最終話 夕焼けの街(2)

 友達の約束をしたその日から、わたしはハナコと同じ家で暮らし始めた。

 この街に朝や昼はなく、夜空に絶え間のない流れ星と、どこかで燃え続ける炎だけが明かりの全てだった。

 そんな薄暗い中でわたしとハナコはゲームをして遊ぶ。おはじき、かるた、お手玉、お人形遊びと、どれもやったことのないものばかりだった。

 お人形遊びは今の子でもするのだろうが、同い年くらいの子が人形やぬいぐるみで遊んでいるのを見てもやりたいとは思わなかった。両親がソフビやフィギュアを楽しんでいるのを見て少しうんざりしていたからだ。

 家での遊びに飽きるとハナコは外に出て散歩を始める。靄人はわたしがここに来た時には疎らに見かける程度だったが、徐々に数を増していき、いまや活気のある街と勘違いするほどだった。

 みんながハナコに道を譲り、膝をつくものさえいた。この街で彼女は女王みたいなものなのだ。

「この街にいる靄人はみんなわたしの兵隊なの。世界を燃やす役目を喜んで手伝ってくれるよ」

 全ての靄人がハナコに賛同しているようには見えなかった。大半の個体はただ恐れているだけ。でも仕方のないことだ。ハナコが与える痛みや苦しみはあまりにも激しく、抵抗できるものではない。わたしだってあの痛みを思い出しただけで今でも怖気がはしる。

 黒い少女は芝居がかった調子で周囲をぐるりと見回し、澄み切った声で檄を飛ばす。

「開放の時は近い。さあみんな、怒りと憎悪で敵を、敵の味方になった、敵と同じものをぜーんぶ焼き尽くそう。わたしたちが味わった痛みを知ってもらうために」

 ハナコの言葉に俯く靄人もいれば、拍手喝采する靄人もいる。心の底から彼女に味方するものもいるということなのだろうか。

 そうかもしれない。この世界なんて燃えてしまえば良いと考えるような人もきっといるだろう。でも、多くの人たちはそんなことになって欲しくはないはずだ。

「種は既に蒔かれた、あとは芽吹きを待つだけ。こうやって友達と遊びながらね」

 ハナコはわたしと手を繋ぎ、ぶんぶん振りながら歩く。怖くはないけど、心は晴れない。彼女を説得する言葉を何一つ持っていないからだ。

 今の子供は薄っぺらい、なんて大人が言うのをわたしはいつも鼻で笑ってきた。

 でも、わたしには何もない。何もできない。真夜中の夕焼けは暮れることなく、街を照らし続けている。

 そんなことを考えながら歩いていると、視線を感じた。ハナコに気取られないよう目だけ動かして確認すると、ほんの一瞬だけ視界に映る。

 わたしやハナコと同じ色を持つ、靄人ではない何者か。白髪で腰が曲がっていて、かなりの年を召した女性のようだった。すぐに身を隠したからはっきりとは分からなかったけど。

「どうしたの? きょろきょろして」

 ハナコが話しかけてきて、わたしは思わず肩を震わせる。

「先輩たちが助けに来てくれると思ってるの?」

「いや、そういうわけじゃなくて」

「隠さなくて良いよ。わたしたちは友達なんだから」

「……ごめん、ハナコの言う通り」

 靄人じゃない人がわたしたち以外にもいたかもしれないと正直に話すのはまずい気がして、咄嗟に嘘をついた。ハナコはそんなわたしの言葉を軽く笑い飛ばす。

「謝らなくていいよ。わたしが怖いよね? ここから出て、家族や友達に会いたいよね?」

 手にこもる力が強くなる。微かに震えているのは怒りのせいだろうか。

 あの痛みを覚悟したが、いつまで経っても襲ってくることはなかった。

「約束したでしょ、酷いことしないって」

 その代わりにハナコは小指を立てる。

「それにもうすぐ出られるよ、この世界を抑圧する力が消えるから」

「全部燃やしちゃうんでしょう? だったら外に出られても意味ないよ」

「じゃあ、あなたの家族や友達も燃やさない」

「それはおかしいよ。ハナコの怒りや憎悪は簡単に相手を選り好みできるものなの?」

 これからやろうとしていることに疑問を持って欲しいから勇気を出して指摘する。ハナコは足を止め、しばらく悩んでから申し訳なさそうな顔を浮かべた。

「確かにそうだね。じゃあ、燃やしちゃおう。でも、最後に話をする時間くらいはあげるよ」

 僅かに生じた迷いはすぐに消え、ハナコの心は冥さに満たされていく。小手先で彼女を説得するのは逆効果だと思い知らされただけだった。



 太陽が昇ることも沈むこともない街では、どれだけ時間が経ったかすぐに分からなくなる。スマホは持ってなかったし、動いている時計は一つもない。外をうろつく靄人はどの家にも住み着こうとせず、たださまよい歩くだけで、いつまでもどこにも辿り着かない。靄人の習慣を利用して時間を計ることもできそうになかった。

 これまで当然と思っていたことが一つもできず、心がいよいよ萎え始めた頃になって、ハナコはいきなりわたしを家から追い出した。

「今日はね、準備したいことがあるの。だからしばらく一人で遊んでて。この街のことはもう大分覚えたでしょ?」

 ハナコが連れて行ってくれるのは徒歩十五分から二十分くらいまでの範囲で、その先にも道はずっと続いている。だからこの街のことなんてごく一部しか分かっていないけど、適当に時間を潰して帰ってくることはできる。

「とっても素敵だから期待していてね」

 ああして喜んでいる姿を見ると怒りや憎悪にとらわれているとは思えないし、外の世界を燃やそうとしている恐ろしい存在には見えない。だが彼女はわたしの儚い希望を何度も覆し、冥い本性を露わにしてはわたしを怯えさせる。

 今もよく分からないことを始めようとしているハナコに見送られ、びくびくしながら家を出るしかなかった。

「わたし、ここに来てから怖がってばかりだ」

 ほんの僅かな勇気を振り絞っても、痛みの記憶がすぐにわたしを臆病にする。

 恐るべき企みを今すぐやめて欲しい、冥い感情になどとらわれないで欲しい。でも、あの痛みはわたしの甘さを泥水のように苦くする。あれだけ痛い思いをしたのに、何もせず忘れろだなんて、報復はやめてなんて言えるはずがなかった。

 全身を焼く炎によって激痛と呼吸困難に苛まれ、僅かな時間に一生分の苦しみが流れ込んでくる。どのような喜びもきっとそこには手が届かないのだ。

 そんな諦めを胸に抱えたままとぼとぼ歩いていたら、いきなり腕をぐいと引かれた。全くの不意打ちだったからバランスを取る暇すらなく、わたしは物陰のほうに転がっていく。

 ハナコのせいですっかり忘れていたが、ここは危険な場所で、いつ何時あの不気味な靄人に襲われてもおかしくなかったのだ。そんな後悔とともになんとかここから逃れようとすると、今度は足首を掴まれた。

「わ、わたし食べても美味しくないですよ!」

 そう言いながらせめてもの抵抗で足をばたばたさせると、手は案外するりと抜ける。慌てて逃げ出そうとしたら、そいつは「待って!」と声をかけてきた。

 少し迷ったが、そいつの言うことを聞いて足を止めた。この街でハナコ以外のものが初めて話しかけてきたのだ。リスクを取ってでも情報を集めるべきだと判断した。

 わたしは覚悟を決め、暗がりにじっと目を凝らす。そこには年老いた女性がいて、弱々しい表情を浮かべている。

 前にハナコと歩いているとき、ちらりと見かけたあの老婆だとすぐに気付いた。

「あなた、靄人ではないんですか?」

「靄人……ああ、人の形をした黒い靄のことね。あれと同じではないと思う」

「では、どうやってここに来たんですか? ハナコに連れて来られたわけじゃないですよね?」

 わたしと違う方法でここに来たのなら後をついていけば脱出できるのではと思ったのだが、彼女は力なく首を横に振るだけだった。

「ここ数日ほど、眠りに就くたびここに来る」

「つまり、自分の意志ではないと?」

「そうなるかしら。そういうあなたは、あの子に連れられてここに来たの?」

「はい、そうです。信じてもらえないかもしれませんが、ここは異界でして。わたしは多分、心とか魂だけの存在なんです」

 ここに来てからずっと何も食べてないし、飲んでないけど平気だからきっとそういうことなのだ。わたしの体はどこかに放置されている。今も徐々に弱り続けているかもしれないし、最悪の場合は既に力尽きたかもしれない。

 彼女は異界にいるだなんて眉唾な話を聞かされたにもかかわらず、小さな息をつくだけだった。

「あまり驚かないんですね?」

「他のことならもっと驚いたかもしれないけど、ハナコちゃんだからそういうこともあるんじゃないかって思ったの」

「ハナコちゃん……あなたは彼女を知っているんですか?」

 慌てて訊き返すと、彼女は重々しく頷いた。

「ええ、わたしとハナコちゃん、ゲンくんの三人でよく遊んでいたの。あの日が来るまでの短い間だったけど」

「ゲンくんというのは、その……教導源三郎氏のことでしょうか」

 むかしサオリ先輩に聞いたことのあるじっちゃんの本名を口にすると、彼女は強張っていた表情をほんの僅かに和らげる。

「友人の祖父なんです」

 血縁はないのだが他に上手い表現も思いつかなかったし、サオリ先輩も他所行きの言葉では祖父と言っているのでわたしも倣うことにした。

「その関係のせいで連れて来られたんてすけどね。わたしは人質ってやつなんです」

 そう言って笑い飛ばそうとしたが上手くいかず、相手の顔は瞬く間に曇っていった。

「ハナコちゃんがそんなことするなんて。あんなに良い子だったのに」

 涙を流しそうな嘆きようだったのでわたしは慌てて宥め、それからこれまでに起きたことをかいつまんで説明する。彼女は今回の件と無関係ではなさそうだし、この世に多くの不思議があることを受け入れている。だから素直に打ち明けたほうが、衝撃を和らげられると思った。

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