最終話 夕焼けの街(1)

 気が付くとわたしは赤みさす道を歩いていた。

 右手に柔らかい感触があり、誰かと手を繋いでいるのが分かる。

 そっと視線を向ければ黒い少女がぼんやりと、前を見ながら歩いている。

 夕暮れ時にしては妙に薄暗く、雲でも出ているのかと空を見上げれば、星が降っていた。

 一つや二つではない。何十、何百もの星が夜空に尾を引き、地上に届くたび赤みが強くなる。暗闇を漂う鳥みたいなのは大きな飛行機だろうか。

 これは一体なんだろうと訊ねたかったけど、できなかった。下手に口を聞いて機嫌を損ねたら、またあの痛みをまた与えられるのではないかと思ったから。

 全身を駆け巡る耐え難い痛み。呼吸が困難になり、体が少しずつ縮んでいくようだった。小三の時に骨折したことがあって、死ぬんじゃないかと思うくらいに痛かったけど、あんなものさっき味わった痛みに比べたら蚊に刺されたようなものだった。

「乱暴なことしちゃって、ごめんね」

 痛みの記憶を反芻していると黒い少女が声をかけてきて、思わず肩を震わせる。

 少女はあははと乾いた笑い声を立てた。

「怖かったよね、痛かったよね。その気持ち、とても分かるよ。だってわたしも、とっても痛かったもの」

 語り口は平然としており、辛さを抱えているようには見えなかったが、繋いだ手に力がこもる。微かな震えがそこから確かに伝わってきた。

「でも、良かったよ。痛みを、辛さを感じてくれて」

「良くないよ。あれはとても怖くて駄目なことだった」

 思わず口にしてから唾を飲み込む。わたしは彼女に生殺与奪の権を握られているのに、逆らうようなことをしたらまたあの痛みを与えられるかもしれない。

 だが黒い少女は気分を害することなく、むしろ嬉しそうだった。

「ううん、良いことだよ。だってあの痛みは今も昔も、わたしたちのような少女には過ぎたものだって分かったもの。だから、これからわたしのやろうとしていることは、全て正しい」

 黒い少女の顔は無邪気な子供のように、きらきらとした笑みに満ちている。ヒナタやヒカゲ、そしてサオリ先輩に向けたような禍々しさはどこにもない。

「あなたは人質だけど、それだけじゃない。ありふれた普通の、そして普通じゃないことを追い求めるあなたのような少女に理解して欲しいことがあるの」

「何を理解すれば良いの? 痛み? 苦しみ?」

 その答えは少女の口からではなく、空からやってきた。

 流れ星の一つがわたしたちの近くに落ち、間近で見る打ち上げ花火のような、腹の底に響く音を立てたのだ。衝撃が土埃を巻き上げ、あっという間に広がっていくけど、わたしの目や喉を傷つけることはなかった。

 続けて衝撃の中心から炎が立ち上り、周りのものを燃やし尽くす勢いで広がっていく。だが、僅かな熱すら感じられず、炎も急速に消えていく。

 全ては幻のように通り過ぎ、後には何も残らなかった。

「これは悪だと。報復が必要だと理解して欲しいの。心の中の風景だから誰も傷つけることはないけど、かつて現実に起きて多くの人たちを苦しめたのよ」

 空から降り注ぐ星の全てが、かつて街の至る所に落ちたということなのか。夜だというのに夕暮れのように明るいこの街も、遠い昔に起こったことなのか。

「東京大空襲って、授業で習ったよね?」

 わたしは躊躇いがちに頷く。確かに習いはしたけど、近現代史は覚えることが多くてその一つ一つに感情を向けることはなかったからだ。

 わたしにとってはテストのために覚えなければいけないことの一つでしかなかった。

「八十年近くも前に終わった戦争で起きたこと」

「そう、現実では既に終わった話よ。でもね、この街では何も終わっていない。戦争はまだ続いている。偉い人たちが終わりにしたと言ってもね」

 黒い少女の顔は無邪気なままだ。戦争の現実を語っているというのに。わたしにはそれが恐ろしいことのように思えて仕方がなかった。

「街はずっと燃え続けている。焼夷弾は落ち続けている。彼の心の中で、この世界は一日たりとも失われることはなかった。だからわたしもこの街もあり続けているの。どんなに封じようとも、蓋をしようとも、怒りと憎悪がふきこぼれるのを止めることは誰にもできない。許されないのよ」

 黒い少女は並々ならぬ決意を口にすると、歌を歌い始める。先程までのやりとりにそぐわない、童心に満ちた声だった。


  夕焼け小焼けで日が暮れて

  山のお寺の鐘が鳴る

  おててつないでみな帰ろう

  カラスと一緒に帰りましょう


 わたしは黒い少女の帰るべき道を進んでいる。でもそれは、わたしの帰るべき道ではない。

 なんとかして黒い少女の手から抜け出さなければならない。でも、その方法がどうやっても思いつかなかった。

「そうそう、わたしの名前はハナコって言うの。あなたのこと、キララって呼んで良い? それともモトコのほうが良いかしら」

「ううん、キララで良いよ」

 本名を呼ばれるのは好きじゃないし、それを黒い少女に呼ばれ続けるのは避けるべきという直感が働いたからだ。黒い少女=ハナコにとってはどうでも良いことだったらしく、繋いだ手を上機嫌そうにぶんぶんと振った。



 炎と爆撃の物騒な街を歩くこと十分ほど、ハナコはとある平屋の前で立ち止まる。表札には五反田とあったから、五反田ハナコというのが本名なのだろうか。

「ここがわたしの家よ、遠慮せずに上がって」

「うん、分かった。お邪魔するね」

 視界の端に揺らめく人型の靄が気になったけど、ハナコは気に留める様子もない。あれはなんだと訊いたら靄の人だから靄人もやびとって呼んでるよと無邪気に返されただけだ。

 ここに来るまで十人以上の靄人とすれ違ったけど、みな一様にふらふらと街を歩くだけだった。まるで映画に出てくる生きる屍のようだ。

 ハナコはお茶とおかきを出してくれたけど、どちらも手をつけなかった。異界の食べ物や飲み物に手をつけてはいけないという知識が頭を過ぎったからだ。

 そうした態度をハナコは頓着する様子なく、おかきを美味しそうに食べる。こうしていれば年相応の少女に見えなくもないが、この街で平然と暮らし、怒りと憎悪を口にする怪異なのだ。

「わたし、これから何をすれば良いの?」

「何もしなくて良いよ。ここにいてくれさえすれば良い。そうして少しずつ、わたしのことを理解していけば良いの」

「わたし、あなたを理解できる自信がない」

「痛みが理解できたのだから、それ以外のことも理解できるはずよ」

「だってわたし、怒るのは苦手だし誰かを憎みたくない。そういうの、苦手だから」

「わたしだって苦手だったよ。空から落ちてきた焼夷弾によって全身が焼き尽くされるまでは」

 鈍く吐き気のするような痛みが一瞬だけ全身にはしる。それだけでわたしは頭をぎゅっと抱え、がたがたと震えることしかできなくなった。

「ごめんね、脅かしたり苦しめたりしたいわけじゃない。でもね、痛みは理解への近道だから」

 ハナコはわたしの頭にそっと手を伸ばし、幼子をあやすように撫でてくる。それだけの行為が恐ろしくてたまらなかった。

「魂は切り離されて、偉い神様の眷属になった。でもね、体と心に刻まれた痛みの記憶は忘れないんだよ。象よりも忘れないんだ」

「わたし、そんなの分かりたくないよ」

「ううん、分かりたいはず。だってキララには人ではないもの、この世の理を越えたものへの憧れがある。だから夜の街に不可思議を視る会なんてことをやってるんでしょ?」

 ハナコは頭を撫でる手を止めるとわたしの耳元にそっと囁く。

「人ならざるものに見出され、魅入られることをどこかで望んでいるんでしょう?」

 わたしはホラーや怪奇ものが好きだし、現実と地続きの都市伝説に興味津々であることを否定はしない。サオリ先輩の協力を得られるようになってからは、そうしたものと積極的に関わり合うのを楽しみにしてきた。

 ハナコの言うような憧れがわたしにはある。この世界と別世界の境界を飛び越えられるなら、行ってみたい、関わってみたい、交わってみたい。

 大人になればきっと消えてしまう気持ちなのだから、危険じゃない範囲で味わいたい。頼りになる先輩もいるのだし、少しくらいは許されると思っていた。

 でも、それは甘い考えだった。

「わたしを理解すれば、あなたは境界を越えるのよ。わたしと同じになって、痛みに狂い、怒りと憎悪で世界を焼くの」

 顔をあげたわたしにハナコは笑いかける。

「ねえ、キララ。わたしと友達になろうよ」

 人を、街を、国を焼く友達。そんなの本当に友達なんだろうか。それとも境界を越えた先にある二人なら、そんな友情も成立するんだろうか。

 そんなもの、受け入れられるはずがなかった。

「わたしは人質で、みんながここにやって来たら痛い目に遭わせるんだよね。そんなことする相手と友達になんてなれっこない」

「友達になってくれたら、どんなことがあっても痛い目に遭わせないと約束するよ」

 ハナコは実に軽々しく言うと、小指を差し出してくる。

 彼女の小指にわたしの小指を絡めたら、本当に境目を越えることになる。それは避けないといけないし、そもそもそれ以前の問題だった。

「友達になってもあなたのやろうとしていることを認めるわけにはいかない。それでも良いの?」

「うん、いいよ。キララは優しいから、最後には分かってくれると信じてる」

 ハナコはわたしが変わってしまうと、理解者になってしまうという確信がある。多分それは正しいんだと思う。ハナコに比べたらわたしは覚悟も何もない、本当に平凡な子供なのだから。

 わたしの迷いをハナコはきっと見透かしている。だから小指を引っ込めることなく、差し出し続けている。受け入れるか拒むか、どちらかを選ぶまでいくらでも待ってくれるに違いない。

 わたしはもう一度、自分の心に問いかける。進むべきか、それとも退いて様子を見るべきか。

 その答えを、わたしはハナコの顔を見て決めた。彼女はわたしの小指が絡まるのを期待して、待ってくれている。それが本当に歓迎すべきことだと思っているのだ。彼女は怒りと憎悪をはらんだ怪物かもしれないが、たった一人の友達を望む寂しい少女でもある。

 そんな彼女をわたしは拒むことができなかった。だから覚悟を決めて小指を差しだし、ハナコの小指にそっと絡める。

 わたしは契約を交わしてしまった。他愛ない指切りは、わたしを縛る鎖となるだろう。それでもわたしはハナコに笑いかけることができた。

 そしてハナコも同じように、笑顔を見せてくれた。それは邪なところのない、喜びに満ちた表情のように思えた。

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