< 第二章 > - 第二節 - 「宝貝」


 昨日から降った雪は、一寸ほど積もり、積雪などほとんどないこの安房国が銀世界に変わった。

 この凍てつく寒さは、炉や火鉢のない天井裏では、身体の芯から冷えたが、念のために持ち込んでおいた布団などに包まり、お咲は冷え込む天井裏で夜を明かした。

 昼間に襲撃を受け、夜半過ぎまで階下でごそごそと物を漁る音がしていたが、いつの間にかうとうととしてしまい、気がつくと階下はすっかり静けさを取り戻していた。

 お咲は、龍之介を起こさないようにそっと背中に背負い、静まりかえった階下に恐る恐る降りると、無残に荒らされた屋敷を目の当たりにした。

 そこで見た光景はあまりにも無残で、惨たらしく、とても見ていられるものではなかった。壊された襖や障子、壁のあちこちに血痕が飛び散り、柱には切りつけられた痕も残っていた。

 お咲が、旦那様、女将さん、若旦那3人の安否を心配し、屋敷の中をあちこち探そうとした矢先、店先に旦那様と女将さんが重なるようにして横たわっているのを見つけた。

「嘘でしょ。どうしてこんなことに。民のために私財をなげうっていたのに、どうして!どうしてよ!」

 お咲を分け隔てなく取り立ててくれた旦那様、優しく何でも教えてくれた女将さん、奉公に来てからの数年間が走馬灯のように駆け巡り、二人の亡骸を見つめ、お咲は茫然自失となった。そしてその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。心に去来するものに耐えられなくなったのだ。背中に背負った龍之介もお咲の泣き声につられ、大声で泣き声を上げた。


 一頻り泣いたお咲は、ようやく落ち着きを取り戻し、夫である若旦那を探そうと立ち上がり、店の奥へと向かった。客間を捜し、居間を捜し、寝室を捜したが、見当たらなかった。そして一番奥の台所にお咲が入ると、そこには変わり果てた姿で横たわる若旦那の姿があった。

「ねぇ!ねぇしっかりして!若様返事をして!」

しかし、返事のあろうはずもなく、血まみれの若旦那はぴくりともしなかった。若旦那を抱きかかえるようにして、お咲は再び声を上げて泣いた。

 若旦那には奉公へ来た時から、可愛がって貰った。年も若旦那が3つ上、若様と呼んで兄のように慕っていた。まさかその若様と祝言を挙げることになるとは思いもしなかったが、息子を儲け、これ以上ない幸せを感じていたのに、こんなことになるなんて。優しかった若様はもう戻ってこない。

「どうして…、どうして…、どうして…」

お咲は、泣きながら繰り返し、繰り返し呟いた。悔しさに涙は涸れず、悲しみで心は張り裂けそうだった。


 陽が高くなり、奉公人たちが顔を出し始めた。

 お咲の姿を見た奉公人の一人が、

「お咲さん、もしかして、若旦那様が、」

そこまで言うと、声を詰まらせ、彼女はお咲を抱きしめ、一緒に泣いた。


 続々と現れた奉公人たちは互いの無事を喜び、そして旦那様たちの絶息を知り、皆声を上げて泣いた。

 誰が言い出した訳でもなく、若旦那の亡骸と、表で倒れていた、旦那様と女将さんの亡骸を手分けして居間に運び入れ、横たえた。

 お咲は、悲しみの込み上げる気持ちをなんとか切り替え、奉公人たちに手伝って貰いながら、雪を払い、血だらけになっていた3人の身体を拭き、ズタズタにされた着物を取り替えた。

 

 張り裂けそうになる気持ちを、無理矢理落ち着けたところで、お咲は中庭に皆を集めて改めて昨夜起こったこと、そして現状を語り、最後にこう語った。

「……、こうして旦那様を始め、女将さん、そして若旦那も昨夜の打ち壊しで命を落としました。さぞ無念だったと思います。民のために私財を擲って尽力した旦那様たちが、どうしてこのようなことになってしまったのか、私は彼らを到底許すことはできません。

 ただ、彼らを許せなくても、彼らに仇討ちをする気はありません。なぜなら、そんなことをしても、旦那様たちは悲しむだけですし、戻ってくることはもうないのですから。

 しかし、工藤家はここで終わりではありません。幸い我が子龍之介も無事です。この子が工藤家を支えられるようになるまで、皆さんのお力を私に貸してください。必ず工藤家を再興し、旦那様の、そして女将さんの無念を晴らそうではありませんか。」

そう言って、お咲はあふれてくる涙を堪えながら、深々と皆に頭を下げた。

 お咲に去来する思いは一つ、工藤家を再興し、龍之介が無事跡取りとして独り立ちするまで支えていく。

 工藤家に嫁いだとは言え、よわい17の小娘ができることなど、たかが知れている。しかし、彼女の決意は固かった。​すべては工藤家の再興のためである。


「お咲さん、あなたの気持ちは十分わかった。儂らも工藤家に奉公している身、気持ちはあなたと同じでさぁ。あなたについて行きやすよ。必ずや工藤家を復興させやしょう。そして龍之介お坊ちゃんが立派に工藤家を継いでくれるよう、気張りやしょう。」

番頭は、お咲にそう言うと、振り返って、

「今日からお咲さんが女将さんだ、皆、女将さんのために気張るぞ!」

と奉公人皆を鼓舞した。

啜り泣いていた奉公人たちは、涙を拭き、顔を上げて頷いた。

 こうして、新たにお咲を女将とした工藤家は、奉公人たち一丸となって再興への決意を新たにしたのだ。


 工藤家で、皆が片付けに追われていると、そこへ訪ねる者が現れた。

 お咲は、門番に呼ばれて、片付けの手を止めて出て行くと、壊れた裏門の外には、お得意先の藤本が立っていた。

 藤本は藤本組の頭領で、黒鍬くろくわを生業とした大工の家である。藤本は、いつも唐様からようの召し物を身に纏い、人々から唐様からさまなどと言われるほどの変わり者ではあるが、工藤家のお得意として、奉公人が使いに来ることも屡々しばしばあった。頭領本人が顔を出すことは滅多になかったが、来訪した時は必ずと言って良いほど、お咲の仕事ぶりを褒めてくれ、旦那様にお咲を大切にするよう言い付けていた。

 そんな頭領が何用で来訪したかは分からないが、ここは裏門である。商談で訪れた訳ではないことは確かだ。


「藤本の旦那様がわざわざお見えになられたのは、何用でございましょうか。」

門番が警戒する中、お咲は来訪の理由を問うた。

「町家が襲われたと聞いてね、お見舞いに来たのだが。旦那様はご無事かい。」

この日も唐様の召し物で現れた藤本は、来訪の理由をこう言った。

「わざわざお見舞いいただきありがとうございます。旦那様と女将さんは昨日の打ち壊しで身罷りました。若旦那様は私を逃がすために囮となり、…」

お咲がそこで声を詰まらすと、

「そうか、それは残念なことだ。お悔やみ申し上げる。」

藤本は、驚きの表情を浮かべ、事態を理解すると沈痛な表情で弔意を述べた。

「お気遣いありがとうございます。上がってお茶でもと申し上げたいのですが、このようなありさまで、藤本の旦那様にお出しできるものがなにもなく、申し訳ございません。」

「いや、大変な時だ、そのような気遣いはいらないよ。それよりも、大事なものを渡しておこうと思ってね。」

藤本はそう言うと、懐から赤い巾着袋を取り出した。

「これは、宝貝ぱおぺいと言ってね、唐物からものなんだが、身を守る御守りらしい。是非肌身離さず持っていて欲しい。」

「そのような貴重なものを、いただいてもよろしいのですか。」

「是非貰って欲しい。あなたの出してくれたお茶の味が忘れられなくてね。いつも楽しみにしていたのだよ。そのお礼だと思って受け取って欲しい。」

「そんな、お茶のお礼なんて、釣り合いが取れません。」

「ではこうしよう。これは工藤家再興の御守りとして、あなたに授けます。是非工藤家の再興の守り神として大切にして欲しい。」

藤本が優しくそう言って微笑むと、

「そう言うことでしたら。御守りの力をお借りします。必ずや工藤家を再興し、藤本様の御恩に報いたいと思います。本当にありがとうございます。」

お咲は巾着袋を押し頂いた。

「それと、屋敷の壊れたところはうちの連中に直させよう。明日にでも若いのを寄越すから。好きなように使ってくれ。」

藤本はお咲の頭越しに屋敷の中の様子を見て、そう申し出た。

「お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。」

「それで良い。大変な時に悪かったね。落ち着いたら、私の屋敷にも顔を見せに来ておくれ。美味い茶は出せないが、話したいこともあるし。」

そう言って、再び藤本は優しく微笑んだ。

「分かりました。是非お伺いいたします。本当に色々とありがとうございます。」

お咲は深々と頭を下げた。

「また様子を見に来るよ。」

「お気遣い本当にありがとうございます。」


藤本が帰ると、お咲はいただいた巾着袋を開けてみた。中から一寸に満たないほどの玻璃玉はりだまが出てきた。ガラスの様に透明でありながら、光を通すと緑色に光る。昨日降り積もった雪の反射光が、玻璃玉を通してキラキラと輝いていた。

「綺麗。こんな綺麗な玻璃玉は見たことないわ。私を、そして工藤家を守ってくださる御守りとして、大切にします。この御恩は生涯忘れません。」

お咲は、すでに見えなくなった藤本の後ろ姿に向かって、もう一度深々と頭を下げた。

 

 略奪を受けたのは工藤家だけに留まらなかった。城下町は破壊の限りを尽くされていた。商家や豪農が襲われ、多くの血が流された。それで人々の生活が上向きになったのなら、商家や豪農たちの犠牲も報われるのかも知れないが、飢饉の影響は根深く、彼らの生活が元に戻るにはかなりの月日がかかった。

 襲撃者たちは首謀者を中心に捉えられ、そのほとんどが流罪となった。

 これが、後に「享保の大飢饉」と呼ばれる、死者97万人、飢餓者250万人にも及んだとされる江戸の四大飢饉の一つであった。

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