最終話 夕焼けの街(7)

 六名の該当者を二名ずつに分担し、わたしは認知のしっかりした患者が割り当てられた。そのうちの一人目は緑内障の手術を受けた八十八歳の女性で、予後の話から始まって子供の頃は誰よりも目が良かったのにとわかりやすく嘆いてくれたから、流れで出身を訊いてみた。

「夫の勤めていた炭鉱が閉鎖して職がなくなったから知人の伝手を頼ってね、九州から東京に出てきたの。もう半世紀も前のことなんだけど」

 外れであることが分かったから早く次の人に移りたかったが、そこから三十分ほどかけて彼女の半生を聞かされる羽目になった。

「いつもの看護師さんはすっぱり話を切り上げていくのに。あなた親切な方ねえ」

 わたしは苦笑いを浮かべながら部屋を後にし、二人目の所に向かう。九十歳の女性で、健康診断によって腋下にがんが発見されたため、数日前から放射線と抗がん剤の治療を受けていた。

 一人目の方と違って寡黙で、なんとか過去の話を引き出そうとしても気のない返事をするばかり。治療による倦怠感が酷いならそっとしておきたいけど、そういうわけにもいかない。

 とはいえ闘病生活を送る年の離れた女性を相手にどう会話を広げていけば良いのか。そんな内心の苦悩を隠し、体調を気遣うふりして探りを入れていると、困ったような笑みを浮かべられた。

「心配していただけるのはありがたいのだけど、わたしは平気ですから。どのような副作用が出るかも聞いていますし、若干の気だるさはありますが想定の範囲内です」

 体の衰えは目に見えるほどだが看護師に扮したわたしに臆することなく、理論立てた説明を行う。精神活動は未だ活発で、表情も穏やかな中に迷いがない。そして病の渦中であるというのに、他人を気遣うことができる優しい人だ。

 それならばと、わたしは情に訴えてみることにした。

「すみません、祖母に似ているものでつい深入りしすぎました。私情を挟むのは良くないと分かってはいたんですが……」

 不幸があったことを示すような雰囲気を作り、軽く俯いて息をつく。彼女の顔に同情的な色が浮かび、その素直さに胸がちくりと傷んだ。

「その方もがんで亡くなられたのかしら?」

「ええ、少し前に。戦争を経験しているためか強気で頑健な人だったんですが……」

「戦争は人を強くしませんよ。あなたのおばあさまが元々、強い方だったの」

 彼女の顔に、戦争という言葉への強い忌避感が浮かんだように思えた。

「そういうものでしょうか?」

「ええ、わたしも戦中生まれだけど若い頃から定期的に体調を崩していたし、入院もこれが初めてではないの。戦争がもたらした痛みや病の後遺症で早くに命を落とす人も沢山見てきた。戦争が人を、社会を、国家を強靭にするなんてうそぶく人もいるけど、そんなのはみんな出鱈目よ」

 そこまで口にして、彼女は僅かに顔を赤らめた。

「ごめんなさい、つい熱が入っちゃって」

「いえ、そういう話を戦争の当事者から聞けるというのは悪いことではないと思っています」

「そう、なら良いのだけど。わたし、戦争には良い思い出がなくて」

「戦争に良い思い出のある人なんているんですか?」

「武勇伝を誇る男は意外といたのよ。妻子が日々空襲で怯えていたなんてまるで考えもせず、酒に酔った勢いで敵を何人殺しただの、大砲で敵の船を沈めたなどと声高に主張するの」

「それは結構、きついですね」

「敗戦の後ろめたさを払拭する意味もあったと思うけど、良い気がしなかったことは確かね。その盲目的な勇ましさが国中に行き渡った結果、戦禍は拡大したのだから。あと一年……せめて半年早く敗戦が決まっていれば実家も故郷も燃えずに済んだし、友人が死ぬこともなかった」

 話が核心に近付き、わたしは前のめりになる気持ちを抑えながら次の質問をする。

「その友人とは、年は近かったのですか?」

「ええ、一つ下だけどわたしなんかよりずっとしっかりしてて、性根の優しい子だった。その子とゲンくん……もう一人の友達と一緒によく遊んだの。故郷が燃えるまでの短い時間だったけど」

 彼女こそが当たりと確信した。ゲンくんというのは祖父の名前、源三郎から取られたのだろう。

「この年だし、ステージも高いから緩和ケアにかかったほうが良いと言われてるけど、幼くして死んだあの子のことを考えると、病に屈して死にたくないと思うのよ」

 その彼女はいま、神様の眷属としてこの世界を守ろうとしている。そして祖父の想いから生まれたであろう怪異が悪意を振り撒いている。そんなことを知ったらはたしてどう思うだろうか。あまりに現実離れしているから、口にすることなどできるはずもないのだけど。

「そんなことを考えていたからかもしれない、ここに来てから眠るたびに同じような夢を見るの。いつまで経っても燃え続ける街で、人の形をした黒い靄があちこちをふらふらと歩いている。わたしはその日たまたま東京を離れていたから巻き込まれなかったけど、その場にいたら同じような光景を目の当たりにしていたのかも」

 彼女の夢は黒い靄が見せているものと似ているが、人の形をした靄というのは初耳だった。罪悪感に悩まされている様子がないというのも、その夢が黒い靄の仕業ではなく、祖父の心と繋がっている証左のように思えた。

「昨夜の夢では空襲で死んだあの子が歩いているのを見たの。年が三つ四つ上の、今風の女の子と一緒でね、夢だというのについ物陰に隠れてしまった。わたしみたいなお婆ちゃんが楽しみに水を差すことはできないと思ったからなんだけど」

 わたしは内心の興奮を隠し、深く相槌を打つ。それで満足したのか、それとも話し続けて疲れたのか、彼女は大きく息をついた。

「すみません、辛いことを話させてしまって」

「いえ、こちらこそ愚痴のようなことを聞かせてしまったわね」

 それから二言三言交わし、病室を後にするとわたしは人気のない場所に移動してからイブとキョウカに連絡を取る。二人の作業はもう終わっており、情報を引き出したパソコンのある部屋に戻って来るようにと指示があった。

 室内で待ち受けていた二人に先程までの会話を説明すると、わたしが訪ねた二人目の女性で間違いないという結論になった。

「黒いハナコに感づかれた様子もないし、その人が眠るまで待ちましょう。サオリはハナコとユウコをここに呼んで来て」

「ハナコは分かるけど、ユウコを連れてくる必要はないのでは?」

「虹髭の時は役に立ってくれたし、格闘のセンスもある。なにより痛みに怯まないのが良い。わたしの強化を目一杯くれてやれば、よく働く盾くらいにはなるはず」

「ユウコが痛みに強いのは家庭の事情があったからで、至って普通の人間なの。辛い戦いに巻き込みたくない」

「あんなのに巻き込まれた時点でもう、普通の人間だなんて通らない。奇縁は新たな縁を次々と呼び続ける。それに対抗できるだけの力と経験を得なくてはならないの」

 イブの言いたいことは分かる。でも、わたしにはどうしても納得できなかった。

 そんなもやもやを抱えていると、キョウカから熱っぽい視線を向けられていることに気付き、慌てて思考を逸らす。全く考えずにいることはできないが、味を薄めることはできるはずだ。

「騙してもユウコは許してくれるはず。あの子は優しいからね」

 キョウカは意地の悪い笑みを浮かべる。特大のしかしを心に秘めていますとでも言いたげだ。

「でもさ、大事な局面に関わらせてくれない相手なんて信頼することも、気持ちを深めることもできないと思うな」

「危ない橋を渡らせないほうが感謝されない?」

「でもさ、あの子は優しいから」

 キョウカはユウコの評価を繰り返す。

「優しいとは誰かを特別にしないってことでもある。少しばかり仲の良いクラスメイトで満足できるなら別に良いけど」

 なんとか否定しようとしたが、キョウカの言うことは正しい。わたしがユウコと距離を近くしていられるのは夜不可視の活動に巻き込んだからであり、虐待を受けて逃げ込んできた彼女を匿った過去があるからだ。後者の糸が切れたいま、わたしに残っているのは前者しかない。不可思議こそがわたしとユウコを繋ぐ唯一の糸なのだ。

「おじいちゃんやキララを助けたいだけなのに、邪なものを混ぜられた気がする」

 これがキョウカの言う心の味変なのだろうか。

「一つの問題に複数の目的を設けて悪いことはないと思う。キララちゃんを助ける、ユウコの特別を保ち続ける、両方やらないといけないのが辛いところね」

「虻蜂取らずってことにならない?」

「そこはそれ、上手くやれば良いのよ」

 キョウカの案を黙って吟味していると、イブが横から口を挟んできた。

「サオリが渋るならわたしが連れてくるけど。戦力として期待してるし」

「さっきは良く働く盾って言ったくせに」

「本当に戦力外なら盾にすらなれないのよ」

 イブはユウコを戦力として考えており、わたしが何を言っても聞きそうにない。だからユウコを巻き込む決断を下すしかなかった。

「分かった、わたしが連れてくる。イブは何が起きても絶対に生き残るくらいの強化をかけて」

「そこはわたしが絶対に守るとか言えないの?」

「ユウコは守られるだけのお姫様じゃない」

 だから術後の痛みで死ぬほど悶えるようなことになっても、イブの強化に頼ったほうが良い。肩を並べて一緒に戦うことが、ユウコを守ることに繋がるはずだ。

「分かった、ありったけのバフをかけてあげる。というか最初からそのつもりだし」

 イブは苦笑し、キョウカはくつくつと笑う。わたしは微かな恥じらいを残し、ハナコとユウコを呼びに行った。



 狭い部屋の中に五人で身を潜めることしばし、ハナコが突如として鼻を鳴らし始める。何か臭うのかと問う前にその顔は苦く歪み、只事ではない事態が起こりつつあると皆が察した。

「冥い炎の臭いがする。もしかしたら先手を打たれたかも」

 ハナコは言うやいなや慌てて駆け出していく。これまで長年にわたって慎重に身を隠していたのが嘘のような軽率さで、わたしはおろかイブですら止めることができなかった。

「馬鹿、なに焦ってんのよ!」

 イブが急いでハナコを追い、わたしとユウコが続く。後ろをちらと見ればキョウカは慌てず騒がずのマイペースで、それを見て一呼吸し、歩を正すと全身に仕込んである退魔の術を一つずつ点検していく。

 全て問題ないことを確認すると、イブやハナコに遅れて祖父の知人である女性の病室に入る。

 途端に悲痛な声が耳を突き刺した。ベッドの上に横たわる女性は白い炎と黒い炎、二種類の炎に包まれており、お互いがお互いを食い合おうとしている。

 白い炎を出しているのがハナコなのは、彼女の右手が同じ色に包まれていることからも明白で、もう一つの炎が黒いハナコの仕業であることを示していた。

「これ、どうしたの?」

「わかんない、わたしが来た時にはこうだった」

 イブにさえ手出しできない状況であることが、表情と声の調子から伝わってきた。

「看護師がいたから追い払って、悲鳴が外に漏れないようにしてるんだけど」

 その判断は正しいと思う。ここに医師や看護師がいても混乱を助長するだけだ。

 そう結論づけるとわたしは改めてハナコの顔を見る。神々しくも激しい怒りで彩られており、見ているだけで全身が火に包まれそうだった。

「わあ、すごく純粋で高潔な怒り」

 どう宥めようか考えていると、後ろからキョウカの興奮した声が聞こえてくる。

「昔の友達を殺されそうになってキレてるのは分かるけど、少し落ち着こうね」

 キョウカは神の惑乱を聞き分けのない子供のだだみたいに言うと、ハナコの背中を軽く撫でる。

 キョウカが白い炎に焼かれてしまわないかと気が気ではなかったが、ハナコの放つ炎の勢いは徐々に弱くなっていく。すると冥い炎も引きずられるようにして姿を消した。

 だか、問題は何も解決していない。ベッドの上の女性は炎が消えても苦しみ続けていた。

「ごめん、外側からじゃ何をやっても意味ないよね」

 反省するハナコの背中を、キョウカはあやすようにそっと叩く。それで僅かに残っていた怒りも収まったようだった。

「大事な人の危機なんだから、少しくらい判断を間違えるのはしょうがない。でもさ、神様って人間や妖怪より怒りが御し難いんだからいつだって冷静でいないと」

 ハナコはキョウカの説教に小さく頷くとわたしたちをぐるりと見渡す。怒りは残っているが、少なくとも表情にはほとんど出ていなかった。

「キョウカの力でみんなの心を一まとめにする。そこからの誘導はわたしがやるから、イブとサオリとユウコはわたしを一心に信じて」

 わたしとユウコは顔を見合わせて頷き、イブはおっけーと軽々しく了承する。ハナコはイブの不遜な態度に眉一つ動かすことなく、掌の上に白い炎を三つ生み出した。

「わたしの加護をあげる。受け取って頂戴」

 イブはまたしても軽い調子で炎の一つを掴む。それはイブの体を包み、ふっと消えた。

「何も感じない。わたしが知覚できないものへの加護……つまり黒いハナコ対策ってこと?」

「ええ、彼女の力をいくぶんか和らげる。本当は無効化してあげたいんだけど」

「それなら、あとは勇気で補うことにしますわ」

 妙なことを口にするイブにハナコは柔く微笑む。心強いと思ったかもしれないが、イブは少し気まずい顔をしていた。おそらく何らかの元ネタがあったのだろう。

 わたしとユウコもハナコの加護を受け取る。イブが続けてユウコの耳元に呪言を呟き、わたしは二人の様子を後目に自己強化の術を全力でかけていく。

「戦闘前にできる限りのバフ積み、定石よね」

 まるでゲームみたいなイブの物言いだが、未だ相手の能力の全てが把握できているわけではない以上、できる備えは全て注ぎ込んだほうがいい。エリクサー症候群なんてもってのほかだ。

「では、ささっと始めましょう」

 全ての準備が整うとキョウカは大きく深呼吸する。胸郭が信じられないくらいに膨らみ、少しずつ元の大きさに戻っていくのだが、その様子を目にしているうち、粘っこいものに包まれているような、奇妙な感覚が心身を満たし始める。

 わたしはキョウカの心に食われ……いや、丸呑みにされてしまったらしい。

 既にいくつもの意識が混ざり合っているためか、自我を保とうとするだけで目眩がするほどの疲労感を覚える。

「抵抗しないで。意識が溶けるままに任せるの」

 キョウカの指示におそるおそる自我を解き放つと意識が急速に曖昧となり、吐き気がするほど息苦しい。このままでは祖父の心に辿り着く前にわたしがわたしでなくなってしまいそうだ。

 苦しみが頂点に達しかけたとき、奥底で白い炎がぽつりと灯る。それは暗闇の荒野を照らす唯一の光であり、行き先だった。

 わたしはその光に向かい、どこまでもどこまでも落ちていく。

「お願い、助けて! 二人を助けてあげて!」

 闇の底から微かに、キララの助けを呼ぶ声が聞こえてきたような気がした。

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