最終話 夕焼けの街(5)

 キララが黒いハナコにさらわれてから間もなく、祖父の容態が急変した。リハビリ中、急に意識を失ってしまったとのことで、どれだけ調べても原因が分からなかった。

「手は尽くしますが、心の準備をしておいたほうが良いと思います」

 担当医にそう言われ、納得したように振る舞ったが誰の仕業かは分かっていた。黒いハナコがキョウカの力を使って祖父の心に侵入しないようにしたのだ。

 彼女は既に種を蒔き終え、現実に出てくるための準備を整えてしまった。あとはその時が来るまで祖父の心に閉じこもり続ければ良い。

 そして黒いハナコの姑息なやり口はこれだけではない。あいつはキララの魂を連れ去ってしまったのだ。

 キララの体は祖父の病室に転がっていた。近くを通りかかった人の話によればキララはふらふらとした足取りで祖父のベッドに近付き、くたりと倒れたという。その時に祖父の意識が失われたことも同時に発覚した。

 キララはあらゆる検査を受けたが意識喪失の原因は見つからず、点滴によって最低限の栄養は補給されているが、急速に弱りつつある。

 どんな延命処置を施しても、人は体と魂が離れた状態で長く生きることはできない。辛うじて持ち堪えているのはヒナタとヒカゲの二人がありったけの生命力を注ぎ続けているからだ。わあわあと泣くのをなんとか慰め、次にはキララを取り戻しにいくと血気盛んになるのを諌め、言っても分からないから実力の差を散々に理解させ、それでようやく今の役目に落ち着いた。

 本当は戦力として期待していたのだが、少し前にキララを危険に晒したこと、黒いハナコの魔の手から護れなかったことが重なり、存在意義が大きく揺らいだのだろう。とてもではないが戦いに連れて行けるような状態ではなかった。

 若い妖獣は生命力の塊であり、キララの命を支えるのにはこの上なく役立ったが、それでも僅かな時を稼ぐことしかできないだろう。

 キララの衰弱死、黒いハナコの顕現、二つのタイムリミットが容赦なく迫りつつあった。

 そして事態が悪化しているのはこの二つだけではなかった。黒い靄を体の中に入れてしまった人たちの悪夢は日に日に酷くなり、心と身体を容赦なく蝕んでいく。

 知り合いの中でその影響を最も受けたのはユウコだった。

「父さんの悪夢なんだけどさ、日に日に酷くなってる」

 ユウコの顔には深い焦燥が刻み込まれ、痛々しかった。ようやく父の暴力から解放されたというのに、新たな苦しみがその肩に容赦なくのしかかっていた。

「焼夷弾で焼け死ぬ人の姿や悲鳴が迫ってきて、目が覚めても心と耳にこびりついているようだって。すっかり塞ぎ込んで、真っ昼間からベッドの隅で膝を抱えて座りながらしくしく泣いてる。こんなのが続いたら心が保たないかもしれない」

 泣き出しそうなユウコの背をさすりながら、わたしは溜息を辛うじて堪える。どんなに暴力を受けても平気な顔をしたのに、親が苦しんでいる姿を我慢できないのだ。

「ごめん、わたし分別のない子供みたいだ」

 ユウコはわたしの腕からやんわりと逃れ、涙を拭う。もっと慰めたかったけど、それはユウコを侮ることになる。だからそれ以上は構うことなくパソコンに向き合い、ネットに転がっている情報をチェックする。

 程度の多少はあれど、あの夢を毎夜ごと見る人が相当数いるのは間違いなく、辛いだの気が滅入るだの、こんなにも沢山の人が同じ夢を見る理由の考察だの、様々な意見がSNSやブログに書き込まれていた。パブリックでない情報はこの数倍には及ぶだろう。

 だが、黒いハナコに迫るための情報はどこにもない。辿れる限りの伝手も当たったが、街の燃える夢を見たとする以上の情報は得られなかった。

 例のトイレを再び訪ね、ハナコにも相談してみたが、力なくうなだれるだけだった。

「これまで感じていた気配がどこにも見当たらないの。いまのわたしにできるのは憑かれた人の疲れを取り除き、睡眠時間を減らすことだけで、それすらも対象が多すぎてままならないの」

 人に眠るなと言うことなんてできないし、得体の知れない何者かが悪夢を呼び水に現実へと飛び出し、世界を焼こうとしているだなんて説明したら、どんな顔をされるか分かったものではない。

 全てが芳しくないことをイブに伝えると、信じられないことに至って冷静な様子だった。

「ここまでは完全に黒いハナコの目論見通りことが運んだわけね。敵ながら天晴れと言うべきか」

「なにそれ、他人事みたい」

 イブの敵を褒めるような発言にむっとしてしまい、言葉に思わず棘が混ざる。

「ごめん、嫌なこと言った」

 幼稚な振る舞いだとすぐに気付いて謝るとイブはわたしのおでこを軽く弾き、無礼はそれで許すと言いたげに笑ってみせた。

「冷静に物事を考えるもう一人の自分を頭の中に作るの。そうすれば怒りや焦りに身を任すこともなくなる。わたしだって本当は花婿様を奪われそうなことに腑が煮え繰り返っているのよ」

 わたしもある程度の分割思考ならできるが、別の人格を作れるほどには徹底していない。だから怒りや焦りを抱えた頭で考えるしかなかった。



 約半月ほどまるで進展がなく、いよいよ打つ手がないかと思いかけたとき、ハナコが突如としてわたしの家のトイレから出現した。起床してから用を足そうとしたら当然のように姿を現して、柄にもなく驚いてしまった。

 登場は奇抜だが、表情は真剣そのものだった。

「ついさっき、もう一人のわたしの気配を感じたの」

「気配……ってことは黒いハナコがこちらに出てこようとしてるの?」

 冷静さを取り戻して訊ねると、ハナコは首を横に振った。

「それならもっと大きな力を感じるはずだけど、ほんの少しだけだった。だから場所も特定できなくて……」

 それは何も分からないのとほぼ一緒だった。ハナコもそのことを理解しているのか、申し訳なさそうにするだけだ。

 トイレの前で立ち話もなんだし、居間に場所を移すとイブが落ち着いた様子で座っており、三人分の飲み物が用意されていた。以前からそうだったが、もうすっかり家人気取りだ。

「ウスサマ様の眷属にこのようなおもてなししかできなくて恐縮ですが」

「いえ、心尽くし感謝します」

 ハナコは幼い姿で音を立てずにお茶を啜る。わたしには親しげだが、イブには鷹揚で威厳のある態度を心掛けているように見えた。

「話は聞かせてもらったのだけど、わたしやサオリでは黒いハナコの存在を感じることができないからハナコに街中を探ってもらうしかない。かといって総当たりをしている時間はない。何らかの方法で捜索範囲を絞り込む必要がある」

「でも、どうやって?」

 ハナコが素朴な疑問を口にする。イブは顎に手を当て、探るようにして言葉を発していく。

「黒いハナコはこれまで用意周到に計画を実行し、塵ほどの痕跡も見せなかったけど、今になって尻尾を出した。わたしはこのことに二つの可能性を見出している。一つは黒いハナコが何らかの目論見を進めるため、わざと発見させたというもの。もう一つは黒いハナコですら予期できない何かが起きているというもの」

 イブは一度そこで間を置き、わたしとハナコの反応を見る。異論はなさそうだと思ったのか、そのまま話を続けていく。

「もし一つ目の可能性が正しいのだとしたら、黒いハナコはわたしたちに何をさせたいのか。二つ目の可能性があるとしたら、黒いハナコは何を見落としているのか。どちらにしろ、わたしたちには他に選択肢がない。罠であれ光明であれ、ハナコが感じた気配を探すしかないと思うのだけど」

「そうね、あなたの意見は正しい」

 ハナコも同意してくれたが、そうなるとどうやっての問題がいよいよ避けられなくなる。だが、まだ誰もそれに対する答えを得られていない。

 長い沈黙ののち、わたしはそっと手を挙げる。

「実は前から考えていることがある。素人考えかもしれないけど」

「ここにいる誰もが黒いハナコについては素人よ。彼女はわたしたちの知識が通用しない、全く新しいタイプの怪異なんだから。どんな思いつきでも話す価値がある」

 イブの意見に少しだけ気を強くし、わたしは躊躇いがちに口を開いた。

「炎の街はおじいちゃんの心にある冥い気持ちが形になったもの。それと同じものをユウコの父親を始めとして、沢山の人が夢見ている。だとすればその夢を辿って、黒いハナコのもとに辿り着けるのでは?」

 わたしには提案の是非は分からなかったが、ハナコは首を横に振った。

「だとしたら、夢を見ている人を通して気配が漏れるはず。でも、わたしには今日まで全く何も感じられなかった」

「燃える街の夢は各人の取り込んだ黒い靄が見せてるんでしょう。現代風に言うとコンピュータウイルスのようなもので、プログラムされた現象を自動的に見せられていると考えられる。だから必ずしも、本体と繋がりがある必要はない」

 ハナコの発言をイブが補足すると、わたしは大きく息をついた。

「そっか、良い思いつきだと思ったけど」

「確かに銀の弾丸ではないかもしれない。でも、一つの可能性を示唆するものではあった」

 そんなわたしを励ますように、イブがそう言って人差し指を立てる。

「黒い靄が見せているのではなく、花婿様の心を直接、夢として見ている人がいるのかもしれない」

「他人の心を夢として見るだなんて、そんなことがあり得るの?」

「夢は意識と無意識の繋がりを生むから、ありえないことではないはずよ」

 イブの堂々とした答えに、わたしは慌てて待ったをかけた。

「少し前に夢は記憶の整理と言ってなかった?」

「科学的解釈が全てだとしたら神や妖怪なんて存在するはずもないし、人知を超えた力を振るえるはずもない。今は科学が強い世の中だからそちらの解釈が通じやすいけど、それ以外の解釈が消えてなくなるわけではなく並行して存在している。条件によっては魔や幻想が科学を超える影響力を持つことだってある。というか、今がその状況じゃない?」

 完全に納得いったわけではないが、わたしも人間でありながら非科学的領域に足を踏み入れているから強く言い返すことはできなかった。

「世界が魔に近づいた結果、科学的ではない解釈を呼び寄せたのだとしたら。黒いハナコが復活するタイムリミットが迫れば迫るほど、わたしたちに有利な状況も働きやすくなるかもしれない」

 イブの言うことが正しいかどうかは分からない。楽観的推測に過ぎず、黒いハナコの存在がどこかから漏れ出している原因も別にあるかもしれない。だが、他に思いつくことはないし、この線で追いかけてみるしかないようだった。

「キョウカにイブの言ったようなことが起きるかどうかを訊いてみる」

 彼女は心理の専門家であり、人と人の境界をその力で繋いだり渡ったりすることができる。彼女ができるというなら幾許かの信憑性があり、無理と言うなら別の方法で進めたほうが良いはずだ。

「そうね、お願いするわ。人間なら心を差し出せば、見返りで教えてくれると思う。知り合いの覚曰く、わたしの心はエグみが強くて味わえたものじゃないらしくて」

「狛犬の心は雑味が強いって言ってたから、妖怪については他の覚と嗜好は変わらないと思う」

 あんなやつに心を好き放題読ませたくはなかったが、ユウコを向かわせるわけにはいかないからわたしが引き受けるしかなかった。

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