最終話 夕焼けの街(4)

 彼女を連れてハナコの家に戻ったが、外から声をかけても誰も出てこない。どこに出かけたかと思いながら家に上がり、居間を覗くと昨日までなかったものがあった。

 三段十五人の立派な雛壇。屏風やぼんぼりなどの飾り付けもきちんとやっていて、うちにあるお内裏様とお雛様だけの雛壇とは大違いだった。

 ハナコの言っていた素敵なものとはこれに違いない。そして目の前の雛壇は今日が何月何日であるかをはっきりと示していた。

 わたしが連れ去られてから既に半月が経っている。それだけの間ずっと飲まず食わずだったとしたら、わたしの体はとっくの昔に生命活動を止めているだろう。

「あら、帰ってきてたんだ」

 背後から声がして振り向くと、ハナコがいくつかの花を手にして立っていた。彼女は隣にいる老女など存在しないかのように素通りすると、雛壇の下段に置いてある左右の花瓶に花を飾り、満足そうに頷いた。

「ハナコ、今日はその……お客様を連れてきたの」

「靄人じゃないってことは、念願の救助なのかな?」

 ハナコは老女を指差し、敵意に満ちた表情を浮かべる。あの痛みを与えようとしているのだと気付き、わたしは慌てて止めようとした。

「お久しぶり、ハナコちゃん」

 その声を聞き、ハナコは指をすっと下ろす。

「あなた、もしかしてミチコなの?」

「そうよ、覚えていてくれたのね」

「そっか、ゲンと同じ街に住んでたのね。あなたもわたしの夢を見てくれてるんだ、ちょっとだけ嬉しいな」

 ハナコは言葉通りの笑みを浮かべ、ミチコの手をそっと握る。そんなハナコに、ミチコは真剣な顔で訊ねた。

「世界を燃やそうとしてるって、本当なの?」

「うん、そうだよ。敵の国と、敵のお陰で復興した国と、気が済むまで焼いちゃおうと思ってる」

「ハナコちゃんにそんなことできるはずがない。だってあんなにも優しい子だったのに」

「優しさなんて全てを焼き尽くす炎の前には虚しいだけ。ミチコだって同じ痛みを味わったら分かるよ」

 ハナコはそう言ってミチコに指を向ける。

「キララから聞いてるよね? わたしはかつて受けた痛みを誰にでも移すことができるの。炎に焼かれるのってね、ほんと辛いよ。全身が激しく痛むし、息を吸おうにも炎が喉に詰まって苦しみと更なる痛みを肺腑にまき散らすの。そんな死に方をした人がね、何千何万といるの。わたしはそんなの認められない。だからね、世界に炎と痛みをばらまくの」

 ハナコは凄惨な笑みを浮かべ、対峙するミチコさんの顔が悲しみから苦痛へと変貌する。耳を塞ぎたくなるような絶叫に負けないよう、わたしは声を張り上げた。

「やめて! 彼女に痛いことしないで。大事な友達だったんだよね?」

「ごめんね、それはできないの」

 いつも通りに喋っているのに、ハナコの声はミチコさんの叫びを素通りしたかのようにすっと耳に入ってきた。

 ハナコは残念そうに首を振り、ミチコさんの顔をじっと悲しそうに見つめる。死にゆく友人を看取ろうとしているのだろうか。

 そんなハナコにミチコさんが絶え絶えの声をかける。

「だめ……ハナコ、ちゃ……」

「ごめんね、ミチコ。あなたはゲンと同じくらいに大事な友達だけど、生かしておけない」

「いたい……いたい……」

「痛いよね、ごめんね。これがわたしの味わった許されざる痛みなの。辛いよね、苦しいよね」

 わたしだったら崩れ落ちて許しを請うたに違いない。でもミチコさんは苦しみながらも首を横に振る。

「いたい……こと……ひとに……おしつけ……だめ!」

 途切れ途切れだけど、ミチコさんの言いたいことは伝わってくる。あの痛みを食らいながらも、かつての友達を止めようと懸命なのだ。

「わたし……いたく……ほか……だめ!」

 そして痛みに悶えながら、それが自分以外の誰かに向かわないようにと願っている。なんて強い人なんだろう。わたしは震え、怯えることしかできなかったのに。

 だが、その強ささえもハナコを止めることはできなかった。

「だめ! この痛みを味わうの! 許しを請うて! 苦しみ抜いて! 死んでいけ!」

 ミチコさんは再び苦悶の叫びをあげ、膝から崩れ落ち、床を転がり回る。より強い痛みが全身を苛んでいるに違いなかった。

 わたしは思わずハナコの腕にしがみついていた。ミチコさんを差している指を逸らせば、助けられるかもしれないと思ったからだ。

 でも駄目だった。子供の細腕なのに、どんなに力を入れてもびくともしない。

「そんなことしちゃダメ。友達なんでしょ!」

「そうだね。でもさ、友達は友達のやることを邪魔しちゃいけないよね?」

 わたしはいまハナコの邪魔をしているのに、何もされていない。この程度では邪魔にすらならないのだ。

 じゃあ、なんでミチコさんは殺されようとしてるの? 説得しようとしただけで、他には何もしていないのに。

 その答えを見つけなければならないのに、頭の中は真っ白だった。ハナコはミチコさんに指を向け続け、叫び声は徐々に弱々しくなっていく。

 このままではミチコさんは死んでしまう。昔の友達が殺そうとしている。こんな悲しいことは絶対に止めないといけないのに、わたしにはその力がない。

「サオリ先輩! ユウコ先輩! イブさん!」

 わたしは頼りになる先輩たちと、教導神社に住み着いた奇妙な居候の名前を呼ぶ。ここまで来ることはできないと分かっていても、助けを請わずにいられなかった。

「お願い、助けて! 二人を助けてあげて!」

「無駄だよ、助けなんて来ない」

 ハナコの無慈悲な宣言とともに体から力が抜ける。わたしの中から全てがなくなっていき、浮遊感にも似た心地よさに包まれていく。

 一瞬のことだったが、わたしは指一本動かせないほどに脱力していた。心地良いのに苦しくて、どうしようもなく恐ろしかった。

 まるでわたしがこの世からいなくなってしまうような、心と体の全てを脅かす未知の感覚……。

「それはね、筆舌に尽くし難い痛みの果てにやってくる、生の終わりの、本当の苦しみ。死ぬってことだよ」

 死の間際に全ての痛みが遠ざかる瞬間があるという話は聞いたことがある。さっき味わったのがそれだったのだろうか。

「死ぬ間際に痛くないって、本来なら良いことなんだけどわたしにはそうは思えなかった。生を奪われた先に痛みがなくなって、心地良くなって死ぬなんて許すことのできない屈辱だよ。キララも感じたでしょ?」

 ハナコの言う通りだった。全てから浮き上がっていくあの瞬間は、少なくともわたしにとっては認めたくない体験だった。

 その気持ちが伝わったのか、ハナコは無邪気な笑みを浮かべる。

「やっぱりわたしたち、分かり合えるね。だから、悲しいことだけどミチコは死んでもいいや」

 ミチコさんの声が途切れ、小刻みな痙攣を繰り返す。これで本当にもう、ハナコは引き返すことができなくなる。わたしはそれを見ていることしかできなくて……。

 そのとき、ハナコの体が吹き飛び、雛壇にぶつかって派手な音を立てる。何が起きたか分からないうちにわたしの体はふわりと浮かび上がり、ハナコの家からあっという間に遠ざかっていく。

「遅くなってごめん」

 その声で、わたしはようやく現状を理解する。

「あとできちんと説明する。だから今は黙って助けられて。良い?」

「分かりました、サオリ先輩」

 頼りになる先輩が助けに来てくれたのだ。安堵のあまり気を失いそうになったが、すんでのところで耐えた。先輩に伝えないといけないことがあったからだ。

「同じ部屋にいたおばあさん、あの人も助けてあげてください」

「彼女ならイブやユウコに任せたから上手く回収できたと思う。心配しないで」

 サオリ先輩はそう言うとわたしを近くの広場まで連れていき、ゆっくりと下ろしてくれた。

「わたしはハナコと決着をつけてくる」

「それは……殺すってことですか?」

「彼女の怨念は度し難い。だから消し去るしかないと思ってる。キララはそうじゃないの?」

 ハナコは好きで世界を燃やそうとしているわけじゃない。かつて受けた痛みと苦しみ、同じように苦しんだ何千何万の人たちのためにやろうとしている。

 消し去る以外の方法があれば試したい。でも、何もできないわたしがサオリ先輩に、命がけの我侭を押しつけることなんてできない。

「彼女は存在してはいけないと思います」

 だから助けてあげて、なんて言えなかった。

 サオリ先輩は小さく頷いてから厳しい顔で前を見る。わたしたちはいつの間にか無数の靄人に囲まれていた。わたしとハナコだけの時は一切手を出して来なかったのに、今の靄人たちからは明確な敵意が感じられる。

「まずはこいつらを蹴散らす」

 サオリ先輩は呪符を巻いた腕と脚を振るい、群がる靄人をあっという間に打ち倒していく。

 数分もしないうちに辺りから靄人が一掃され、サオリ先輩は目頭を拭う。どんな時でも平然としてそうな人が涙を流して辛そうにしていた。

「あいつらに何かされたんですか?」

「わたしなら大丈夫」

 全然答えになってないけど、サオリ先輩の歯を食いしばるようなきつい表情を見ると何も言えなかった。

「キララはどこか安全な場所に隠れてて。そういう場所、自分で見つけられる?」

 わたしは小さく頷いた。靄人は家屋の中に入って来ないから、どこかの家に潜んでいれば安全にやり過ごすことができるはずだ。

 サオリ先輩はもう一度手で目元を擦り、わたしの肩を軽く叩く。

「じゃあ、行ってくる。絶対に助けるから」

 助けるということは、わたしはまだ生きているんだろうか。それ以外にも訊きたいことは沢山あったけど、サオリ先輩は早々に走り去っていく。

 その姿を目で追うと更なる靄人が姿を現してサオリ先輩を止めようとしたが、無双ゲームのように倒されていき、後には静寂のみが残された。

 わたしは何もできない。だからサオリ先輩の指示通り、隠れる場所を探すべきなんだと思う。

 でも、わたしはそうしなかった。少し迷ってからサオリ先輩の後を追いかけることにした。

 荒事から遠ざけてくれたのはありがたいけど、わたしにはまだやるべきことがある。あんな光景を目の当たりにして、価値観の違いを徹底的に思い知らされてもなお、ハナコが世界を炎に包もうとするのをやめさせたかったのだ。

 サオリ先輩たちの邪魔をするつもりはないけれど、万が一にもチャンスが訪れたとき、その場にいないことで何もできないのが嫌だった。

 幸いなことに靄人は一体もいない。きっと侵入者である先輩がたやイブさんを追いかけて行ったのだと思い、わたしは何もない道をあてもなく進んでいく。

 どうか辿り着く先に希望がありますように。

 わたしは誰にともなく、そんな虫のいいことを祈っていた。

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