< 第二章 > - 第一節 - 「お咲」
時は
両親は農民で、小さな田畑を持ち、小舟で漁に出て、その日暮らしをしていた。子どもたちは8人。一番上の兄は既に丁稚奉公に出て、町の商家で働いていた。二番目の兄は小舟を操り、漁に出ては家計を助けていた。三番目と四番目の姉たちは下の子たちの面倒を看るのが仕事、五番目から下はまだ幼く、自分のことで精一杯。それでも、五番目と六番目の兄と姉は、簡単な家の手伝いはできるようになっていた。
そんな家庭に産まれた九番目の子供がお咲である。
器量良しで元気が良く、末っ子でもあるため、兄姉からは特に可愛がられた。将軍様の目にとまれば大奥にも、なんて大それたことを両親が言ったりもしたが、ただの親馬鹿だ。
安房の片田舎に将軍様がお見えになるはずもなく、目にとまるなんてことは、天地がひっくり返ってもあり得ない話である。
慎ましやかで、質素な暮らしだったが、そんな両親の下、家族11人仲良く暮らしていた。
お咲が生まれる数年前の
それでも、正徳年間になると、幕府内での改革が動き出し、まだまだ傷が癒えぬ場所や人々も多いとは言え、ようやく日常を取り戻すことができるようになってきた。
ここ安房国も地震による津波や、富士の噴火による降灰があり、人的被害はもちろんのこと、農業、漁業に多大な損害を被っていて、復興にはかなりの月日が費やされた。
お咲のところも、田畑や漁船に被害を受けたが、それでもなんとか家族総出で、田畑から灰を取り除き、漁船を修理して、ようやく日常を取り戻したのだ。
そんな折に誕生したのがお咲である。
世情は荒廃し、村もまだあちこちに被災の爪痕が残ってはいたが、新たな命の誕生に、お咲の家族は幸せだった。家族皆でかわりばんこに彼女の世話を焼き、2つ上の八番目の五男まで、お咲をあやしたりするほど、家族皆から愛されていた。
お咲が生まれてから間もない、陰暦6月末の暑い盛りに、家継が
新しい時代の到来とともに、治世が代わった事による期待と不安が人々に広まったが、結局、将軍が代わったからと言って、彼らの生活が変わる訳ではなく、今まで通りの慎ましやかで質素な生活と、災害からの復興を地道に続けるだけだった。
人々の不安をよそに、吉宗の治世は概ね安泰で、人々も日々の暮らしに精を出し、世の中も良くなっていた。そして、お咲もすくすくと育ち、やがて丁稚奉公へ出るまでに大きくなった。
丁稚奉公先は城下町に構える仲買屋の商家で、
お咲はよく働いた。末っ子で甘やかされて育ったとは言え、実家は慎ましやかで、質素な暮らしをしていた農家である。働かざる者食うべからずと言うが、生活して行くには、贅沢をせず、子供たちも家業を手伝わなければならなかった。
しかし、そんなことは関係なく、お咲は小さい頃からよく働いた。好奇心も旺盛で、兄姉に色んなことを教えて貰っていて、読み書きそろばん、簡単な算数も奉公に出る頃にはできるようになっていた。
奉公先でお咲が担当したのは、炊事、洗濯、裁縫、掃除、そして接客と言った女児の花嫁修業的な仕事ばかりだった。しかし、手先が器用なお咲はそつなく
工藤家の旦那様が奉公人を大切に育成する人物だったため、小さな失敗は叱責されることなく、きちんと教えて貰えた。
お咲もそんな環境の中で、伸び伸びと仕事を覚えていった。
ある日、お咲が接客中に客の勘定を暗算して、番頭に伝えていたのを見た旦那様が、お咲を呼び出した。
「お咲、お前はいつもお客の勘定を立てているのか?」
「はい。旦那様。何かまずかったでしょうか。」
お咲は、何か余計なことをしていたのかもと、旦那様の真意が分からず、顔色を伺いながら応えた。
「いや、まずいことはないが……」
と言葉を濁し、顔を曇らせる旦那様に対して、お咲と一緒に呼び出された番頭が、
「旦那様、お咲の勘定立ては正確です。念のため儂もそろばんをはじきますが、間違ってたことは一度もありません。」
と助け船を出してくれた。
「ほうそうか、さすがお咲だな。ではお咲、帳面を付ける仕事には興味あるか。」
曇顔を綻ばせると、旦那様はお咲にそう聞いた。
「はい。やらせて貰えるなら、一生懸命やります。」
そう、お咲が元気よく応えると、旦那様は番頭に向かって、お咲に帳面付けの仕事を教えるように言い付けた。
その日から、お咲は帳面付けの仕事も任されるようになり、番頭の下で仕事を覚えていった。帳面付けは男児の奉公人の仕事である。しかし、彼らの中でも、仕事の丁寧さ、正確さはお咲が群を抜いた。
器量良しで、才覚もあるお咲は、旦那様だけでなく、家人や奉公人、果ては客にまで気に入られ、帳面付けだけでなく、取引の場や、買い付けなどにも連れて行って貰えるようになった。
男児の奉公人に混じって、様々な仕事を熟したお咲は、旦那様にも認められ、やがて、数えで15になったお咲は、工藤家の長男と祝言を挙げる事となり、皆が羨む若女将の地位にまで上り詰めた。
そして、翌年には男児を儲け、順風満帆の人生を歩んでいたのだ。
ところが、享保16年(1731年)になると天候不順が続き、農作物の生育が芳しくなかった。
旦那様、女将さん、若旦那、番頭、そしてお咲を交えて、今後の対策について話し合っていた。
「折からの不作は、安房でも例外ではないようじゃ。米の値段も日に日に上がっておる。大坂では餓死者が出始めたとも聞く。何か対策を練っておこうと思うが、何か意見はあるか。」
旦那様がそう切り出すと、番頭は、
「旦那様がおっしゃるとおり、米の買い付けにもいささか苦労しております。魚介の方はまだ問題ありませんが、米、麦は数両に跳ね上がっております。これでは商売になりゃしませんよ。」
頭を抱えるように項垂れながらそう言った。
「旦那様、今のうちに多めの囲いをしておいた方が良いかと思います。いずれ飢饉は安房にも及ぶでしょう。その時のために、今から準備しておいた方が良いと思いますが。」
お咲も嫁という立場ながらも、帳面付けを任されていると言うことで意見を述べた。
「そうだな、やはり今のうちに準備をしておくべきじゃな。」
旦那様はそう言うと、女将さんや若旦那の意見も聞きながら、今後の対策を決めていった。
その年の終わり頃からは長雨が続き、年が明けても天候に恵まれることはなかった。やがて安房国にも餓死者が出たと言う騒ぎが城下町にも届き、人々は不安に襲われたが、それでも日常を取り戻そうと、店は今まで通り開けていた。
工藤家でも、店を閉めることはなかったが、取り扱える商品の量が厳しくなり、注文に応えられないことも一つや二つではなくなってしまった。
西日本を中心に広がった飢饉は、とうとうここ安房国にも及んだ。
幸い漁師町を城下に持つ安房国は、魚介類で飢えを凌ぐことはできたが、それでも米の値段が暴騰したことで、それに併せて魚介類の値段も跳ね上がり、庶民が手に入れられる食料は徐々に限られていった。
ますます人々が口にする食料が減っていったのだ。
安房国でも餓死者が増えたため、各藩でお救い米として、囲い米を放出するなどして対策に乗り出した。
お咲が居る工藤家でも、囲い米などを放出し、炊き出しなどをおこなって、民衆救済に名乗りを上げたが、最早焼け石に水。炊き出す米の備蓄もあっという間に底を突くありさまだった。
町には生死も分からない人々が路傍に横たわり、死臭が漂っていた。蠅が
盗人も増え、往来も危険となり、女子供が一人で出歩くことはできなくなった。男でも気を抜けば身包み剥がされることも屡々であった。
年の瀬、安房国では珍しく雪が降りしきる中、手に手に農具を武器にした人々が、城下町に押し入った。
「私腹を肥やす豪商は我々の
の掛け声とともに、私腹を肥やしていた商家が襲撃を受け、秩序のある打ち壊しがおこなわれていった。
秩序ある打ち壊しとは、略奪、殺害は一切せず、囲い米などを地面にぶちまけるなどして、商家を懲らしめるやり方で、自分たちは強盗ではない、世直しのためにおこなう正義なのだと言うことを主張していた。
打ち壊しをおこなう人々も、商家とは顔馴染みであるから、懲らしめる以上のことはしなかったのだ。
ところが、その中に悪巧みを目論む者たちが紛れていた。おそらく
ある商家の主人が何者かによって殺害され、略奪されると、瞬く間に商家は打ち壊しの人々と対立し、反撃する者が現れた。
こうなってしまっては、秩序は風前の灯火、やったやられたの応酬で、略奪、殺害が広がっていった。
しかし、商家にとっては多勢に無勢、押し入ってきた襲撃者たちに対して為す術もなかった。
工藤家も例外なく襲われた。元々今回の打ち壊しも工藤家は対象外だった。人々にお救い米を放出し、炊き出しまでおこなった工藤家を襲おうとする者はいなかったのだ。
ところが、秩序をなくした群衆は、片っ端から破壊の限りを尽くし、略奪、殺害を繰り返していたのである。
「お前たちはどこの者だ!」
と旦那様が、覆面をした襲撃者たちの前に立ちはだかり、
「我々は民のために立ち上がる者!私腹を肥やす豪商は成敗してくれる!」
押し入ってきた襲撃者たちは、問答無用とばかり鉈のようなもので旦那様を切りつけた。そばに居た女将さんがあまりの事に悲痛な叫び声を上げた。
奥の部屋から様子を伺っていた若旦那は、
「お咲、ここは危ない。天井裏に隠れておれ。もし何かあっても決して出てきてはならぬ。おぬしは工藤家の希望であるのだから。」
そして、お咲の背中で寝ている息子の頭に手を置き、
「龍之介、お主の母上を頼んだぞ。」
そう言うと、壁に仕込まれた隠し部屋への扉を開け、お咲を逃がすと、自分は取って返し、群衆に向かって行った。
「我が工藤家を襲うとは、
と大声で怒鳴りつけると、
「私腹を肥やす商家が、笑止千万!我らの義により成敗してくれる!」
覆面の男がそう返した。
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