最終話 夕焼けの街(10)
抵抗する力がなくなったことに気付いたのは、すっかり黒が失われた黒いハナコの顔に一撃を見舞う直前だった。わたしは慌てて拳を引っ込め、その様子をじっと観察する。
彼女はネクタイ付きのシャツにサスペンダースカートを身につけた年相応の子供だった。ハナコが戦時下を思わせる服装だったのに対し、おめかししてどこかに出かけるような格好で、憎悪も復讐も全く似合いそうになかった。
今の様子を日常で見かけたら悪いと思われるのは間違いなくわたしだ。服は埃まみれのぼろぼろ、ところどころに殴られた痕のある女の子を組み敷き、拳を固めているのだから。黒いハナコは目に涙を滲ませ、ありったけの怒りを向けてきたが、先程までの迫力はどこにもない。
それでも容赦するつもりはなかった。ハナコにもらった加護を右の拳に集中させ、全力で振り下ろして終わりにする。彼女は世界を焼き尽くしたいと心の底より渇望しており、生かしておけばこの世に仇なすだろう。存在すら許しておけないやつだ。
それなのにわたしは拳を振り下ろせなかった。
黒いハナコに同情しているわけではない。どんなに悲惨な過去があろうとも、こいつはより凄惨な未来を作り出そうとしたのに。
「とどめを刺せないならわたしがやるけど」
イブの声が聞こえてきて視線で姿を確認する。凍りつく体を溶かし続けたせいか頭から爪先までびしょ濡れだったが血色は良く、思ったよりはずっと元気そうだ。
「子供の姿をしてるから殺せないわけじゃない」
わたしは童子の姿をした霊や妖を何度も散らしたことがある。姿形はわたしを押し留める理由にはならない。では、何がこんなにも引っかかっているんだろうか。
「早く殺してよ!」
そんなわたしの優柔不断を黒いハナコが詰る。目元の隈が濃くなっており、顔色の悪さや殴打の痕と合わせてなんとも痛々しかった。
「わたしにはもう力がない。だから世界を焼けない、思い知らせることもできない。こんなわたしが生きていたって、もう意味なんて……」
威勢の良い声が徐々に弱くなり、苦悶の声とともに体をがたがたと震わせ始める。いきなりの変化にどうして良いか分からないでいると、イブは小さく息をついた。
「そっか、手を下すまでもないのね」
「どういうこと?」
「この子は目的を果たす手段を失った。もはや世界を焼く装置ではなくなったの」
イブの言葉で、わたしにも黒いハナコがどうして苦しんでいるかを理解できた。人ならざるものがその意味と役割を失ったことで、存在意義の危機が訪れているのだ。少し前のヒナタやヒカゲと同一の症状……いや、より致命的なものだ。
わたしは苦しみを深める黒いハナコをそっと見下ろす。放っておいてもいずれは消滅するはずだが、苦しむに任せるつもりはない。
望み通り、速やかに止めを刺してやるつもりだった。
「ダメです、殺さないでください!」
思わず拳を解き、声のした方を向くとキララが必死に走ってくるのが見えた。慌てて静止しようとしたが、その前にここまで辿り着き、黒いハナコの苦しみに震える手をそっと握る。
そんなキララの姿を見て、黒いハナコへのとどめを躊躇ったのが何故か分かった。
『お願い、助けて! 二人を助けてあげて!』
ここに来るとき聞いたキララの叫びがずっと心に引っかかっていたからだ。
雛壇が飾られたあの家に着いたとき、キララの他には二人しかいなかった。あそこで殺されそうになっていた老婆だけでなく、黒いハナコのほうも助けたいと願っていたのだとしたら。
「キララ、そいつはお前を攫ったやつだぞ!」
ユウコが慌てた様子で声をあげるも、キララは大きく首を横に振る。
「力がなくなったならもう良いでしょう? 確かに酷いことは一杯しましたけど」
「ギリギリ人死には出なかったかな。わたしは凍死する寸前だったけどね」
イブはわざとらしくくしゃみをする。それで緊迫した空気が僅かに緩んだ。
「でもね、そういう問題じゃないの。存在意義によって生まれた彼女は、それを失っては生きていられない。苦しみが増さないうちに殺してあげないと」
キララはイブの説得も否定しようとしたが、黒いハナコは更なる苦悶に身を捩る。このまま放っておいても良いことなんて一つもないと嫌でも伝わってきた。
わたしは右手を強く握りしめる。キララが腕にしがみついても振りほどき、渾身の力を叩き込むのだ。恨まれるかもしれないけど、わたしがやらなくてはいけない。
「そうよ、早く楽にして頂戴。世界を焼くことができないなら存在する意味はない」
「そんな……わたしと友達になるんじゃなかったの?」
黒いハナコの諦めをキララはなんとか食い止めようとする。
「冗談言わないでよ」
でも、返ってきたのはキララを馬鹿にするような言葉だった。
「キララとなりたかったのは世界が焼けるのを一緒に眺める友達同士なの。反吐が出るほどの平和な世界で、お手々繋いで仲良くだなんてお笑いでしかない」
キララはなおも何か言おうとしたが、黒いハナコは淡く笑うだけだった。
「あなたはわたしに似合わない。光の中で皆に想われて堂々と歩くのがお似合いよ。そんなあなたのことを冥い闇に落としてやりたかったな」
「そんなこと言ったってわたし、ハナコのことを嫌ったりしないよ」
黒いハナコはキララの言葉に応えることはなかった。悲鳴のような声をあげ、自分が自分でない恐怖に涙を零していた。それでキララもやっと、何もしないことが炎に包まれて死ぬよりなお惨いことなのだと気付いたようで、いよいよ力をなくす。
わたしの番かと思ったところで、神々しい気配が出現する。そちらに目を向ければ少し離れた草むらでハナコが立ち上がり、軽く頭を振っていた。黒いハナコの攻撃を受け、今まで気絶していたようだった。
「ごめんなさい、不甲斐ないところを見せて。最後はわたしが始末をつける」
覚悟はできていたが、思わず息をつく。人外とはいえ子供の姿をしたものを殺すのは、やはり心が穏やかではいられないからだ。
ハナコは黒いハナコの側まで来ると、手に白い炎を添え、胸に当てる。彼女を炎で始末するのは残酷なことのように思えたが、白い炎は黒いハナコに痛みを与えることなく、彼女を覆う苦痛の表情が少しずつ安らぎに変わっていく。
キララは一瞬だけ躊躇ったが、白い炎に包まれた右手を強く握る。痛みも苦しみも感じることはなかったようだが、キララは安堵でなく残念そうな表情を浮かべた。
黒いハナコはそれからまもなく、灰となって崩れ去った。キララは少しだけ涙ぐんだが、すぐに目をこすって悲しみを払い、取り乱すことはなかった。
この世界から元凶がいなくなったにもかかわらず、劇的な変化は訪れなかった。街は相変わらず夜のまま、空襲の炎によって赤く照らされており、夜空には星々が流れ続けている。変わったことといえば、靄人が一人残らずいなくなったことくらいだ。
「物語とかだと、元凶が死んだらこういう世界はがらがらと崩れるものですけど」
キララが努めて明るい調子でそんなことを口にする。
「ここは花婿様の心象世界だから、黒いハナコがいなくなっても生きているうちは残り続けるの。この冥くて誰もいない街を、これからも背負い続けて生きていくのよ」
イブの声には不満がありありと浮かんでいた。そんな祖父をさらい、お山で二人幸せに暮らすのが目的なのだから、そんな反応になるのも分かるというものだ。
皆が口を閉じ、その事実を受け止めていたら、ハナコがおずおずと口を開く。
「ありがとう。皆の協力がなければ、わたしだけでは勝てなかった」
「勝ったという気はしない。というよりわたしたちがここに来た時点で、あの子はもう詰んでいたんだと思う」
そう前置きし、わたしは黒いハナコがあくまでも祖父の心の産物であるがゆえ、わたしたちの命を奪うことができなかったのではないかという推測を口にする。
「攻撃できないから靄人をけしかけ、痛みでこちらの心を挫こうとした」
「んー、それはおかしくない? わたしとハナコは普通に炎で攻撃されたんだけど」
イブが反論してくるものの、その理由にはすぐ察しがついた。
「あれは多分、攻撃ではなく身を守っただけだと思う」
わたしの答えにハナコは納得するように頷く。
「黒い炎に押し切られそうになるたび、ふっと緩む瞬間があった。だから力を上空に逃がすことができたんだけど、守りが攻撃に転じようとしていたからだったのね。それに直撃を食らったときは気を失ったけど、わたし自身には傷一つ付かなかった」
「えっと……わたしは思いきり火傷したし、ガチで凍死寸前までいったんだけど」
イブの反論に対する答えをわたしは二つ持ち合わせていた。だが、それを口にする前にイブの顔から悩みが消え、ぱっと明るくなった。
「なるほど、そういうことね」
「そういうことって、どういうこと?」
ユウコが訊ねると、イブは胸を張って答えた。
「花婿様はわたしの強さを信じているのよ。だからわたしだけ全力で攻撃することができた」
その結論をユウコは疑わしく感じたようだが、おそらくは正しい。
もう一つの答えは祖父がイブのことをなんとも思っていないという残酷なものだが、すぐにそれはないなと退けた。祖父はイブとの関係をとても楽しく語ってくれたし、結婚すら考えたと臆面もなく口にした。それほどまでに大きい存在なのだ。
「そういう関係、羨ましいな」
そんなことを考えていたら、ハナコがぽつりと漏らす。
「ゲンにとってわたしは、守られるべきか弱い女の子だったから。いくら退魔師として鍛えてると言っても受け入れてくれなかった」
ハナコの言ったことにもまた覆しようのない真実が含まれている。祖父が心の中に生み出したハナコは、当時の流行りやお洒落を反映した服装だった。無邪気でわがままな子供だった。炎に焼かれた苦しみに耐えられない弱さを持つ女の子だった。でも実際のハナコは炎に焼かれても惑うことなく粛々と死を受け入れた。その強靭な魂は神に見出されるほどのものだった。
祖父がハナコという女の子を決定的に見誤っていたことこそ、今回の事件が起きた本当の原因と言って良いのだろう。
寂しい表情を見せたのも一瞬のこと、ハナコは穏やかで神々しい笑顔に戻る。
「では、ここからの脱出を。キララの心を早く体に戻す必要もあるし」
「そうだ、わたしっていま幽霊みたいになってるんだった!」
キララが大声で叫び、大慌てでハナコに詰め寄っていく。
「ここから出られるんだよね? というかわたしってまだ生きてるの?」
「かなり衰弱してるけど生きてる、安心して」
ハナコの代わりにわたしが答えるとキララは大きく息をついた。
「そっかー、良かった。現代医療に感謝しなきゃ」
「ヒナタとヒカゲにもね。二人がキララのために生命力を分けてくれたのよ」
「そうなんだ……わたしを守って痛い目に遭ったし、今度会ったらたっぷりお礼を言わないと」
その言葉を聞いて胸中に息をつく。キララの感謝を知れば狛犬としての存在意義も持ち直すだろう。あとは若さゆえの復元力がなんとかしてくれるはずだ。
「そのためにも早くここから出ないと」
話がまとまったところでハナコが辺りをぐるりと見回し、ある方角を向くと空に手を伸ばす。すると光の糸が二筋生まれ、一筋は街のほうに、もう一筋は夜空の果てにまで伸びていく。
「みんな、わたしに掴まって」
キララはハナコの手をぎゅっと握り、反対の手をわたしに差し伸べる。わたしはその手を握り、ユウコに差し出して、ユウコはわたしとイブの手を交互に握り、一繋がりとなる。
こちらの準備が完了すると、街に伸びた光の糸がハナコに襲われていた老婆を運んでくる。これでこの街から救い出さなければいけない人物が揃ったわけだ。
次の瞬間には体が浮かび上がり、遥か空の上にいた。眼下を臨めば炎に燃える街が、間断なく星のように流れていく焼夷弾が、それ以外のあらゆるものが豆粒のように小さい。
その全てが点となり、あっという間に地球を離れていく。わたしたちは宇宙を漂う超高速の隕石みたいだった。
その旅にもすぐに終わりがやってくる。宇宙の闇の果てに突如として眩い光が広がり、わたしたちは備える間もなくそれに飲み込まれていった。
夕焼けの街 終
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