最終話 夕焼けの街(3)

 彼女は鼻をすんと鳴らし、目頭を拭うと皺の目立つ厳しい顔を浮かべる。先程までの動揺は既になくなっていた。

「見苦しいところを見せてしまったわね」

「いえ、こんなことに巻き込まれたら誰だって正気ではいられないと思います」

「昔は平気だったのよ。ハナコちゃんやゲンくんが一緒だと不思議に事欠かなかったから」

 この人も子供の頃、わたしみたいなことをやっていたわけだ。そう考えると今更ながらに親近感が湧いてきた。

「仲良し三人組だったんですね」

「三人組、というのは少し違うわね。今にして思えば、わたしがあの二人に混ぜてもらっていたというのが正しいんじゃないかしら。それでも十分に嬉しかったけど。疎開先から追い出され、あらゆるものに対して後ろめたい気持ちで一杯だったから」

「疎開というのは戦災を避けるため地方に避難することですよね。大変な目に遭って逃げて来たのに追い出すなんて酷くありません?」

 虐待の一種ではないかと思ったら途端に腹立たしくなってきたが、彼女はそんなわたしをどうどうと宥め、苦しそうに笑ってみせた。

「わたしも悪かったの。時代に合わない正義感をひけらかしてみんなに迷惑をかけたから」

「正義って時代を選ぶんですか?」

 なんとも幼い質問だという自覚はあったが、問わずにはいられなかった。だが、彼女は険しい表情を浮かべ、黙り込んでしまった。

「すみません、悩ませるつもりはなくて……」

「いえ、悪い質問ではないの。わたしに即答できるだけの思慮が足りないというだけ。そうね……これはあなたも知ってると思うけど、戦時下においては勝利が正義に優先する場合が多々ある。それは何も戦場に限ったことではなく、銃後の守りにおいても例外ではない。子供は大事だけど、兵站に必要な食糧を生産する農業従事者たちはそれにも増して重く用いられ、子供の幾許かの尊厳を踏み躙っても許された例があるということ」

 具体的な話を聞こうとしたが、喉がつかえて言葉にならなかったし、口にできなかったのは多分、正解だった。問えばきっと腹に据えかねる事実が飛び出しただろうから。

「わたしは何も変えられなかったし、疎開先を追い出されたことで余計な手間を増やした。正義感と言えば聞こえは良いけど、状況を悪化させただけだった」

「では、声をあげるべきではなかったと。そう言いたいんですか?」

「いえ、そうではない。ただ、一度声をあげたからには、その結果に最後まで責任を持たなければならない。どんなに正しいことでもね。逆にどんな悪いことであっても、その結果に責任を持てるのだとしたら正しさは容赦なく駆逐される。いま起きているのはそういうことかもしれない」

 ハナコは責任をもって世界を燃やそうとしているわけではない。炎の生んだ怒りと憎悪が際限のない凶行へと駆り立てている。

「あの子はいま、正しさを失っています。かつての戦争による苦しみのせいで」

 そう断言すると、彼女はそっと目を伏せた。

「ハナコちゃんほどの子を間違わせるような苦しみだなんて……」

 絞り出すような話しぶりから生前のハナコがどういう子供だったか、僅かながらに察せられた。

「わたし、生きている頃のあの子を何も知りません。どんな子だったんでしょうか?」

 わたしが知っているのは死の直前に起きたこと、世界を焼きたいという激しい衝動だけだ。生前のハナコを知っても何も変わらないかもしれないが、憎悪に届く言葉が見つかるかもしれない。

 本当に、藁にも縋る思いだった。

「あなたと同じで大したことを知ってるわけじゃないの。何の役にも立たないかもしれないけど」

 そんな気持ちを汲んでくれたのか、彼女はそう前置きをしてから遠い昔のことを語り始めた。

「ハナコちゃんとゲンくんはね、特別な目的で東京に来ていたの」

「特別な目的、ですか?」

「ええ、新たな魔が誕生するという預言があったらしくて」

「魔、ですか? それは一体……」

「世界の三割を焦土と化し、数多の死をもたらす災厄で、そいつは近いうちに東京で生まれることになるだろうと預言されたの。だから老若男女問わず力のある対魔師が東京に派遣され、調査を始めたらしくて。全部ハナコちゃんからの受け売りなんだけど」

 非常に物騒な話であり、そんな重大事をさらっと打ち明けるなんて口が軽いなと思ったが、わたしの知るハナコは身の内に抱える憎悪と企みを素直に話してくれた。生前からそういうタイプだったのかもしれない。

「わたしがかつて出会った不思議はその魔を探す過程で遭遇したものなの。中には相当危険なやつもいたけど、みんな世界の三割を燃やすほどではなかった」

 彼女が出会った危険なやつに興味はあるけど、今は関係ないことを根掘り葉掘り聞いている暇はない。

 わたしはじっと彼女の話に耳を傾ける。

「当時は敗戦が近く、空襲警報が頻繁に発令されていたから大人ですらびくびくしながら過ごしていたものだけど、ハナコちゃんは子供だけでなく大人も励まして回ったの。こんなこといつまでも続くはずがないし、みんなが落ち着けるようになると確信をもって口にした。彼女の前では戦争の暗い影もなく、みんな笑顔になることができた」

 戦争はまだ続いていると訴えるハナコとはまるで正反対、皆の平穏を願う優しい子だということが彼女の話から伝わってきた。

「でも、全てはあっけなく終わりを告げた。空から降り注ぐ無数の焼夷弾が、戦時下に辛うじて保たれていた日常を破壊した。見慣れた光景が跡形もなくなった。わたしは本当にたまたま東京を離れていて助かったけど、家族はみな死ぬか行方不明になり、ハナコちゃんやゲンくんを探す余裕すらずっと持てなかった。ゲンくんが生きていることを知ったのはあの空襲から十年も経ってからで、それも本当に偶然だったの」

 そこで彼女は小さく息をつく。その顔はいよいよ険しくなり、ここからが本番であると言葉なく告げていた。

「わたしは親戚の家に引き取られていたのだけど、奇妙な神社を建てようとしている男の噂が立ったの。連合国軍による占領が終わったといっても生活はまだまだ苦しいというのに妙な宗教を立ち上げられたら困るということで、なんとかそいつを追い出せないかと老人たちは話していて、でも若い人たちには面白い男という評判もあって。わたしは親戚の人に、シンパを装って偵察してこいと言われたの。わたしの立場では断ることができなくて」

「それでゲンくんと再会したんですか?」

「ええ、二人してすっかり驚いたあと、あれからお互いに何があったのかを話したの。ハナコちゃんの死をその時に知らされてね。親しいものとの死別はすっかり慣れていたはずなのに涙がずっと止まらなかった。ひとしきり泣いた後で、彼はこう語ったわ。あの日に起きたことの埋め合わせのために、残りの生涯を捧げるのだと」

 それからのことはわたしも知っている。ゲンくん=サオリ先輩のじっちゃんは教導神社を建て、その特別な力を自分以外の誰かのために使い続けた。一人の人生が始まりから終わりまで繋がり、ハナコについても少しは理解が深まったと思う。

「そう言えば、東京で生まれるはずの魔は結局どうなったんですか?」

 これまでの話の中で唯一結論の出なかったことを訊ねると、彼女は首を横に振った。

「わたしも気になって訊ねたんだけど、かつての東京で魔が生まれることはなかったそうよ」

 つまりサオリ先輩のじっちゃんを含む全ての対魔師が、東京で生まれたはずの魔を察知できなかったということだ。

 預言が外れたのでなければ、答えは一つしかない。ハナコこそが新たな魔なのだ。

 つまりこのまま何もしなければ、世界の三割が焦土と化す。

「でも、そうじゃなかったのかもしれない。わたしたちの今いるこの場所が、あのハナコちゃんが預言された魔なのだとしたら」

「わたしも同意見です」

 彼女は俯いたまましばらく黙っていたが、ゆっくりと顔をあげる。その顔には並々ならぬ決意が漲っていた。

「お願い、わたしをハナコちゃんの所に案内して頂戴」

「それは……ダメです、あの子は逆らう相手に容赦なく自分の受けた痛みを浴びせてきます。本当に辛くて、思い出すだけで涙が出そうになるほどです。あなたには味わって欲しくありません」

 わたしは必死に訴えたが、彼女は口元に指を立て、小さく首を横に振る。

「わたしはもう十分に生きたし、重い病に侵されていて、いつお迎えが来るかも分からない。僅かに残された命でまだできることがあるとしたら。かつての友達が悪鬼になろうとしているのを止めることができるのだとしたら」

 そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。

「それはとても嬉しいことなのよ」

 その笑顔を見て、わたしは理解した。この人は幼い頃からどんなに失敗しても後悔しても、折れることなく生き続けてきた人なのだと。

「分かりました、案内します」

 そんな人の決意をはねつけることは、わたしにはできなかった。

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