第四話 黒い靄(9)

 イブは認識阻害を急激に正されたせいか始終辛そうな顔をしていたが、話を聞き終えると頬を挟むように手で叩いて気合いを入れ直した。

「トイレの花子さん、トイレにまつわる怪談の中で戦後ぶっちぎりの知名度を持つ定番中の定番ね。そんなことさえ思い出せなかったなんて」

「眷属って話だったけど、かなりの力を持っていた。然るべく祀ればよほどの辺鄙な場所じゃない限り、多くの人を集められるはず」

「そりゃ、ウスサマ様の眷属だもの。五大明王の一人にして類稀なる火術の使い手。炎を使う術師なら誰もが憧れる存在よ」

 かくいうイブの瞳もきらきらと輝いている。まるでアイドルを追いかけているファンのようだ。

「そんな彼女でさえ御しきれないとなるとかなりの強敵ね。虹髭の強さから察してはいたけど、わたし一人では敵わない相手だと思う」

「いつも強いこと言ってるのに、いざとなると弱気になる」

「自己分析がきちんとできていると言って欲しいわね。わたしとサオリ、ウスサマ様の眷属であるハナコ、キララちゃんにべったりな狛犬姉妹と、あとはユウコも戦力に入れてあげて良いけどあまり期待はできない。虹髭の時は上手く属性が噛み合って最大戦力になったけど」

 わたしは厳かに頷く。人を超える力を付与できるといっても一般人であることに変わりはない。できれば人外の荒事には巻き込みたくなかった。

「上手く心に侵入できた前提として、それでも勝てるかどうかは未知数といったところね」

「そもそも心に侵入する方法を知ってるの?」

 疑わしげに訊ねると、イブはしたり顔を浮かべた。

「いくつかね。悪心に憑りつかれた人間を助け出した実績もある。ただ、わたしの使える方法だとどれも時間がかかるの。心を開かせるために対話を重ね、術が効く状態に持っていく必要がある」

「心理セラピーみたいなやつか。今回はそれをやってる時間はない」

 ハナコは残された時間が少ないことを示唆していた。イブもそのことは分かっており、その上でなお余裕を崩さなかった。

「そうね、だから手っ取り早く強引な手法を使いましょう」

「そんな方法があるなら最初から言いなさい」

「負担が大きいのよ。盲腸を薬で散らすのと手術で切除するのでは後者のほうが辛いでしょう? それと同じことよ」

「理屈は分かった。で、どうするの?」

「ある妖怪の力を借りるの」

「ある妖怪……人の心を開く力を持っているってどんなやつなの?」

さとりっていえば分かるかしら?」

 もちろん知っている、非常に有名な妖怪だ。

「覚は心を覗く妖怪で、心を開かせる妖怪ではないはずだけど」

「覚は相手の心を覗くわけではない。自分の心で相手の心を包み込むのよ」

「包み込む?」

「ええ、覚の本質は脳という殻を外れた巨大な心理にある。そいつを相手の心に被せ、浸潤することで心を読み取るの」

「まるで捕食してるみたいな表現だけど」

「その言い方は得てして妙ね。心を読むのは覚にとって食事行為なの。多くの人の心を食うことでその心理はどんどん成長していく。そして限界を越えるとその一部が剥がれ落ち、そこから新たな覚が生まれる。だから覚の読心は食欲と性欲を同時に満たす手段と言って良いでしょうね」

 イブはその生態に感心しているが、わたしは原生生物の増え方に似ているとしか思えなかった。

「覚にわたしたちと花婿様の心を一気に包ませて擬似的に一つの巨大な心を形成する。そうして地続きになった心を渡り、目的地に辿り着くのよ」

 口にしてみれば簡単だが、どうにもピンとこなかった。一つに重なった心の中で目的の場所に移動することなんてできるのだろうか。イブが自信を持って言うのだから可能なんだろうけど。

「ただし、一つだけ問題がある」

「なに? 心がくっついて剥がせなくなるとかそういうやつ?」

「覚って人の心を喰う妖怪のくせに人ごみを嫌うのよ。知り合いがいないこともないんだけど、都会に引っ張っていこうとしたら全力で拒否するでしょうね」

「厄介な代物が解き放たれると知っても?」

「人間なんて半分くらいいなくなったほうが住みやすいと思うようなやつらよ」

「なるほど、途轍もなく面倒な性格をしているわけか」

「というわけで引きこもり……もとい、知り合いを引っ張り出すために何日かここを空けることになるのだけど」

「その前にやってみたいことがある」

 イブの発言を遮ると、不思議なものを見るような表情を向けられた。

「やってみたいこと? もしかして、知り合いに覚がいるの?」

「そんなとこ。イブの言うようなやつだったら説得はできないかもしれないけど」

 イブは特に反対はしなかった。わたしの言うあてを信じてみたいようだ。つまりイブの知り合いは連れてくるのに相当難儀するやつなのだ。

「都会に暮らしてる覚なんて信じられないけど、一人くらいはそういう変わり者がいるのかもね」

 わたしは曖昧に頷くほかなかった。



 翌日、わたしは昨日に続けて朝早く登校した。朝練の生徒が活動を始めるくらいの時間だが、かがみキョウカは教室の隅に座り、いつものように本を読んでいた。

 彼女は調べ物の必要があるとき、わたしがよく頼るクラスメイトで、ヒナタやヒカゲと同じ人ならざる生徒の一人だ。彼女がそうじゃないかというのは同じクラスになる前から把握していたが、独特の気配を持っていても悪いことはしないから不干渉の立場を取っていた。

 いつも妙に察しがよく、面倒事を巧みに避けていくし、わたしが足を運ぶと既に必要な情報が用意されていることも何度かあり、こいつは人の心を読む力があるんだろうなと朧気に察していた。

「面倒臭いことをやらせようとしてるわね」

 はたしてわたしが側に寄ると、キョウカは先回りして声をかけてくる。

「妙なことに巻き込むのは気がひけるけど、強力かつ邪悪な心が解き放たれようとしているの」

「うん、分かってる。ここ数日、ざわざわとした感情がこの街にまとわりついてたから」

 キョウカは本を閉じ、わたしの顔を見る。

「怒り、憎悪、無念、寂寞……この街は冥い感情の行き交う魔界と化していた。誰も気付くことなく日常を過ごせているのが不思議なくらい」

「そんな街に、あなたは今も居続けている。食欲が満たされるから? それとも性欲?」

 わたしの挑発にキョウカはふんと鼻を鳴らす。分厚い眼鏡に阻まれて目つきはよく分からないが、気分を害しているのは伝わってきた。

「別に気分を害しているわけじゃない。品のない天狗の説明を素直に信じるなんて、救い難い人間だと思っただけ」

「だとしたら正しい解釈を教えてもらえない?」

「一言で表すならば本能かな」

「それって欲求と同じことだし野蛮じゃない?」

「本能を野蛮と解釈するのは人の傲慢よ。生きるため、増えるためにすることの全てが蛮行なら、地球は生命の溢れる土地にはなっていなかった」

「……確かに、そうかもしれない」

 キョウカはわたしを言い負かしたことに気を良くしたのか、ふふんと鼻を鳴らす。

「とはいえ、あれはとんだゲテモノね。調理次第で美味しくいただけないかと試行錯誤したけど無理だった。あんなの食えたもんじゃないし、気持ち良くもなれない」

「つまり、おじいちゃんの心の中に入るのを手伝ってくれるわけ?」

「ええ、協力してあげる。同族に話したら嫌な顔されたけど、わたし人混みって嫌いじゃないのよね。複数の心が溶け合うのは単一の心をいただくのとまた違う、複雑な読み心地があるから。特に喧嘩してる友人同士とか、三角関係に悩んでる若者たちなんかは独特の苦味と渋みがあって、一度味わうとなかなかどうして、癖になるわけよ」

 ごくりと唾を飲む仕草は勤勉な学生の姿を取っているから逆に艶めかしく、覚という種族の厭らしさを垣間見た気がした。

「そんなわけだから人には減って欲しくないの。黒い靄の好きにさせたくないし、条件をつけたりもしないけど、一つだけお願いを聞いてくれると嬉しいかなって」

「お願いってなに? 三遍回ってワンならいまここでやってあげるけど」

「キララちゃんの心を思う存分に味わいたい」

 キョウカの舌なめずりする仕草に思わず顔が強張る。不快感むき出しなのは心を読まなくても伝わったことだろう。

「彼女の心はいいわ。今風で甘酸っぱくてコクがある。強いて言えば恋をしてないのが残念かな。恋をすれば極上の逸品に仕上がるはずよ」

「ほんと、あんたって大概なやつ」

 覚という種族をして異端の生き方を謳歌しているだけのことはあるというわけだ。

「ただ、あの子の側にはサオリとユウコ、狛犬姉妹のどちらかがいて、一人になることが少ない。文芸部で資料探しをしてる時も後輩が隣にいて仲良くしてるからタイミングが合わない」

 キョウカの言う後輩が誰か知らないが、ナイスブロックというよりほかなかった。

「狛犬の心は雑味が強い、サオリは妙な頭の作りをしているからか、味がほとんどしない。付け合わせとしては最悪の一語に尽きる。後輩とユウコはどちらもキララと異なる魅力的な味だけど、食い合わせが悪くてお腹の調子が悪くなる」

 わたしはキョウカのことをきつく睨みつけていた。聞き捨てならないことを口にしたからだ。

「あんた、ユウコの心を読んでたの?」

「キララちゃんやあなたと行動をともにするまではいつも一人だったから」

「それなのに、何もしてあげなかったの?」

「あなたの心を読んだ、家庭に問題があるようね、力になれることはないかしら。そんなこと言ってごらんなさい、頭がどうにかなったと思われるだけよ」

 言われてみれば確かにそうだ。わたしの力を説明した時だって、ユウコはなかなか受け入れてくれなかったのだから。それどころか生来の怖がりを発揮してなんとか否定しようとした。

 そんな少し昔のことを思い出していたら、キョウカはまるで高校生のように声を立てて笑った。

「サオリは美味しくないけど、大切な人のことを考えている時は少しだけ味がするみたいね」

「それって悪いこと?」

「別に、ウケるなって思っただけ」

 わたしはふんと鼻を鳴らし、性悪女の意地悪さをなんとかやり過ごした。

「それに何もしてないわけじゃない。覚に読まれた心は僅かながらに整うのよ。家庭での拭いきれない疎外感を少しでも和らげてあげたのだから、感謝されてもいいくらい」

「そう、なら礼を言っとくわ。ありがとう」

 キョウカの厭らしい笑みは教室のドアを騒がしく開く音によって一瞬で色を失い、わたしたちは揃って音のした方を見る。

 クラスメイトはぎこちない動きで数歩ほど前に出ると、いきなり口を開けてべろりと舌を出す。墨でも飲んだような真っ黒さにわたしは慌てて身構えたが、それ以上は近付いて来なかった。

 黒い汚れは黒煙となってクラスメイトの口から立ち上り、濃い靄となって教室の天井近くで渦巻くと、開け放たれたドアから飛び出していった。

 慌てて追いかけようとしたわたしの袖をキョウカが引く。その顔は激しい動揺に歪んでいた。

「あいつを追っちゃダメ! キララちゃんの所へ急いで!」

「どういうこと?」

「黒い靄の心を読んだの。キララちゃんを人質に取って閉じこもるつもりよ」

 わたしはすかさず教室を飛び出していた。通学路を逆走していくわたしに向けられる視線は無視し、人ならざる速度を出していることもなるべく隠さず、一目散にキララのもとへと向かう。走りながら打ったメッセージに返信はなく、焦燥の色が濃くなり始めたとき、周囲の空気ががらっと変わった。

 人通りがいつの間にかなくなり、視界が薄ぼんやりと狭まっていく。鼻をつく油の臭いは顔をしかめたくなるほどだった。もはや敵に正体を隠すつもりはない。堂々と姿を現し、その存在を知らしめようとしている。

 口元にハンカチをあて、慎重に前進する。相手が意思を持つ気体ならこんなもの気休めだが、何もしないよりはマシなはずだ。

 少し進むとふいに靄が晴れ、最悪の光景が目の前に飛び込んできた。

 ヒナタとヒカゲは地面に倒れており、キララは縄状に変化した黒い靄によって縛られていた。じたばたと体を動かして抜け出そうとしているが、黒い靄は些かも揺らぐことがなかった。

 そしてキララの隣には、黒い靄をドレスのように纏う少女がいた。ハナコとそっくりの顔立ちだが目に濃い隈が浮かび、わたしの到着にも余裕を崩すことなく、嘲るような笑みを浮かべる。

「サオリ先輩、すみません。不覚を取りました」

「謝らなくていい。あんた、わたしの後輩をとっとと開放しなさい!」

 怒気を容赦なくぶつけるが、黒い少女はわたしの気持ちを鼻で笑うだけだった。

「人の心を覗くだなんて下品な振る舞いにはそれ相応の報いがあって然るべきよ」

 ハナコよりも更に甲高く、無邪気さを剥き出しにしたような声だった。

「それならまず、わたしを狙いなさい」

「だってあなた、自分の痛みには滅法強いじゃない? でも、他人の痛みには弱い。だから、狙うならこっちなの」

 忌々しいことだが、黒い少女はわたしのことをきっちりと把握していた。何をされたら苦しむのか理解していた。

「澄ました顔して分かりやすいのよ。あのとき憑依せずに見逃してやったのも、そうすれば大好きなおじいちゃんのことを連想すると考えたから。まんまと引っかかってわたしに有利なことを沢山、思い出してくれた」

 わたしは思わず歯ぎしりする。あれを祖父の良心だと、わたしに対する情の結果であると信じてしまった。その甘さが目の前の結果だ。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

 悔いに歪むわたしの心を黒い少女は粘ついた笑みでもって噛みしめる。そんなわたしを見かねてか、囚われのキララが口を開く。

「先輩、わたしのことはいいですからこいつを倒して……」

 その言葉は唐突に途切れ、つんざくようなキララの悲鳴が辺りに響く。聞いているだけで痛みが全身を駆け巡るようなおぞましさだった。少女が決してあげてはいけない声だった。

 キララにとって耐え難い苦痛だったことが生気の抜けた顔と目元に滲む涙、口から垂れる涎によって嫌でも伝わってくる。

 黒い少女への怒りがはち切れそうだった。

「できないことを口にしちゃ駄目。戦争も喧嘩もろくに知らない子供が、理不尽な痛みや苦しみに耐えられるわけがないんだから」

 黒い少女は邪で嗜虐的な表情を浮かべ、柔い手でキララの頬をそっと撫でる。その手は涙を拭いながら目元に向かい、指を押し込もうとした。

 慌てて目を瞑るキララを見て、黒い少女は手を離し、けらけらと笑い声をあげる。

「平和の子、可愛い子、あなたはきっと誰からも愛されるのね」

 黒い少女はそう言うと、今度はわたしに視線を向ける。

「この子は連れて行くね。もしもわたしの心を覗き込もうとしたら、この子にさっきよりもずうっと酷い苦しみを与えるから。どんなに懇願しても心が壊れるまで、痛みを注ぎ続けるよ」

 その宣言を聞いて、キララはいやいやする子供のように首を横に振る。その様子を見て、黒い少女は底意地の悪い笑みを浮かべてみせた。

 あいつに連れて行かれたら、キララは無事では済まないだろう。イルカを玩具にするシャチのような残忍さを向けられるに違いない。

 だから可否を口にせず、全力で黒い少女に飛びかかる。キララを盾にする暇さえ与えず、突き飛ばしてやるつもりだった。わたしが代わりに捕まるかもしれないが、構うものか。

 そう考えての行動だったが一歩及ばなかった。黒い少女はキララの手を掴むと、次の瞬間にはこの場からいなくなっていた。

 あとにはいつもの通学路、地面に倒れたヒナタとヒカゲ、大切なものをこの手に掴むことさえできない、未熟なわたしだけが残される。

 冬暁の厳しい風が、そんなわたしを責めるように駆け抜けていった。



   黒い靄 終

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