第四話 黒い靄(8)
翌日、わたしは朝早く学校に来ると三階の女子トイレに入る。それから個室の数を確認し、奥から二番目、手前から数えて三番目の個室のドアをコン、コン、コンとノックする。
「ハナコさん、いらっしゃいますか?」
他愛ない呼びかけだったが、これまで何も感じられなかった個室の中が重い存在感で満たされる。この高校に住まう、ないし通う人ならざるものは全て把握していたはずなのに、今日の今日までこんなにも強力なものが潜んでいることに気付きさえしなかった。
個室のドアがひとりでに、ゆっくりと開いていく。中にいたのは継ぎだらけの着物、分厚い布の頭巾を被った子供の霊だった。身なりは哀れさを感じるほどぼろぼろだが、目の前に立っているだけで眩いほどの神々しさだった。
「ようやく見つけた」
「いいえ、あなたはわたしを見つけていない」
子供の声を聞いた途端、目の前が真っ赤になり、頭がずきずきと痛み出す。
「何もなかった。誰も見なかった。いい?」
まるで頭の中を直接いじられているかのような、鈍く重い痛みはしばらく続いた。だが、それだけだった。いま見ているものは何も変わらない。忘れることもない。
わたしは出会ってしまった、その存在の烈しさを知ってしまった。だから後戻りはできない。
痛みがふっと遠ざかり、ハナコはわたしの顔をじっと見る。その神々しさに気圧されそうになったけど、ぐっと耐えて彼女の顔を見返した。
「とうとう、見つけられてしまったみたいね」
「あなた、おじいちゃんのなんなの?」
黒い靄の元凶であるなら、いまここで討ち倒すつもりだった。だが、ハナコは寂しげに俯くだけだった。
「大事な人。生きている間も、死んでからも。だから苦しいことを忘れ、生きられるようにした」
「つまり、あなたは抑圧していた側ってこと?」
「抑圧という言い方もできるのかな。封印のつもりだったんだけど」
ハナコは子供の姿にそぐわない、大人びた笑みを見せる。それだけで彼女がこれまでにどれだけ苦労してきたかを察することができた。
「わたしの火は心を鎮めることができる。その力を強めに使えば忘却に転じることも容易なの」
その話を聞いて、ピンとくるものがあった。
「おじいちゃんは終戦の日、赤い空を目にしたと言っていた。あなたがやったのね?」
わたしの問いにハナコは小さく頷いた。
「できれば死ぬまで忘れていて欲しかった。でも最後の最後で綻びが生まれた。老いによる衰えに加え、ハナコという名前の幼馴染みがいるという過去に繋がってしまったの。七不思議の八番目を追うあなたの資料を目にしたことで」
祖父はわたしの部屋で二十四の不思議を目にした。そこからわたしと同じ結論を導いてしまったのだ。そしてこれらの秘密は一つの発言に端を発している。
キララの配信に現れた謎の発言主、その正体は黒い靄だったのだ。となれば祖父が秘密を目にしたのも偶然ではない。黒い靄が祖父に影響力を及ぼし、見るように仕向けたのだ。
「記憶を取り戻すことはなかったけど、僅かな隙をついて力の一端が現世に姿を表し、完全な解放を目指して活動を始めたの。その最たる目的は、わたしを完全に思い出させること」
「そのために多くの人間に憑りつき、悪い夢を見させている。記憶を開放するために」
イブの推測を口にすると、ハナコは重々しく頷いた。
「わたしは彼が失った最たるもの、怒りと憎悪に心満たされる原因なの。正確にはこの姿になる前のわたしなんだけど」
ハナコの語る事実によって、ようやく話が一つに繋がってきた。
「空襲で死んだわたしは
「厠神ってかなり力の強い存在のはずだけど、代替わりなんてするんだ」
トイレの神様と言えば平凡に聞こえるかもしれないが、実態は
「わたしは眷属の立場を受け継いだだけ。だから、火難を抑える力をもって彼の心に蓋をするのがせいぜいだった。ウスサマ様本人であれば彼の冥い感情はとうの昔に焼き尽くされていたはずなのに」
ハナコは悔しそうに言うと俯きがちだった顔を上げる。疲れ切っているが、まだ諦めてはいない様子だった。
「なんとか記憶を抑えていたけど、ある日突如として異変が起こった。複数の場所から同時に、記憶をこじ開けようとする力が放たれ始めたの。急いで空に火を放ち、全力で鎮めようとしたけど、完全に塞ぐことはできなかった。黒い靄があちこちに立ち込めてわたしの力を妨害したから」
「もしかして、バレンタインの日のこと?」
黒い靄が出現したのはわたしやイブを撹乱するのが目的だと思っていたけど、それだけではなかったのだ。二つの力が誰にも思いのよらないところでせめぎ合っていた。
赤い空は神の通力が放たれた余波みたいなものだから、わたしやイブのような、人ならざる世界と繋がる力を持つものははっきりと目にすることができたわけだ。
「ええ、そうよ。わたしは全てが終わってから初めて、悪辣な奸計に気付いたの。こそこそと何かをやってるのは知ってたけど、記憶の封じ込めを優先してしまった。それが間違いだったの」
ハナコは小さな手を震えるほどに強く握りしめる。そうすることでなんとかやり場のない後悔を押し留めているようだった。
「彼の心の中にいる冥い力は急速に開放されようとしている。結局のところわたしでは力不足だったということ。でも、まだできることはある……いや、本来は真っ先にやるべきことがあった」
「それをすれば黒い靄を退治できるの?」
「ええ、そのための方法が二つある。一つは選択にも値しないけど」
「一応聞いとく。選ばない理由を知っておかないと、もう一つの方法を躊躇いなく進められない」
ハナコは小さく息をつく。わたしを融通の利かないやつとでも思ったのだろうか。でも、これが性分なのだから仕方がない。
「では心して聞いて。一つ目の方法だけど、黒い靄は彼の心より生まれている。つまり彼の心が動かなくなれば、出て来られなくなるわ」
わたしはごくりと唾を飲み込む。ハナコの言うことが恐ろしく、半ば予想していたからだ。
「つまり、殺すってこと?」
「ほっとけば老衰で死ぬんだけど、その前に世界の少なからぬ部分が焼き尽くされてしまう」
「あの黒い靄はそこまでの力を持っているの?」
「彼が稀代の対魔師であること、何千もの人の無念をその内に取り込んだこと。この二つが合わさって、悪夢のような現象が生み出された。他の土地で同等の存在が生まれなかったのはせめてもの幸いと言うべきかも」
わたしが重々しく頷くと、ハナコは何故か酷く悲しそうな顔をした。
「無念を抱いたまま、ただ殺されるのが正しかったと言いたいわけではないのよ」
「あなたが無情な存在だったら、おじいちゃんを危険と見なしてさっさと殺していたはず」
彼女は神の眷属になっても祖父への情を捨てきれず、心の奥底で蠢く冥い感情に蓋をしてやり過ごそうとした。それが裏目に出たからといって、彼女を責めたり恨んだりするつもりはなかった。
「今も殺すつもりはない。だとしたら、どうすればおじいちゃんを救うことができるの?」
「冥い感情と直接対峙し、打倒する。簡単なことじゃないし、彼の心に強い負担を与えることになる。もしかしたら正気でいられなくなるかもしれない」
「怒りや憎悪がなくなれば、心は楽になるはず」
「負の感情が常態になっている人間からそれらを奪うと、燃え尽きたように心が動かなくなることがあるのよ」
「そういうものなの?」
「ピンと来ないなら、あなたはこれまで極端な不幸や災いを味わったことがないのね」
わたしは生まれて間もなく両親を事故で失った。だが、それは物心がついていない頃の話だ。祖父に拾われ、普通の人と少し違う生き方をしてきたけど、不幸だと思ったことはない。ユウコのように父から暴力を振るわれたこともなく、キララのように家庭の中で孤独を感じたこともない。
「わたしが甘い人間なのはこの数ヶ月で嫌というほど実感したつもりだけど」
イブには中途半端な強さを容赦なく正されたし、祖父のこともまだなんとかなるのではと適当に考えている。キララやユウコには頭脳労働担当のように思われているけど、いつも楽観に辻褄を合わせているに過ぎない。
「甘いというならわたしも同じよ。お互いに人から外れているけど、甘さを捨てきれない。もっと割り切ることができたら楽なんでしょうけど」
ハナコはスンと鼻を鳴らし、目頭を拭う。人を捨てて、神に近くなっても彼女は十かそこらの子供に過ぎない。わたしだって似たようなものだ。
「では、甘いなりに行動すれば良い。おじいちゃんを助けられると信じて。協力してくれる?」
ハナコは小さく頷き、わたしの顔をじっと見つめる。
「冥い感情と対峙するには心の中に侵入する必要があるけど、打倒するのは簡単なことじゃない。思い描いたことを形にできる心の世界では、侵入した側は明確に不利だから」
「そもそも心に侵入する方法なんてあるの?」
あてがあるからこその提案と思ったが、ハナコは小さく首を横に振る。
「わたしでは無理。心の中に入る方法があれば、ウスサマ様の力を役立てることができるけど」
そのためにはまず、入口を作る必要があるというわけだ。
「知り合いに知恵者がいるから訊いてみる」
「わたしのことを他の誰かに話すの?」
「そうだけど、悪い?」
「わたしのことを知るものが増えれば増えるほど、冥い感情が力を及ぼしやすくなる。つまり完全開放のタイムリミットが早まることになる」
「あと数人程度。必要経費と思って頂戴」
イブとユウコは確定として、キララも場合によっては話に絡んでくるかもしれない。彼女はいつだって不確定要素だから除外するわけにはいかなかった。
「分かった。蓋をし続けたことで限界が来たのだから、外に開いて解決を求めるしかない。ある程度のリスクを負うべきね」
「ありがとう。必ず何か方法を見つけ出す、おじいちゃんはいまやただ一人の大事な家族だから」
「……わたしは間違えたけど、致命的ではなかった。彼はあなたのような人を育てたのだから」
当然だと言わんばかりに頷くと、そんなわたしを見てハナコは初めて年相応の笑顔を浮かべた。わたしには何がそんなに楽しかったのか、よく分からなかったのだけど。
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