに見えるタブレットを見て、田中は驚きながらも、自分より10㎝ほど身長が高く、がたいが良い源藤なら、さもありなんと、変に納得した。


 そんな源藤の仕事は、主に各現場の見廻りと、進捗状況の確認、さらには人員の遣り繰りもある。他にも予算管理を始め、建設部の運営に関わる諸々の管理業務がある。

 田中は仕事を覚える傍ら、彼のサポートに回った。

 事務所では、会社が独自に作成したソフトを使って、業務進捗の管理、部署の経費計算、社員や協力会社、アルバイトなどの人員や、重機などのシフト管理と言った事務作業を、源藤に教えて貰いながらおこなった。

 現場に行けば、自然環境研究協会建設部、通称管理部の社員について、現場監督の仕事も見学する。

 最初は鹿野山にあるビオトープの現場で、仙道三佳について現場のイロハを教わった。

 次は千葉啓人が担当する東京湾の海底公園で、海上での作業となった。海底公園は文字通り海の底にあって、海の中に潜る必要があり、スキューバーの資格がない田中は、船の上からモニターを通して作業を見ているだけだった。

 そして、今日は京極斗真が担当する自然公園を見学することになっている。

  

「田中君も大分仕事に慣れてきたかな。」

現場へ向う軽トラの車中で、源藤が話しかける。

 今日も運転は田中が担当だ。普段はバイクばかりなので、自動車の運転は緊張するが、勘が鈍らなくて済むので、ありがたく運転手を務めている。

 仕事の方も、源藤の仕事が多岐にわたり、任される仕事も自然と多岐にわたるため、田中は覚えることが多くてパンクしそうだったが、田中自信のペースで教えてくれるので、さほど苦もなく覚えることができている。


「お陰様で大分慣れました。ただ、海底公園ではあまりお役に立てなくて、申し訳なかったです。ただ、色んな経験ができて、よちよち歩きではありますが、楽しく仕事をしています。」

田中は運転に集中しながらも、正直にそう応えると、

「そうか。畑が違うから、ちょっと大変かも知れないけど、楽しく仕事してくれるなら、私もうれしいよ。ウチはちょっと変わった会社だから、まあ追々慣れてってくれれば良いから。」

源藤は少し考えてそう言った。

「分かりました。」

田中がそう応えると、

「ところで、初日に渡した社訓と心得って、内容は覚えたかい。」

源藤は、続けて質問した。


 社訓と心得とは、田中が出社初日に源藤から貰ったファイルに記載されていたもので、田中にとっては内容が異次元過ぎて理解できず、比喩なのか、文字通りの意味なのか、はたまた何かの信仰なのか、非常に不可思議に思えた、社訓と十ヶ条からなる心得のことである。


「社則も載ってたあのファイルですね。一応目は通しましたが、一言一句まで暗記はできていません。社訓の『自然と共に、未来を築く』は、事務所に扁額もありますから、さすがに覚えましたが、心得の方はすみません、まだうろ覚えです。」

田中は申し訳なさそうに答えた。


「まあ、一言一句まで暗記する必要はないけど、どんなことが書いてあるか、内容だけは一応覚えてね。ウチの心得は特殊だから、覚えるの大変だと思うけど、よろしく頼むよ。

 まあ初日にも言ったと思うけど、心得には意味不明な言葉が並んでるし、何のことを言ってるのか、理解しがたいとは思う。でも、一応この会社の根幹に関わる内容で、仕事にも影響出るから、是非会得して欲しい。

 私も心得の本質自体は、いまだに良く分かってないから、君にああだこうだ言って、理解してくれというつもりはないけど、一つ一つ教えていくから、追々覚えていって欲しいし、分からないことがあれば、遠慮なく質問してくれて構わないから。

 で、一応今日からその心得について教えていくことになるから、そのつもりでいて欲しい。」

 源藤は、田中に対して、あの分かりづらい心得十ヶ条を、会得させるミッションに挑ませるのが心苦しいのか、言いづらそうにしながらも、教育開始を宣言した。


「分かりました、今日からですね。言葉が難しくて、良く理解できていませんでしたので、非常に助かります。よろしくお願いします。」

 田中は、源藤がいつもの「追々」をまた出したなと思って、頬が緩みながらも、真面目にお願いした。

 しかし、心得を会得とは、どういう意味なのだろうと、田中は運転に集中しながらも頭の片隅で疑問に感じていた。


 二人が現場に着くと、京極斗真から現状の報告を、作業現場を見ながら受けた。

 自然公園と言っても、ただ林道があるだけのようなものではなく、敷地内には子供たちが遊べるような木製のアスレチックがあったり、野鳥観察用の観察壁や観察シェルターが設けてあったり、木道が縦横無尽に通してあって、林の中を自由に観察できるよう、所々ベンチや四阿があったり、生息する動植物の解説板が設置されていたりと、自然と親しむにはかなり充実した施設設計になっていた。

 もちろん管理棟もあり、そこでは公園の管理だけでなく、野鳥観察用の双眼鏡や、植物観察用の筆記具とか画材などを販売する予定になっている。


 園内に入ると、木製の遊具や木道などに塗られたペンキやニスの匂いが、できたばかりだと言うことを示していた。

 九分九里完成したこの現場は、あと数日で完了する予定で、立て看板などの小物類の設置や仕上げ作業を、最後の追い込みとして、完成部分の確認と同時におこなっていた。


「進捗の遅れはないですよ。あとは仕上げだけです。最終確認を部長にして貰えば、後はお引き渡しですね。予定通り来週末にはお引き渡しできる予定です。」

京極の説明を受けながら、3人で一通り現場を見て回った後、京極がいつものイケメンスマイルとともに、爽やかな声でそう報告した。


「さすが京極君だな。今のところ問題ないから、この調子で最後までしっかり頼むよ。」

源藤が上司らしく真面目に言うと、

「了解っす。」

と京極は砕けた感じでそう言った。

 破顔して締まらない京極の返事を聞いた源藤は、ずっこけそうになりながらも、ひとまず安心したような表情になった。そして、今度は田中の方に向かって、

「では、田中君早速心得の修得といこうか。」

と言った。その源藤の言葉を聞いた京極は、

「田中さんもいよいよ心得の訓練っすか。頑張ってください。めっちゃ大変っすからね。」

めっちゃを強調して、そう脅すように言う。

「そんなに大変なんですか。源藤さんお手柔らかにお願いします。」

京極の言葉に、田中はちょっとびびりながらも、源藤に向かって改めてお願いした。


「それじゃ、自分作業に戻りますんで。田中さん挫けないでくださいね。」

京極はそう言い残し、田中にウインクして、そそくさと去って行った。

 京極が作業に戻っていくと、源藤が改めて田中に向かって、

「では、早速始めようか。そんな気負わなくて良いから。」

と言ったが、田中はそんな風に言われても、

「はい。よろしくお願いします。」

と気負った感じで返事をしてしまった。


「ところで、この心得十ヶ条なんだけど、どうしてこんな変な、と言うか、普通じゃない文言が並んでいるのかというと、会長が実は熱心な道教信者でね、『人類は自然と共にあらねばならない』って信条の人なんだ。

 だから、ウチの会社自体もその教えに沿って社員教育がなされているんだよ。田中君もウチの会社で仕事してみて、感じたと思うけど、自然を愛し、自然から恩恵を受け、自然と共存する、これが我が社の社訓であり、心得になっているのは、そう言うことなんだ。

 別に道教信者になれとか、そう言うことではなくて、会長の言う、自然と共にってことを社員たちも賛同し、会長の言を通して道教の良い教えを信奉しているに過ぎないんだ。

 ぶっちゃけて言ってしまえば、受験では神教徒、結婚式ではキリスト教徒、葬式では仏教徒と、日本人は良いとこ取りしてるだろ、私たちはそれに加えて、自然に関しては道教徒に扮しているに過ぎないってことなんだ。

 最近流行ってるハロウィンも、ヨーロッパの土着宗教から自然発生して、世界中に広まった。日本では単なる仮装イベントになってるけどね。それと同じことだよ。信仰してなくても信奉している。そんなところさ。まあハロウィンは誰もその教えについて信奉はしてないだろうけどね。

 どうして、こんな心得ができたか、経緯は理解して貰えたかな。」


 源藤の説明を聞いて、会長が道教徒だったと言うのは衝撃だし、心得が道教の教えに基づいて作られているなんてことは、なおさら驚愕だった。

 言われてみれば、会長はいつも中国人の様な格好をしていたから、単に中華文化の大好きな人かと思っていたが、そうではなく道教信者と言われて合点がいった。

 心得の奇妙な文言についても同じだ。道教が基となっているなら、さもありなんである。


「確かに、神を盲目的に信じる信仰と、教えを尊重して信奉すると言うことには、大きな違いがありますね。文化吸収論とか文化受容論とかで語られる話ですよね。大学でやった記憶があります。

 ただ、会長が道教徒だったのはちょっと吃驚びっくりしました。でも、経緯については概ね理解できました。

 自分無学で道教についてはよく分からないですが、この心得が会社の根幹であると言うことと、会長の教えを皆さんが信奉していると言うことは了解しました。」


田中がそう答えると、源藤はさらに話を続けた。

「その点を理解してくれれば充分だよ。そういうわけで、田中君にもこの心得を修得して貰いたいんだ。」

「ちょっと待ってください。心得って守るものであって、修得するものではない気がするのですが。それこそ、信奉するのでは。

 京極さんも言ってましたが、何か難しいことをする必要があるんですか。」

田中は戸惑いながらも、車中でも沸き起こった疑問を、聞いてみる。


「まあ、普通は心得と言ったら守るものだよね。でも、ウチの心得は修得しないと守れないんだ。修得できなかったからと言って、守れない訳ではないけど、やはり修得した方が、守りやすいし、自然との共存もしやすくなるから、大変だとは思うけど、是非修得して欲しい。良いかな。」

源藤の言葉に、どこか引っかかりながらも、田中は乗りかかった船だ、挑戦するだけしてみようと、

「分かりました。できるかどうか分かりませんが、挑戦してみます。」

そう言って、田中は腹を括った。


「そう気負わないで、一つずつ順を追って教えて行くから、その都度何か質問があれば遠慮なく言ってくれて構わないし、無理ならそう言ってくれて構わないから。例えそうなっても、信奉はして欲しいけどね。」

「分かりました。よろしくお願いします。」


 こうして、田中にとってよく分からない、世にも奇妙な心得を会得するためと称した訓練が始まるのだった。

 どういう訓練になるか田中は戦々恐々としながらも、源藤が始める講義の第一声を待った。

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