最終話 夕焼けの街(6)
「結論から言うと、可能性はあると思う」
キョウカはわたしの顔を見るなり答えを口にする。前のときと違い、見返りを求めようとはしなかった。
「キララちゃんを助けるためだから、協力を惜しんではいられない。あんなに極上の心が失われるなんて、あってはならないことよ」
少しは情があるんだなと思う側からそう言って舌なめずりをする。少しも本性を隠そうとしなくなったどころか、わたしが気持ち悪がるのを楽しんでいる節さえある。本当に性格が悪いやつだ。
「御託を並べるのはいいからさっさと説明して」
「はいはい、分かってる。少しからかっただけ」
じっと睨みつけるてもキョウカはまるで堪える様子がない。わたし程度の退魔師など取るに足らないとたかを括っているようだった。
「では、ざっくり解説するわね。人の心は脳に支配される程度の矮小な代物だけど、きっかけさえあれば奔放な作用を及ぼすの」
「きっかけ……具体的にはどういうもの?」
「色々としか言いようがないけど、他者との関係性が起因になることが多い。前に三角関係で悩む少年少女たちの読み心地について話したと思うんだけど」
その時のことを思い出したのか、キョウカはうっとりとした表情を浮かべる。
「反芻するのは後でやって頂戴」
素早く釘を刺すとキョウカは不満げに鼻を鳴らしてから話を続ける。
「わたしが言いたいのは、人の心が他者によって変じるということ。遠く離れていても、長い時間が経ったとしても、過去に築いた関係があれば何らかの反応を示すことがある。分かりやすい例を挙げると、虫の知らせなんかが正にそうね。何の脈絡もなく親の死を察するのは、長く築いてきた関係が不可逆的に変わってしまったことを心が理解するからなの」
それにもまた科学的な解釈はありそうだが、ここでは追求しなかった。いま必要なのは科学で説明できない心の作用についてなのだから。
「つまり、そうした関係を持っている人がつい最近になって祖父に影響をもたらしたと?」
「それが最初に言った可能性の話。しかもわたしでさえ入ることのできない、閉ざされた心に干渉しているのだから並々ならぬ関係ではない。肉親とか過去の恋人とか、あとは初恋の人や離婚した元配偶者……訳ありの失恋というのも良いわね」
薄々そうではないかと気付いていたが、キョウカもイブに負けず劣らぬ恋愛脳の持ち主らしい。色恋沙汰に思考が偏りすぎている。
「恋は素敵よ。人の心を巧みに味変……読み心地を変えてくれる」
「そう……」
「あからさまに興味がない素振りを見せないで、流石に少し悲しくなってくるから」
無言で頷くと、キョウカは小さく咳払いする。ふてぶてしい性格だが、恥じらいが皆無というわけではないらしい。
「とにかく人間関係を洗い直してみて。何かが見つかると思うから」
「分かった。もし、祖父の心に侵入できる算段が見つかったら、改めて協力をお願いしたい」
「おっけー。キララちゃんの心を無事に助け出すためだからね」
キララの心をこの気持ち悪い妖怪の好きにはさせたくなかったが、まずは黒いハナコを阻止しなければならない。わたしは決意を新たにすると早退届を出してから下校し、家で祖父の人間関係を調べることにした。
祖父は記録を残さない人だった。何故なら全てを細かく覚えていられると豪語していたからだ。わたしに話してくれたいくつかの武勇伝も細部に渡って曖昧なところがなく、まるで小説を読み聞かされているようだった。
公文書ならともかく、昔の人間関係を示すものが出てくることは期待していなかったし、あまり広くない押し入れの中にあるのは比較的新しいものばかりで、祖父が今を生きる人であることを実感するよりほかなかった。
「これ、昔なくしたゲームだ。おじいちゃんが持ってたのか」
などとしみじみしていたら、背後からの視線を感じた。まだ昼前だし、イブかなと思いながら振り返ると、ユウコが家探しで散らかった部屋をじっと見ていた。
「学校はどうしたの?」
「キョウカに事情を聞いた。キララを助ける手がかりを探すなら協力できるかなと思って来たんだけど」
「残念ながらほぼ探し尽くしたあと。老人なんだから若い時にもらった手紙とか一枚くらい残しておいてくれても良いのに」
「実際に見つかったのはゲームのカートリッジか。あの人らしいなあ」
「少し前にもやりたいゲームが全部発売するまで生きていたいとか言ってた」
「それ、文明がなくなるまで死ねないやつだ」
「そこまで人の道を踏み外さなくて良いから」
でも、わたしが大人になるまでは生きていて欲しい。神社を継ぐにしろそれ以外の道を行くにしろ、一人立ちしている姿を見てから安心して逝って欲しい。それが身寄りのないわたしを育ててくれた祖父に対する唯一の恩返しになるだろう。
だから黒いハナコを祖父から追い出し、元気になってもらう必要がある。そのためにも祖父と繋がりのある心の手がかりを見つけ出さないといけない。
わたしとユウコは藁にも縋る気持ちで物がしまえそうな場所をくまなく探したが、その浮き名を示すようなものは何一つ見つからなかった。
「ここまで縁も艶もないとは」
「その生涯をひたすら自分以外のものに捧げてきたというのは本当なんだな。わたしにはちょっとできそうにない」
ユウコの口調から祖父への尊意が伝わってくる。虐待の逃げ場として我が家を惜しげなく提供した時から感謝の念は持っていたし、ユウコは自分より強い人間に憧れを持つタイプだ。
祖父が九十近いのは幸いだった。いや、イブの例があるから油断はできないのか。
「サオリのじっちゃん、そういうことは話してくれなかったの?」
「赤い空や燃える街のことも最近まで話してくれなかった。おじいちゃんの武勇伝は誰かを暗い気持ちにしないようなものを選んでいたのかも」
だからこそ掛け値なしで楽しかった。でも、今はそのことが寂しいなと感じる。
「ここまで過去が分からないと打つ手がないな。ミステリアスってのは悪いことじゃないけど」
「今どきそんなの流行らない」
不機嫌そうに言ってから少し大人げなかったなと思い、慌てて付け加える。
「それにわたしたちが体験していないことを沢山知ってる。墓に埋めてしまうのは勿体ない」
そう取り繕うとユウコは大きく頷いた。
「確かにサオリの言う通りだ。入院中のじっちゃんに世話してくれたお礼の代わりで昔の話をいくつか聞かせてもらったけど、歴史の授業で習わないことばかりだった」
ユウコの楽しそうな表情を見て、やはり祖父はライバルになり得るのではなどと考えてしまい、慌てて頭から追い出そうとする。
そのときだった。脳裏に激しい閃きが駆け抜けたのは。
あまりにもはっきりしたことを、今までずっと見逃していたことに気付いたのだ。
「そうか、病人だ!」
「病人……じっちゃんのことじゃなくて?」
ユウコの問いにわたしは大きく頷いた。
「最近になっておじいちゃんと同じ病院に入院したから距離が一気に近付いた。それがきっかけでおじいちゃんの夢を見ることができるようになったとしたら」
そこまで考えて嫌な可能性が頭を過ぎる。
その人を通じて黒いハナコの気配が漏洩しているとばれたら命を奪って塞ぐ可能性が高い。
わたしはイブとキョウカに連絡を入れる。迅速に目的の人物を探すため、二人の力が是非とも必要だからだ。
話を聞いたイブとキョウカはすぐさま病院に潜り込む手筈を整えてくれた。わたしを信じたというより、他にできることがないからできることを試そうという思いなのだろう。
イブは白衣を野暮ったく着こなす壮年の男性医師に化け、猫背気味に歩いて親しみやすさを出していた。対するキョウカは眼鏡を野暮ったい瓶底からアンダーリムに替え、いつも猫のような背をぴんと伸ばしただけだが、ほぼ別人だった。すっかりと新進気鋭の女性医師に見える。
わたしは看護師の服を着て、軽く化粧を施しただけだ。そんなもので正体を隠せるのかと思っていたのだが、キョウカのメイクはわたしの特徴をすっかり消した別人に仕立て上げていた。
「化粧はその名の通り、人の心をいくらでも化かす。大仰な変化の術なんて必要ないのよ」
「変化の術なんて、わたしにとってはメイクより朝飯前なの」
初対面から火花を散らすイブとキョウカにわたしはすっかり呆れるしかなかった。
「まあ、変装したところで妖怪や退魔師であることに変わりはないから、黒いハナコが気配を探っているなら既にばればれなんだけど」
完全に閉じこもったということは、わたしたちを探査するつもりがないと賭けるしかなかった。
「病院のデータを覗かせてもらい、八十歳以上の方で最近になって入院した患者をピックアップ。そこからは手分けして当たりを探しましょう」
八十歳以上の条件を追加したのはイブだった。黒い靄が見せる夢の内容から、その人物もまた戦禍を体験した可能性が高いと推測してのことだ。
ざっくりと方針を決めたところで病院に入る。見たことのないスタッフだからか何度も見咎められようとしたけど、すぐにぺこりと頭を下げて各々の業務に戻っていく。イブの術がここでも無法の力を発揮していた。
「雑な心理操作術だこと」
「その批判は甘んじて受けましょう。ただし、覚の人心掌握術をいちいちやっている暇がないことも、理解してもらえるとありがたいかな」
キョウカは返答の代わりに鼻を鳴らし、それからわたしたちの少し先を歩く医師を指差す。
「あの人、どうやら全権限持ちよ。ここのお偉いさんっぽい」
イブはにやりと笑い、医師を呼び止めると素早く耳元で囁く。すると手帳に何事かを走り書きし、そのページを破いてイブに渡した。
「IDとパスワードをゲット。院内のパソコンでアクセスしましょう」
職業柄、興味本位でメモを確認する。英数字、記号混じりで三十二文字のパスワードだ。
パスワードは使用しない、マネージャーに運用を任せるのが最近のトレンドだけど、記憶だけの運用だとしたら十分な長さだと言える。
セキュリティ意識の高い人が祖父の入院する病院を営んでいることにありがたさを感じ、同時にそれを踏みにじる行いに罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「罪の意識は全てが終わったら存分に感じてね」
キョウカに釘を刺されて頷くと、わたしたちは手に入れた権限で該当する患者をピックアップする。条件に当てはまりそうな高齢者の患者は六名、これならすぐに目星がつけられそうだった。
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