< 第二章 > - 第三節 - 「竹林庵」
まだ夜も明けきらない
門の奥には、庵へと続く少し苔むした飛び石があり、その庵の前には踏みしめられた20坪ほどの前庭が広がっていて、周囲は手入れが行き届いた竹垣が立てられ、庵をぐるりと取り囲んでいた。
庵は竹材がふんだんに用いられており、造りは質素で、まさに隠れ家のような造りであった。
壁などが竹と漆喰で造られた庵は、質素な中にも、優美で、厳かな雰囲気があり、見る者の心を
庵の中に一歩足を踏み入れると、そこはまさに別世界。表が「和」なら中は「華」。雅びな雰囲気の表に対し、中は色鮮やかで華やいだ世界であり、10畳ほどの極彩色豊かな
まず目に入るのが、正面に鎮座している色彩豊かな彫像である。長い髭を蓄えた人物の彫像で、両脇の壁には「
老子像に向かって左側には三体の彫像、向かって左から、
老子像の前に備えられた祭壇には、中央に蓮の形をした灯籠が置かれ、その両脇にはかなり太い蝋燭があり、それぞれ火が灯されていた。
その手前には三つの杯が置かれ、左からそれぞれ、水、米、茶が供えられ、更にその前には五つの皿に盛られた果物と、五つの椀に盛られた食べ物が供えられていた。
そして一番手前の香炉には背の高い線香が焚かれ、煙を
祭壇の手前では、藤本隆一が
その読み上げる声は低く、仏教の読経や、神道の祝詞とも違う独特の調子で、発せられる音は中国語のようだが、北京語とも広東語とも異なる発音で、どこか独特な音が紡がれていた。
藤本が経典を一時間ほどかけて読み上げた頃、朝日が竹林に差し込み、起き出した鳥たちが
祭壇の蝋燭が消され、線香の煙も収まった庵から出てきた藤本は、正面の引き戸を閉めると、直径3㎝ほどの玻璃玉を懐から取り出した。
この玻璃玉を額の前に翳し、目をつぶって念を込めると、淡い光が庵を包んで消えた。
「これでよし。」
藤本はそう呟くと、玻璃玉を懐に戻し、庵の前庭で
武当拳とは
拳法とは、元々僧侶の体力作りのために考え出されたものであり、現在では、太極拳が健康法として世界中に普及しているが、その太極拳の元になったその一つが、この武当拳である。
とても老人とは思えない動きで、小一時間も演舞を続けると、藤本の額にはうっすらと汗が滲み、息も少し上がっていた。懐からタオルと水筒を取り出すと、汗を拭き、水を飲んだ。
息を整えた藤本は、庵を離れ、途中表の郵便受けから新聞を取り出し、社屋の3階にある自宅へと戻る。3階建ての社屋は、住居も兼ねており、建物裏から3階の住居に上がれるようになっている。
自宅に戻るとそのまま浴室へと向かい、シャワーを浴びた藤本は、洗濯済みの
藤本が着ている道袍について簡単に説明しておくと、元々は古代中国において、平民が着る労働服をこう呼んでいたと言われている。しかし時代が下ると、道教の僧侶である道士が身につける、普段着から儀礼服までを含むすべての服装を、こう呼ぶようになった。
現在、道袍には六種類あり、それぞれ
簡単に言えば、大褂は一般的に普段着として着られるもので、道袍と言えばこの大褂をイメージする人が大半かも知れない。カンフー映画などで見られるのも、この大褂がほとんどである。大褂の中にも簡素で袖が狭くて動きやすく作業時に着るものから、多少の装飾を施した袖の広い外出や儀礼用として着用するものまで、様々ある。色は青色が多く、
得羅は
戒衣は修行者が身につけるものであるが、
法衣は、
花衣は
衲衣はパッチワークのように継ぎ接ぎしたものを言い、以前は防寒用として外出の際に身につける粗末なものであった。現在では身につける道士が減ったが、金や錦に彩られたものは、最高級の袈裟として扱われ、代々受け継がれているものもあるようだ。
宗派や地域などにより、その決まりは異なる場合もあるため、一概には言えないが、概ねこのような意味合いを持っている。
藤本は朝夕の勤めや自宅での普段着として簡素な大褂を身につけ、仕事や人前に出る時などでは外出用の大褂を身につける。場合によっては法衣や花衣、得羅、戒衣を状況に合わせて身につけることもある。
今は簡素な紺の大褂を身につけ、準備した朝食を摂っている。
藤本の普段の朝食は、お粥にマントウ、それに漬物を添える。お粥は日本の様な米を煮ただけのシンプルなものではなく、中にはたっぷりと野菜や肉を入れ、お粥と言うよりもおじやや雑炊の様なものである。マントウは週に一度食べる分を自分で作り置きし、それを毎朝食べる。朝からしっかりと食べるのを習慣としていた。
朝食が終わると、お茶を持って居間に移動し、新聞を広げる。一般紙、経済誌、業界紙の三紙に目を通し、気になった記事を、お茶を飲みながらじっくりと読み込んでいく。
藤本が新聞を読み終わる頃、工藤美咲が呼び出しのインターフォンを鳴らす。
社長室も兼ねたこの居間に、工藤を迎え入れ、その日のスケジュールを聞く、こうして、その日の業務が始まるのだ。
これが藤本の朝のルーティンである。
「おはようございます会長。早速ですが、今度の
居間のソファーに座り新聞を広げている藤本に向かって、工藤美咲が話しかける。
「工藤君おはよう。スケジュールが空いているところに入れておいてくれて構わないよ。ところで、神余の開始はいつからになりそうだ?」
「実働は今の鹿野山のプロジェクトが終了してからになりますから、あと二ヶ月ほどで始動になります。」
「そうか、秋になってからだな。今回も担当は仙道君になるのかな。」
「そうですね。仙道さんと森野さんが担当になります。」
「あの二人なら間違いないね。鹿野山の方も順調なんだろ。」
「はい。順調のようです。生徒さんが参加されることもあり、人手も十分だって報告が上がってますし、気を遣う現場ですが、順調のようですね。」
「さすが仙道君だね。彼女に任せておけば安心だ。ところで、神余の旦那は元気にしてたかい。」
「旦那様はお元気ですよ。先日もヨーロッパ旅行に行かれたとかで、土産話をたっぷりしていただきました。」
「ほう、ヨーロッパか、相変わらず元気だな。もう90は越えていたよね。」
「確か今年93になられたと思います。」
「もう93か。」
「会長が驚かれるようなお歳ではないと思うんですが。教えて貰った武術を毎朝欠かさずされているそうで、そのお陰で元気いっぱいだっておっしゃってましたよ。」
「そうか。彼はそうではなかったけど、武術でかぁ。ご本人の努力の
「私ですか、もちろん続けてますよ。今朝もたっぷり一時間汗を流しました。伊達に永遠の17歳を自称してませんから。」
「ほんとに17歳の頃のままだもんな君は。」
「そうですか?褒めても何も出ませんよ。」
「君に何か出して貰おうとは思わんよ。それにしても、あのとき君を手助けしてから、こんなに長い付き合いになるとは、思わなかったけどね。」
「会長に助けて貰ってから、確かに随分経ちましたね。会長には色々教わりましたから、お陰でこんな時代まで生き延びてます。
工藤家も、去年は創業450年を無事迎えることができましたし。幾度となく訪れた大飢饉に太平洋戦争と、何度も危機を迎えましたが、そのたびに会長のお陰で工藤家は延命を続けてきましたから、会長には感謝しかありませんよ。
そうそうお陰様で龍之介も元気でやってます。」
「あのときからもうそんなに経つのか。龍之介君も立派になるはずだ。去年の創業祭式典で会ったっきりか。たまには遊びに来るように言っておくれ。」
藤本は好々爺のように表情を崩し、工藤を見上げると、
「会長ったら龍之介のことになると見境なくなるから。何でもかんでも与えないでくださいよ。」
「龍之介は可愛いからの。老人の慰みと思って、許してくれんか。ただな、どんなにしてやっても、龍之介に父親の顔を拝ませてやれんかったことだけは心残りなんだ。」
「それはもう何度も言いましたよ。詮無いことだって。龍之介もとっくに理解してますし、彼も会長にはこれ以上ないくらい感謝しています。立派に工藤家の当主として務めを果たせているのは、何にも増して会長のお陰なのですから。」
「その手伝いができたのはうれしいことなんだが、それでも龍之介が不憫でな。」
「まったくもう、龍之介もいい年なんですから。いつまでも赤ん坊ではないんですし。」
「分かった分かった。わしにしたら赤ん坊のようなものだがな。さすがに母親は厳しいの。」
「もう。会長たら。」
二人は一頻り笑った後、
「今日は県知事との会談が午後からありますので。そのつもりでいてください。列車の時間が来たら呼びに来ますので、支度しておいてくださいね。」
工藤がそう言うと、
「分かった。あの若いのもしっかりとやってもらわんと。大きなプロジェクトになりそうだからな。」
藤本は、そう応えて再び新聞へと目を落とした。
こうしてこの日も一日が穏やかに始まる。藤本はこの穏やかな日々に感謝した。そして、数奇な縁で知り合ったお咲、今は工藤美咲と名乗っているこの娘にも感謝した。
あの日、彼女に渡した
それでも、彼女の口から、
「当然のことですから。」
と言われてしまうと、藤本はありがたく受けるしかなく、感謝の言葉を口にはすれど、ますます藤本のために尽力してくれる工藤に、そして息子の龍之介に口実を作っては何かをしてあげたくなるのだ。
工藤が玄関口に向かうその背中を、新聞から顔を上げて目で追いながら、
「ありがとう。」
と呟いた。
「どういたしまして。出かける準備しておいてくださいね。」
そう言い残して、工藤は階下へと降りていった。
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