最終話 夕焼けの街(9)

「キララのお友達だから見逃してあげようかなとも思ったんだけど」

 情けなく悲鳴をあげているのに、黒いハナコの声は不思議と耳に染みていく。

「あなたの拳、痛かった。わたしに痛みを与えるものは誰だって許せないの」

 眼球が乾いてずきずきする。叫ぶ口からも痛みがするりと忍び込んで肺腑を痛めつける。肌という肌に針を一斉に突き刺されたかのようだ。

 イブが特訓で与えたあらゆる痛みをあっさりと飛び越え、わたしを屈服させようとする。ユウコの取り乱す声が遥か遠くから聞こえてくるように感じるのは、わたしの絶叫のせいだろう。

 こんなものに耐えたくない。いますぐにこの苦痛から逃げ出したかった。

「これがわたしの痛み、苦しみだよ。こんなものを与えた敵を許せないって気持ち、分かってくれるかな?」

 比喩なしに痛いほど分かる。こんな苦しみを受けたら恨みの権化になっても仕方がない。

「分かってくれるなら、キララの隣に置いてあげてもいいよ。友達は一人より二人のほうが良いと思うし」

 わたしは痛みで悶えながら、叫ぼうとした。

 この痛みは誰かが味わって良いものじゃない!

 どんなに憎くても、辛くても!

 他人にぶつけちゃいけない!

 痛みに堪えながらゆっくり立ち上がると、再び拳を握る。力が出ないのは分かっていても、それでも黒いハナコに向けて、いまできることを全てぶつけるべきだった。

 でも、蚊を叩くような一撃が届くはずもなく。黒いハナコはわたしのあがきを鼻で笑った。

「みんなみんな、わたしには勝てない! だってここはわたしの世界なんだもの!」

 黒いハナコは怒りに任せて叫び、黒い炎を一際激しく燃え上がらせる。辛うじて拮抗していた力は瞬く間にバランスを失い、イブとハナコは黒い炎に吹き飛ばされる。

 イブは空中でバランスを取り直して首尾よく着地し、ハナコを素早く受け止める。軽く埃を払う仕草をして余裕を装ってはいたが、服はぼろぼろだし全身に火傷を負っている。わたしと同じか、より激しい痛みを味わっていてもおかしくない。

 ハナコは気を失っているようだが、服はどこも破れていないし、遠目から見た感じでは火傷を負った様子もない。イブが咄嗟に炎と衝撃から守ったのだろうか。

「もうすぐ終わりだから、憐れな神の眷属と妖怪が焼け死ぬのをここで見ててね」

 黒いハナコは手に新たな炎を生み出し、イブとハナコに狙いを定める。だが二人の姿はどこにもいない。一瞬のうちに姿を消していた。

「あらら、逃げちゃったのかしら。か弱い人間たちを置いて」

「そんなことするはずないでしょ」

 そして次のまばたきをすると、イブは黒いハナコの目の前に姿を現していた。

 わたしの目でギリギリ蹴りと分かる一撃に、黒いハナコが年頃の悲鳴をあげる。わたしの拳と違い、イブの一撃は黒いハナコにはっきりとした苦痛を与えていた。

「浄化や説得を考えてくれる優しい時間はもう終わり。さっさと花婿様の心を開放しなさい」

 イブは凄惨な笑顔とともに、黒いハナコの髪の毛をぐいと掴んで持ち上げる。

 黒いハナコは怒りに燃えた目でイブを睨みつけるが、返ってきたのは容赦のない打撃の雨霰だ。それも顔面を中心に容赦なく急所を狙っている。絵面は残酷だが、痛みへの恨みによって生まれた怪異を痛みで制するのは理に叶っているように思えた。

 だが、イブの猛攻は長く続かなかった。動きが目に見えて鈍くなり始め、遂には黒いハナコを掴んだ手を離し、慌てて距離を取る。

 黒いハナコの顔は殴打で痣だらけだったが、口元は笑みに歪んでいて思わず背筋がぞくりとする。彼女の存在感に気圧されたのかと思ったが、すぐにそうではないと気付いた。

 イブの体は半ば凍りつき、今も急速に進行していた。慌てて自分の体を火で炙り、溶かそうとしているが全く追いついていない。

「わたしね、ものを激しく燃やすのと同じくらい、凍らせるのも得意なの。炎のほうが性に合ってるからあまり使わないんだけど」

 わたしは虹髭が使用した冷気を思い出す。あれはサンタという属性に引きずられての力だと思っていたが、黒いハナコの一側面だったのか。

「痛みで怯ませるのは良い判断だけど、全身を炎で焼かれるあの苦痛に比べたらどうってことないのよ。お前が与える些細な痛みなんていくらでも我慢できるの」

 わたしはここ数ヶ月でイブに様々な痛みを与えられたが、本当は物心がつかない程の子供から訓練する必要があったのだ。そうすればもっと戦えたはずだと、黒いハナコはわたしにそう言っているも同然だった。

 イブが言って来たことの繰り返しだ。わたしは甘やかされてきた。だから小狡いやつには勝てても真剣に世を憎悪する敵には手も足も出ない。

 それでも折れることはできなかった。ハナコもイブも黒いハナコをなんとかしようとしたのに、力が足りないという理由だけで何もしないという選択は取れない。

 氷漬けになるのを止めるため、自分の体を燃やし続けるイブを横目に、わたしは一歩前に出る。黒いハナコはそんなわたしをただただ憐れむだけだった。

「可哀想な子。何もかも中途半端で、なまじ人並み外れてるから余計な辛さを味わっちゃう。勝ち目がないのに戦っちゃう。ねえ、さっさと諦めてキララの隣で世界が燃えるのを一緒に見ようよ」

 黒いハナコはわたしの目をじっと見る。それだけで両目に激しい痛みがはしり、思わず苦悶の声をあげる。どんな痛みも耐えようと思ったのに早速挫かれてしまった。

「あなたは死なせてあげない。でも、あまりに痛いと心が壊れちゃうかも」

 痛みで苦しむわたしを見て、ユウコが黒いハナコに抗議の声をあげる。その威勢はすぐに悲鳴へと変わり、地面に崩れ落ちる。

 わたしはぼやける視界の中、がむしゃらに拳を振い続けた。だが、黒いハナコには一発も届かない。せめて痛みを我慢して、効かないなりにも打撃を当てるくらいはできないといけないのに。

「辛いよね? でも仕方ないよ。わたしですら我慢できない痛みだったんだから、中途半端や単なる喧嘩好きに耐えられるはずがない」

 眼球の痛みが顔全体に広がり、息苦しくなる。それだけでわたしは膝をつき、立っていられなくなった。

「もっとも、どんなやつだってここではわたしに勝てないけどね」

「ここが……あなたの世界、だから……?」

「うん、そうだよ。そして、もうすぐ現実もそうなる」

 痛みがじわじわと首に伝わり、広がっていく。黒いハナコはわたしを徹底的にいたぶっている。苦しみを思い知らせ、わたしを骨の髄まで支配しようとしている。

 そんなわたしの耳に、微かな声が届く。

「違………こは…………界じゃ……。花…様の………」

 イブがほとんど凍りついた体で、微かに唇を動かしている。こんなになってもまだ祖父を助けようとしているのは、ほとんど執念としか言いようがない。

 それなのにわたしは痛みに勝てず、無様に倒れようとしている。

 わたしはまだ何もできていない。黒いハナコからの一撃すら食らっていないのだ。せめて彼女が反撃しなければと思わせるくらいの一撃は与えなければ。

 だからわたしは天に向かって吼えた。喉が壊れるほどに叫び、痛みも感情も何もかもを吐き出そうとした。我慢するのではなく全力で痛がり、苦しみ、それでもなお振り出せる力を拳に込める。

 みっともないやり方だけど、中途半端で半人前のわたしがスマートに物事を解決するなんて望んではいけない。叫びながら痛みで緩もうとする拳を目一杯に握りしめ、わたしの中にある力を集中する。

 するとわたしを励ますようにして、白い炎が拳にぼんやりと浮かび、そこだけ痛みが弱くなる。

 これは祖父の心に入る前、ハナコが授けてくれた加護だ。確か黒いハナコの力をいくぶんか和らげると言っていた。

 他の箇所は痛いままだが、これなら戦えるかもしれない。

「やめて! そういうの、無駄なんだって!」

 黒いハナコは苛立たしげに言うとわたしを睨みつける。更なる痛みが全身を襲うも拳に集った力は衰えることなく、むしろ白い炎の勢いは増していく。

 わたしは黒いハナコにじりじりと近付く。イブやハナコを蹴散らした黒い炎や、いまイブを凍らせようとしている氷の力を使われたらひとたまりもないと思ったが、黒いハナコは指を向け、痛みを与えようとするだけだ。

 黒いハナコはどうしてわたしを攻撃しないのだろうか。

 そこまで考えてふと、黒いハナコが口にしたことを思い出す。

『あなたは死なせてあげない。でも、あまりに痛いと心が壊れちゃうかも』

 あれはわたしを屈服させ、仲間に引き入れたいからこその言葉だと思っていた。

 けど、そうではないのだとしたら。

 もしかすると、黒いハナコの力はわたしを殺すことができないのではないか。

 何故なら、この世界を作ったのはわたしの祖父だからだ。黒いハナコではない。

 この世界が黒いハナコのものだというのは嘘っぱちなのだ。

 わたしは痛みに焼かれながら歩を早める。もしそうだとしたら、痛みに耐えることができれば、この手に宿るハナコの加護で黒いハナコを打ち倒せるかもしれない。

「靄人たち! この女を止めなさい!」

 そんなわたしの魂胆を知ったのか、黒いハナコは苛立たしげな顔で新たに出現した靄人たちに指示を出す。

 足止めをくらえばその分だけ痛みは長引いてしまう。今のわたしではどんなにもがいても長くは耐えられないだろう。

 忌々しく思いながら足を止めようとすると、もう一つの白い炎が靄人を次々と蹴散らしていく。

 ユウコがわたしと同じ炎を拳にまとい、痛みに抗いながらも戦ってくれていた。

 わたしと違って痛みに耐える訓練なんてやってこなかったのに。

「火で燃やされるのはちょっとだけ慣れてるのを思い出したんだ!」

 そんなわたしの気持ちを汲んだようにユウコが大声で答える。

「そしたらできるようになった。サオリは黒いハナコをやってくれ。露払いはわたしがやる!」

 虹髭の時とは立場が逆だなと思いながら、わたしは黒いハナコに歩みを進め……いや、それでは足りないと思い直し、痛みで縮みそうな足を鼓舞すると全力で駆ける。

 そんなわたしを見て黒いハナコは全力で指をつきつける。だけど、痛みではもうわたしを止められない。わたしを食い止める靄人もいない。

 わたしは黒いハナコにタックルし、マウントを取ると拳を容赦なく振り下ろす。彼女を覆う黒いドレスが盾となって攻撃を防ごうとしたけど、わたしの拳は一撃ごとにドレスを砕いていく。

「やめて、力を奪わないで! 復讐できなくなる! 世界を焼けなくなっちゃう!」

 黒いハナコの訴えを無視し、わたしはひたすらに拳をふるう。彼女を護る黒いドレス、力の源を一片残らず容赦なく砕き、容赦なく塵に返していく。

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