< 第一章 > - 第一節 - 「転職」


 夏の日差しが照りつける歩道を、田中健太たなかけんたは苛々しながらハローワークに向かって歩いていた。

 地球温暖化だかなんだか知らないが、ここのところ異常な高温が続き、35度を超える猛暑日も当たり前になっていた。

 ジリジリと照りつける太陽は、仕事が見つからない苛立ちを否応なく増幅し、車のクラクションや、目の前をお喋りしながらダラダラ歩いて道を塞いでいる女子高生たちに、意味のない殺意を抱き、心の中で毒づいていた。


(こいつら脳天気に耳障りな声で駄弁って道塞ぎやがって、全員どつき回してやろうか。だいたいハローワークなんて名前もどうかと思うよ。直訳すりゃ、「こんにちは仕事」だぜ。そのくせろくな仕事が挨拶に来ないんだから、ホントむかつくよな。)


 彼は心の中で、目につくもの、耳につくもの、思いつくものに次々と毒づいていたが、決して面と向かっては言わない。

 長年信じてきた「触らぬ神にたたり無し」という教えは、彼にとってどんな宗教の教義よりも有意義で、正しいと思っているからだ。「触らぬ神」信者と言っても良いかもしれない。

 

 しかし、外面そとづらは仏の顔を装っていても、彼の心の中はマグマのように煮え立った鬼のような形相をしていた。

 今の彼にとって、このマグマのような苛々のはけ口になるなら、むかつく対象は何でも良かったのだ。決しておくびにも出さないが、心の中でストレス発散をする。

 そんな苛々との戦いも、もう半年近くになっていた。


 勤めていた会社は、順調だった業績が、突然の流行病によって大打撃を被り、業績不振に陥ったのだが、不振に陥った業績回復よりも先に、従業員を切り捨てることを会社は選択したのだ。

 大学を出てから20年以上、休むこともなく、大きなミスをすることもなく、真面目に勤めていたにもかかわらず、会社は真っ先に彼を切り捨てた。端金の退職金とともに。

(俺をクビにしたやつは、絶対呪ってやる。)

 そう心に誓ったところで、彼のクビが撤回される訳でもなく、クビを言い渡された翌日から会社に行くのを辞めた。溜まりに溜まった有給を使ったので、何も咎められることはない。

 やっていた仕事は、その日のうちにすべて始末を付け、取引先にはメール一本で、挨拶文を一斉送信して終わり、特に重要な案件のプロジェクトが動いていた訳でもないし、不況で暇だったこともあり、特に引き継ぐこともなく、彼の仕事は呆気なく終わった。


 あれからもう半年になるが、いっこうに就職先が見つからず、自暴自棄になりかけていた。彼の頭の中には苛々の種が次から次と浮かんでくるので、その種を潰す間もなく、ドンドン苛々が積み重なっていた。


 本気で目の前をチンタラ歩く女子高生を、腹いせにやってしまおうかとも思ったが、先日都内で起きた通り魔事件の犯人が、「クビになった腹いせにやった」という供述とともに、間抜け面をテレビで曝されていたのを思い出し、あんな間抜け面でテレビには出たくないなと思い、かろうじて踏みとどまっていた。

 しかし、彼女たちの甲高い笑い声が、彼の神経を否応なく逆なでしていたのだ。


 気を紛らわすように、着ていたかりゆしの襟をバタバタさせて、火照った身体と気持ちに風を送る。このかりゆしは、彼がまだ二十代の頃沖縄へ行った時に買ったもので、かれこれ15年以上着ている。夏になると、あのとき買ったもう一着と着回しして、愛用している。

 シンプルな柄でトロピカルっぽさがないものを選んだので、房総の片田舎で着ていても浮き上がることがないと、彼は思っていた。


 彼の涼しげな格好とは裏腹に、心の中のマグマは煮えたぎり、いよいよ彼の我慢ももう限界というところで、ようやくハローワークの入っている建物に着いた。

(命があって良かったな。) 

 彼は心の中で女子校生たちに捨て台詞を吐いて、建物の中に入っていった。二階建ての簡素なビルで、いかにも田舎の行政機関といった感じの建物だ。


 建物の中に入ると、ヒンヤリとした冷気が彼を包み込み、さっきまでピークに達していた苛々が、多少は和らいだ。

 半年も通っているので、勝手知ったる何とかだ。建物に入ると、早速個人に開放されてる端末コーナーに直接向かい、仕事を探し始める。


 条件を色々変えて検索をかけるが、相変わらずろくな仕事が出てこない。ブラックの匂いがプンプンする仕事ばかりなのだ。こんなご時世、まともな仕事にありつこうなんて虫が良すぎるとは思うが、それにしたって酷すぎる。


 こんな不況真っ只中で、会社のPRに「採用定員10名以上」とか「応募即採用」とか「アットホームな職場です」とか「就職祝い金出します」とか、もう挙げたら切りがないが、こんな文言が踊っているのだ。誰がどう見たって「あなたを地獄の道に引きずり落とします」と宣言しているようなものである。

(そんな会社に誰が好き好んで応募するかって言うの。)

彼は心の中で毒づく。


 よく仕事なんて選ばなければ、そこら中に転がってるだろう、なんてことをSNSとかで言ってるのを見かけるが、そこら辺に転がってる仕事なんて、命削ってやる仕事しかないのだ。

 そんな仕事は自殺願望の、命を削りたい人間がやれば良い、腐っても自分は人間なんだから、そんな仕事に就く気はさらさらないと、彼はひたすらホワイト企業の求人探しのため、端末と格闘していった。


 どれぐらい経っただろうか。午前中から始めて、とっくにお昼を過ぎてしまっていた。今日も見つからないかと諦めかけた頃、一件だけ気になる求人が見つかった。


 会社名は「自然環境研究協会」で、業務内容はジェネラリストとある。

(ジェネラリストって要は何でも屋だろ。良いように使われるんじゃねぇのか。)

 彼は訝しがりながらも、更に求人票に目を走らせた。

 給与は破格の金額で、相場の倍ぐらいが提示されている。


 こう言う会社は大抵ブラック企業であることが多いのだが、会社のPR欄にはブラック企業特有の文言は一切なく、「自然を愛し、自然とともにこの世界を良くしたいと思う意欲的な人の応募をお待ちしています」とだけあった。

 応募条件も運転免許とパソコン技能のみが必要で、年齢や学歴その他に特段の制限はないようだった。


 どうもブラック企業のような雰囲気があるものの、そう決めつける決定的なポイントが見当たらない。

 一応スマホでこの企業の評判を検索してみるが、特段悪い評判は見当たらない。逆に良い評判もないので、謎めいた会社ではある。


 事業内容は、自然環境に関するコンサルタント業務を主体とし、自然環境の再生を幅広くおこなっていると言う。

 ホームページには、業務実績として、県内の国立大学と企業がおこなったビオトープ建設事業へのコンサルタントと建設請負とあり、かなり広大な敷地にビオトープを建設した様子が写真とともに紹介されていた。

 スマホで調べた感じでは、ブラック企業としての怪しい点は特段見つからなかったが、こういうのは巧みに隠すのがブラック企業である。


 社歴を見るとかなり古くからこの地で事業をしていて、自然環境研究協会として創業したのは戦後間もなくのことだが、その前身は「藤本組」という土木事業や造林を生業とする黒鍬組くろくわぐみで、幕府や大名からの普請も請負っていたようだ。おそらく下請けの下請け、ずっと下がった、かなり下になるのだろうが。ホームページにそんなことは、一切書いていない。ただ「普請を請け負っていた」とだけある。


 企業としては何となく怪しい感じがするが。老舗も老舗、相当古くからある企業でもあるので、どうにも気にはなる。とにかく気になったら職員に相談しろと言われていた彼は、取り敢えずこの企業の求人票をプリントアウトして、受付カウンターに持って行った。


 受付カウンターには、自分とさほど変わらない年齢の女性が座っていた。

「田中さん、こんにちは。何か良い求人ありましたか。」

気の良い感じの女性が、気さくに声をかけてきた。


「一件だけ、気になる求人があったので、川名さんにちょっと相談に乗って欲しいのですが、良いですか。」

そう言って、彼はプリントしてきた求人票を提示しながら、受付カウンターの椅子に腰掛ける。

 川名さんと呼ばれた受付カウンターの女性は彼から求人票を受け取ると、内容を一瞥し、手元のパソコンに何かを打ち込んだ。


「自然環境研究協会ですね。この会社は良い会社ですよ。悪い噂もないですし、うちからも何人か紹介してますが、皆さん良い会社を紹介して貰ったってわざわざお礼に来た人もいましたから。取り敢えず問題企業ではないと思いますよ。田中さんのご希望にも合ってると思いますし、応募しても大丈夫ですよ。どうしますか。」

 半年も通って毎日のように顔を合わせているせいか、彼の聞きたいことを取り敢えず彼女は教えてくれた。


 実はブラック企業の見分け方を彼に教えてくれたのもこの川名さんで、本当はブラック企業の求人票は片っ端から削除したいんだけど、色々と問題があって、それはできないんだとか。

「その代わり、私が皆さんの応募を踏みとどまらせているのよ。折角なら良い職場で働いて欲しいじゃない。」

どや顔でそう言ってくれた時も、彼がブラック企業の求人票を持って行った時だったのだ。


 どうしてこの自然環境研究協会が気になるのか、田中自身も良く分かっていない。「自然を愛し、自然とともにこの世界を良くしたいと思う意欲的な人の応募をお待ちしています」というPR文が、自分も自然に慣れ親しんでいるから惹かれたのか、相場の倍の給与提示に惹かれたのか、通勤の近さに惹かれたのか、とにかくこの怪しさ満載の企業に興味を持ったのは確かだ。


 とにかく、川名さんに任せておけば一事が万事大丈夫だと思い、取り敢えず面接の日取りを設定して貰うことにした。

 川名さんは早速先方に電話で連絡を取ってくれた。

「先方は今からでも大丈夫って言ってるけど、どう?今からいける?」


 そう聞かれて、自分の格好を見直してみる。

 上半身は沖縄旅行で昔買った水色のかりゆしに、下は作業用品販売店で購入した、通気性の良い白のパンツを履き、靴はいつも愛用しているハイキング用のスニーカーで、少し汚れが目立つ。

 特に変わった格好ではないが、やはり着替える必要があると思った。それと、履歴書も持ち合わせていないので、取りに帰る必要がある。

「履歴書を持ってないので、一旦帰ってから行くことにします。」

と川名さんにお願いして、自宅に戻って着替えてから向かうことにした。


 外に出ると、再び太陽の熱線が頭上から降り注いできたが、心の中の苛々は消え去り、言い知れぬ期待感と不安感でいっぱいになっていた。

(当たって砕けろだ。新しい出発を切ったつもりで面接に挑んでみるか。)

彼はそう心に決めて、誰もいなくなった歩道を歩き始めた。

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