最終話 夕焼けの街(8)

 靄人を蹴散らしながら、わたしは元来た道を戻る。黒いハナコとの戦いは既に始まっているはずだからすぐにでも加勢したかったが、靄人は次々と現れてわたしを押し留めようとする。

 真っ黒だから表情は分からないが、思いの丈は伝わってきた。痛い、苦しい、悲しい、助けて、死にたくない、お母さん、お父さん、子供がどこにもいない、孫が燃えてしまった、家族がまだ瓦礫の中に……様々な負の感情が容赦なく押し寄せてきて胸が詰まりそうになる。

 ここが心の中だから思いが伝わりやすく、物理的な力さえ生まれてしまうのかもしれない。気持ちにまとわりつかれ、歩みが少しずつ遅くなっていく。

 炎は全てを焼いた。苦しみは天地に満ちた。これはかつて日本という国で実際に起きたことだ。祖父はどれだけ強い力で封じられようと、これら全ての一切を忘れなかった。だからこの街は今も戦争の最中であり、ずっとここで暮らしてきた黒いハナコは負の感情に満ち溢れ、外の世界に飛び出して全てに仇なそうとしているのだ。

 気持ちは痛いほど分かる。実際に痛みを感じる。憎悪に歪んでしまうのも仕方がないことかもしれない。どんなに優しい人間であっても、十かそこらの子供では眼前の苦しみが世界の全てだと考えてしまうのも仕方がない。もっと年を経た大人だって、その気持ちに抗えないかもしれない。

「でも、これは駄目。やっちゃいけない」

 黒いハナコの憎悪が向かう先は日々を精一杯に暮らす人たちだ。敗北と失意を乗り越え、焦土の上に築かれた日常の全てだ。

 わたしとユウコ、キララの暮らしもその上にある。夜不可視という少し変わった活動をしているし、人でないものと積極的に関わる立場だけど、それでもれっきとした日常を生きている。どんな事情があろうと奪われるわけにはいかない。

 わたしは靄人の思いを振り払い、身にまとった自己強化を駆使して容赦なく蹴散らしていく。目から零れる涙は拭えば良い。そうすれば前を見ることができるし、走り続けることもできる。

 百体近い靄人を倒し、ようやく黒いハナコやキララのいた家の前に辿り着いたが、誰もいない。どこに移動したかと辺りを見回せば、反対側からユウコが走ってきた。わたしと同じで目に涙を浮かべているところからして、靄人の心に触れたのだろう。ユウコはわたしの顔を見て、はっきりと安堵の様子を見せた。

「イブとハナコは一緒じゃないの?」

「二人は黒いハナコを追いかけてった。わたしも付いて行きたかったけど、キララと一緒にいたおばあさんを避難させてくれって」

 少し不満げなのは、二人に戦力外判断をされたと感じたからだろうか。ある程度の信頼がなければ力のない人間を一手に任せるようなことはしないのだが、その気持ちは伝わっていないようだ。

「途中で人の形をした靄に遭遇したけどなんとか倒して、できるだけ安全そうな所に置いてきた。サオリも似たような感じ?」

 小さく頷くと、ユウコの顔が憂いを帯びる。

「何か不安なことでもあった?」

 そう訊ねるとユウコは首を横に振り、僅かに俯きながら言った。

「あのおばあさんに、ハナコちゃんを止めて欲しいって頼まれたんだ。あの子は悪い子じゃない、きっと何かの間違いだからって」

「彼女はハナコやおじいちゃんの友人なの。だから贔屓目で見てるだけ」

 友達を助けたいという気持ちは分かる。わたしだって友人を助けるためにここまでやってきたのだから。でも、あのハナコは彼女の友人と同一ではない。負の感情が濃縮され、凝り固まってしまった怪物だ。止める方法は一つしかない。

「止めるって、倒すってことでいいんだよな?」

「その認識は正しい。わたしたちはおじいちゃんとキララを助けて日常に戻る」

 わたしはユウコの心に楔を打つ。今は迷っている暇などないからだ。

 ユウコはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、それは叶わなかった。ここから少し離れた場所で、白い炎と黒い炎が絡み合うようにして空に昇るのが見えたからだ。

 わたしはユウコとともに炎の場所を目指し、迫り来る靄人たちを蹴散らして止まることなく走り続ける。まとわりつく負の感情は重苦しく、何度となく足を止めようとしたけれど、二人だからお互いに励ましあって前に進める。

 そしてようやく、名も知らない川沿いの河原で見つけることができた。

 二人のハナコは相対して睨み合い、イブは四方八方から群がる靄人を、八面六臂の立ち回りで次々と倒していく。一見すると膠着しているようだが、すぐにそうではないことが分かった。

 新たな靄人が続々と集結しており、そいつらはイブの猛攻を数で押し切ってハナコの元に向かおうとしている。おそらくは二人の対決を妨害する腹づもりなのだ。

 わたしは増援として現れた靄人の群れに向かい、ユウコもわたしから少し離れた群れに突撃し、それぞれが拳と蹴りを遮二無二振るう。

 それでも全てを倒すには至らず、どこからともなく湧いてくる。

「こいつら、数に限りがないのか?」

 だとしたら戦いが長引くほどこちらが不利だ。短期決戦で一気にかたをつけないといけない。

 ハナコもそのことが分かっているらしく、神気がその小さな体を激しく駆け巡り、ありったけの力を絞り出そうとしているのが感じ取れた。黒いハナコの力はやはり上手く読み取れないが、同等以上の技を放とうとしているのは伝わってくる。

 辺りの緊張が最高潮に達したと同時、二人のハナコが寸分違わずに力を放った。

 白い炎と黒い炎が真っ向からぶつかり合い、火花を散らす。拮抗する二つの力は周囲に飛び散り、傍から見ているだけで目が痛むほどの眩しさ、激しさだった。

 その拮抗はしかし、長くは続かない。黒い炎が少しずつ、白い炎を押し始めた。

 このままでは押し切られると思ったが、白い炎は黒い炎を鞭のように絡め取り、力の向きを変えて空に向かう。先程も同じ方法で攻撃をいなしたのだとしたら、ハナコはずっと防戦一方ということになる。

 そのことを示すように、疲労を隠しきれないハナコを黒いハナコが蔑むような目で見ている。こちらは微塵の消耗もなく、どちらが優勢かは一目瞭然だった。

「ウスサマ様の魔を祓う力とはその程度なのね。それともわたしのことを憐れんで本気が出せないのかしら?」

「ううん、今のがわたしの精一杯。あなたは本当に強いのね」

「当然よ。わたしは痛みと憎悪に鍛えられたのだから」

 黒いハナコはそう言って、ハナコに嘲りの笑みを浮かべる。

「ゲンを殺さなかったこと、後悔してる?」

 そして容赦なく意地悪な問いを投げかけた。

「さっさと殺しておけばわたしが目覚めることもなかった。世界は炎に包まれなくて済んだのに。ウスサマ様はそのように命じなかったの?」

「好きにしろって言われた。眷属の役目を果たせば他のことには干渉しないって」

「ウスサマ様は人が火で焼かれて苦しんでもなんとも思わないんだ。明王って案外酷薄なのね」

「いいえ、あなたが目覚めることはないと信じてくれただけ」

「よく言うわ、さっきからわたしに押されっ放しのくせに!」

 苛立ちとともに声を張り上げると、黒いハナコは禍々しい炎を掌に生み出し、ハナコに向ける。

「お前と話すことなんてもうない、さっさと消えちゃえ!」

 ハナコも白い炎を生み出したが、黒いハナコのそれに比べて明らかに勢いがない。加勢に入りたかったけど、わたしでは黒いハナコの足元にも及ばないし、身を盾にしても減らせる威力などたかが知れている。

 打開策を思いつく前に時間が尽きた。黒いハナコが炎を放ち、ハナコが応じて力をふるう。今度は拮抗する間もなく、黒い炎が白い炎を一気に押し込んでいく。

 もう駄目だと思ったとき、赤々と燃える炎が白い炎に加わり、黒い炎を押し返していく。

「ごめんね、自分のことは自分でケリをつけたかったと思うのだけど」

 イブがハナコの横に立ち、炎の術で加勢していた。では靄人への攻撃が和らいだのかというとそんなことはなく、火炎車は更に数を増やしてあっという間に周囲の靄人を根こそぎ薙ぎ払う。

 あれほどの力を使ってなお、イブはまだ余力を残していた。

「この危機を見過ごすわけにはいかなかったの」

 イブは軽い調子を保とうとしていたが、表情からは一切の余裕が感じられない。

「いえ、わたしこそ最初から拘りを捨てるべきだった。これはわたしだけの問題ではないのだから。気付かせてくれてありがとう」

 ハナコは感謝を述べるとイブの炎に合わせ、白い炎をまとわせて力を重ねていく。

「こういうの、柄じゃないのよね」

 そんな風にぼやくのは照れ隠しか、全力の苦しさを隠すためか。どちらにしろ、イブは辛うじての笑みを浮かべながら黒いハナコを睨む。

 二人分の力を受け止めているためか、黒いハナコは先程までの余裕をかなぐり捨てていた。それでも形勢逆転とまではいかなかったし、黒い炎はますます勢いを増していく。彼女はこの中にいる誰よりも強く圧倒的だった。

 その様子を見て、らしくもなく弱気になっていたことに気付かされた。どんなに強くても叶わなくても、それは黙って立っていて良い理由にはならない。

 わたしは黒いハナコのもとへ突き進み、イブやハナコに向いているその横っ面へと拳を放つ。子供の姿をしているからと躊躇っている暇はなかった。勝てなくてもいい、少しでも力を削いで、気を逸して勝ちの目を引き寄せるつもりだった。

 渾身の打撃はしかし、黒いハナコを揺るがすことさえできなかった。彼女はわたしの拳を受けたまま、目だけでじろりと睨みつける。

 次の瞬間、全身を凄まじい痛みがはしり、呼吸がままならなくなる。これまでに一度も味わったことのない、心を一瞬で捻じ曲げるような、俄に耐え難い代物だった。

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