< 第一章 > - 第三節 - 「初出勤」


 いよいよ半年ぶりの出勤日となった。

 田中健太は、いつもより早めに起きて、朝食を摂り、身支度を整えていた。

 出かける準備をしながら、面接に合格したその翌日、手続きと川名さんへのお礼も兼ねてハローワークへと足を運んだ時のことを思い出していた。


 面接当日は苛々しながら向かったハローワークへの道中も、その日は清々しい気持ちで向かうことができた。いつものカウンターに川名さんを見つけると、向こうも田中に気づき、満面の笑みで迎えてくれた。そして、彼女は「本当に良かったですね」と何度も繰り返し言ってくれた。

 田中が半年間決まらずに、苛々を募らせているのを、端で見て感じていて、ようやく決まったことに、他人事ながらも安心したのかも知れない。

 そんな川名さんの様子を見て、田中は面映ゆく、お礼を言うので精一杯だった。

 そんな様子をふと思い出して、思わずにやけてしまった。


 今日は出勤日初日、カジュアルな服装で良いとは言われたが、第一印象が大事だというのは言わずもがななので、いつもの白いパンツに、上はライトブルーのオフィスデイシャツと、薄いグレーのジャケットを羽織った。そして靴は面接の時に履いたオフィスカジュアルの黒靴にした。

(初日にいきなり作業と言うこともないだろうし、もし作業があるなら事前に教えてくれるだろう。まぁ仕事を始める前から、ああだこうだ悩んでもしょうがない。)

田中はそう考えて、この格好で行くことにした。

 面接の日に渡された書類を、愛用のビジネスバッグに入れて、自宅を出た。


 酷暑の続く日々、今日も朝から照りつける日差しは刺すように痛く、最寄りのバス停に着く頃には、うっすらと額に汗をかいていた。


 JRの駅までバスで行き、そこで別のバスに乗り換えて会社に向かう。面接の時に使ったルートだ。

 駅までのバスは、朝のラッシュで混み合ってはいたが、都心の寿司詰めラッシュに比べたら空いている方で、さほど苦にはならない。駅からのバスに、乗客は数えるほどしか乗っておらず、座ることもできた。

 これから毎日、このルートを乗っていくと考えると、新たな生活が始まったのだと、田中は購入したばかりの定期券を見ながら改めて実感した。

  

 会社の最寄りバス停に着くと、右は住宅街、左は垣根が設けられた道を5分ほど歩いた先に、自然環境研究協会の社屋が見えてくる。

 面接当日に見た社屋は、後ろの竹林とも相まって、どこかアンバランスで、それでいて調和が取れているような、不思議な違和感を感じたが、この日は朝の日差しのせいか、三階建ての白い建物が、煌びやかで、優雅な雰囲気を醸し出した、風格のあるビルのように感じ、後ろの竹林から聞こえる、竹の葉が風でこすれる音が、田中の高ぶる気持ちを和らげているように感じた。


 正面玄関の鉄製ゲートは今日も閉まっていたが、通用門の方は開いていて、そのまま敷地に入ることができた。ロータリーを通り抜け、正面のガラス扉を開けて中に入ると、玄関ロビー右側にもう一つガラス扉があった。

 このガラス扉を開けて中に入ると、来客対応のカウンターがあり、手前の壁際には長椅子と簡易的な記帳台が備え付けられていた。

 

「おはようございます。本日よりお世話になります田中健太と申します。建設部の方はいらっしゃいますでしょうか。」

 工藤美咲から初日は出勤したら、一階事務所の建設部を訪ねるように言われていたため、カウンター越しにそう名乗った。

 始業時間にはまだ少し早かったためか、来客カウンターの向こう側に並ぶ事務机には、3人ほどが座っていただけだった。

 そのうちの1人、一番奥でパソコンに向かって何か作業をしていた男性がむくりと立ち上がり、田中に向かって手を上げ、

「田中くんだね、カウンター横の扉から入ってきて」

と、田中を呼び寄せた。

「失礼します」

 田中はカウンター横のウエスタン扉を押し開け、中に入り、手前の方に座っていた2人に挨拶しながら、自分を呼んだ男性の方へと事務机の間を通って行った。


 田中を呼び寄せた男性は、身長が180㎝ぐらいで、がたいは良く、黒く日焼けした顔に、口元から見える白い歯が印象的だった。年の頃は50代半ばで、いかにも建築業の親方と言った風貌の彼は、田中が近づくと、

「おはよう、今日からだったね。私は源藤浩一げんどうこういち、この建設部の部長をやってます。よろしく。」

低音の腹に響くような声で源藤は挨拶をしてきた。

「はい、おはようございます。今日からお世話になります、田中健太と申します。こちらこそよろしくお願いいたします。」

田中も挨拶を返し、頭を下げた。

 

 源藤は田中に空いてる事務机に座るよう促すと、

「工藤さんから話は聞いているけど、暫くうちの部で業務見習いをするって事で良いのかな?」

と確認してきた。

「はい。工藤さんからはそのように聞いています。建設部でこちらの会社の業務を覚えながら、徐々にコンサルタント業務をしていって欲しいと言う話だったと思います。」

そう田中は応えた。

「なるほど、コンサルタント業務を担当することになるのか。それはすごいな。前職は何をしていたの?」

「はい。前職は人材派遣会社で派遣社員の管理を主に担当していました。派遣先との業務調整などもしていたので、言わばマネージャーみたいな感じです。」

「へぇ、マネージャーねぇ。それはまた大変な仕事だったんだね。うちはかなり畑違いみたいになるけど、まぁそう気負わず、追々一つずつ業務を覚えて言ってくれたら良いから、分からないこととか困ったことがあったら、いつでも相談してください。」

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけすることになるかも知れませんが、よろしくお願いします。」

あらためて田中は頭を下げた。


「業務が始まる前に、やることを済ましておこう。まず最初に提出用の書類は持ってきたかな?」

 田中は鞄から署名してきたいくつかの書類を入れたクリアファイルを取り出し、源藤に手渡した。

「確かにお預かりします。内容は人事部の方で確認するから、不備があればその時に指示を受けてください。それと、これが我が社の社訓、心得、社則です。一応目を通しておいてください。休日とか経費とか、それを基に処理することになりますので。それと、社訓、心得は我が社の目標みたいなもので、無理に守れとは言わないけど、この会社の社風なので、ぜひ覚えてください。」

源藤はそう言って、A4のファイルを一冊田中に手渡した。


 ファイルを開くと一枚目には、「社訓 自然と共に、未来を築く」と大きな文字で書かれ、ページをめくると、二枚目には「社員心得十箇条」とあった。

 その十箇条とは、

一、自然の声に耳を傾けよう

 自然界のメッセージを受け取り、自然が囁く魔法の言葉を聞く努力を怠らないようにしましょう

二、感謝の儀式をおこなう

 自然の恩恵に感謝する儀式をおこない、自然の力をより感じるようにしよう

三、自然の力を受ける法具を持つ

 自然からの力を授かるために、法具を肌身離さず持ちましょう

四、自然に感謝する心を持つ

 自然は無限の力を授けてくれます。自然に感謝し、謙虚な心で自然と向き合いましょう

五、自然の神様から知恵を授かる

 自然には様々な神様が存在します。神様と対話し、知恵を借り受け、自然に恩返ししましょう

六、鍛練を怠らない

 自然と向き合うためには、己の身体が大切です。鍛錬を怠らず、自然と向き合える身体作りに励みましょう。

七、自然の教えを共有する

 自然からの教えはあなたにも、我々にも大切な教えです。皆と共有しましょう。

八、自然の驚異と真摯に向き合う

 自然は時に人類に牙をむきます。このような自然の驚異は立ち向かうのではなく、共存するという気持ちで、真摯に向き合いましょう

九、異次元の扉を開く

 自然には我々の知らないことがまだまだ沢山あります。異次元の扉を開けるつもりで、知る努力を怠らないようにしましょう

十、地域社会と自然の共存

 地域社会と自然をつなぐ架け橋となるのが我が協会です。地域社会への貢献と、自然への貢献の両方を忘れずに、地域社会が自然と共存できるように努力しましょう。


 田中は読みながら、

(これが、社員心得十箇条?あまりにも内容が異次元過ぎて理解できないよ。何かの比喩なのか、それとも文字通りの意味なのか、所々宗教めいた感じの文言もあるし、ここの社員はマジでこれを守ってるのか?)

と思いながらも、この不可思議な心得を読み終えた。

 その後のページには会社の規則が記載されていたので、後できちんと読むことにして、顔を上げると、

「あぁ、社員心得は、やっぱり変だよね。どうしてこう言う心得なのか、長年勤めてる自分にも理解できないものだから、そう言うものだと思って覚えて貰えれば良いよ。守れって言われてもどうして良いか分からないでしょ。」

と、田中の曇った表情を見て、いたずらっ子のような笑みを浮かべながら源藤は言った。

「はぁ、無学な自分にはちょっと理解できない文言が並んでいたもので。一日も早く慣れるよう努力します。」

と田中が応じると、

「まぁ、そう気負わないで良いから。気楽にね。」

と言って源藤は大きな声で笑った。

 田中もつられて笑顔を浮かべた。


「入社に当たっては、そんなところかな。まぁ細かいことは追々覚えて貰えば良いから。それと、田中くんには建設部の管理業務を暫くして貰うから、そのつもりで。」

一頻り笑った後、源藤はそう言った。

「分かりました。具体的な作業は追々と言うことですね。」

田中がそう言うと、

「そう、追々な。おっ、随分理解が早いね。さすがだ。」

と、またいたずらっ子のような笑みを浮かべた源藤は、

「それはさておき、今日の君のスケジュールは、人事部との書類確認、身分証の作成、作業着の支給、それと社屋の案内だね。そうそう、それとうちの昼は仕出し弁当だけど、昼はどうする?あっ、ちなみに仕出し弁当は支給だから、出張とか休みで不要な場合以外は毎日届くから、お昼の心配はいらないからね。まぁ特別美味くもないけど、食えないほど不味くもないから、安心して。」

と言って、また大声で笑った。

「分かりました。それは助かります。」

と田中もどう返して良いか分からず、愛想笑いを浮かべた。


「源藤さん、そんなこと言って良いんですか、配達の女性が大のお気に入りのくせに。彼女に今のこと言っちゃいますよ。」

と頭越しに突然声が降ってきた。

 田中は驚いて振り返ると、30代ぐらいの小柄な女性が背後に立っていた。慌てて立ち上がって、

「田中健太です。今日からお世話になります。よろしくお願いします。」

と頭を下げた。

「私、仙道三佳せんどうみかね、こちらこそよろしく。」

彼女は田中を頭の先からつま先まで一瞥すると、にこりと笑って、ぶっきらぼうに挨拶をくれた。

 日焼けした化粧気のない顔で、短髪に会社支給のキャップを被り、作業服に身を包んで、口調も男勝りな感じがしたが、控えめとは言え女性らしさは漂っていた。


「仙道君か。おはよう。彼女に余計なこと言うなよ。あの娘いつも頑張っているんだからね。」

源藤が懇願するように言うと、

「おはようございます。言いませんよ。うちの会社の品位を落とすようなことなんて。」

源藤に一瞥をくれながら、仙道が返す。

「品位を落とすって?! 勘弁してくれよ。」

源藤がそう言うと、二人は声を出して笑った。

田中はノリについていけず、二人の顔を見比べるしかなかった。


「田中君、彼女はうちの部の女帝だから、逆らわないようにね。」

「誰が女帝ですって!そんなこと言ってると、ハラスメントで訴えますよ!」

「冗談だって。冗談。」

源藤は、そう仙道に返し、

「ほら怖いだろ。」

と小声で田中に耳打ちした。

「はあ。」

と田中は頷くしかなかったが、仙道の顔を見ると笑っていたので、いつもこんなやりとりをしているのだろう。前職なら、一発でハラスメント扱いになるような掛け合いである。


「な~に、朝から盛り上がってるんすか。」

中肉中背の男性が、所在なげに立っていた田中に一瞥をくれながら、そう声をかけてきた。

「女帝の機嫌を損ねてしまってね。イケメンパワーで何とかしてくれよ。」

源藤は拝むような仕草で、その男性に返事をしたが、ギロッと源藤を睨み付けている仙道を見た彼は、

「部長、そんなことばっかり言ってるから、仙道さんに怒られるんですよ、少しは自重してくださいって。」

この御仁からの援護射撃はなかった。

「昭和の人間なんだから、もう治らないんだって。病気のかわいそうな老人だと思って、少しは労ってくれよ。」

源藤が上目遣いに、このイケメン男性に懇願するが、

「そんながたいの良い、元気な老人のどこが病気なんですか。私たちの誰よりも体力有り余って、しゃっきりしてるじゃないですか。脳が病気だなんて言ったら、それこそ世界中の老人から袋叩きに遭いますよ。」

「分かった、分かった、そんな怖いこと言うなよ。それよりも、今日から入った田中君だ。田中君、こちらはうちのイケメン隊長の京極斗真きょうごくとうま君だ。名前も格好いいだろ。」

 源藤は都合が悪くなったのか、突然田中を紹介した。

「田中健太です。今日からお世話になります。よろしくお願いします。」

「京極斗真です。こちらこそよろしくお願いします。」

突然のフリに慌てた田中と、呆れ顔の京極が顔を見合わせて、互いに挨拶を交わした。

「田中さん、これがうちのノリなんで、あんま気にしないでください。ほとんど冗談半分なんで。」

と田中にウインクしながらそう言った彼は、

「で、部長、そんなこと言ってるとセクハラで訴えますよ。」

と京極が源藤に向かって上から目線で指を指し、薄ら笑いを浮かべながら、劇の台詞のように宣告した。

「京極お前もかぁ!」

源藤が胸を押さえ、片手を上げながら、絶命するふりをした。


田中は愛想笑いをして、その様子を見守るしかなかった。

「誰ですか、新人さんを悪の道に引き釣り込もうとしているのは。」

田中が振り向くと、小柄な男性が声をかけてきた。

千葉啓人ちばけいとです。よろしくお願いします。」

田中は慌てて、

「田中健太です。今日からお世話になります。よろしくお願いします。」

と今日何度目かのお決まりの挨拶を返した。

「部長、朝から馬鹿やってないでください。」

「えっ、俺?俺が悪いの?」

死の淵から蘇った源藤が、自分を指さしながら千葉に詰め寄っている。


「おはようございます。」

その様子を眺めていると、頭の上から女性の声が再び降ってきた。

 後ろを振り返ると、目の前に女性の胸があり、驚いて見上げると、源藤より背の高い女性が立っていた。

「あっ、新しい方ですね。森野香織もりのかおりです。よろしくお願いします。」

アルトのハスキーボイスが、頭の上から降り注いできた。

「田中健太です。今日からお世話になります。こちらこそよろしくお願いします。」

田中は見上げるように挨拶をしてから、頭を下げた。


「建設部はこれで全員揃ったかな。これからしばらくはこの田中君が、うちでOJTをすることになったから、皆よろしく頼む。」

と源藤が皆に向けて改めて紹介してくれた。

「色々ご迷惑をおかけするとは思いますが、よろしくお願いします。」 

皆の視線に少し照れくさいながらも、こうして新天地での仕事がスタートしたのだ。

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