第四話 黒い靄(5)

 放課後になって祖父の病室を訪ねると、いつも以上に憔悴した様子だった。九十近いとは思えない健啖ぶりが入院してからなりを潜めていたが、今日はいよいよ年相応の弱々しい老人に見える。

「着替えと本を持ってきた」

「ありがとう。もうすぐ退院できるから、サオリに迷惑をかけることもなくなりそうだ」

 既にギプスは取れているし、もうすぐリハビリに入れると医者は言っていた。治りが妙に遅いのは何度か検査してみたが原因は特に見つからず、何らかの不明な作用が働いているとのことだ。

 もしかして、わざと傷の治りを遅くしているのだろうか。

 そんなことを考えながら祖父の足を観察していると流石に気付いたのか、照れるように頭を掻いた。

「治りがすっかり悪いと来た。いよいよ歳だな」

「冗談。あと二十年は余裕で生きるでしょ」

 軽口を叩くと祖父は愉快そうに笑ってみせる。弱々しい顔に若干、赤みがさしたようだった。

「そうだな、せめてサオリが大人になるまでは生きなきゃいかん」

「あと一年じゃない、目標はもっと大きく持たないと」

「十八になれば大人になる、というわけじゃないよ。あくまでも法律上の成人でしかない」

 大人になるとは一定の年に到達するのとはまた別らしい。少なくとも祖父はそう考えている。

「どうやったら大人になれるの?」

「説明するのは難しいね、自分では分からないから。様々な努力、経験、感情を積み重ねることで、人は少しずつ変わっていく。そしてある線を超えたところであっ、大人になったなと皆が気付くんだ」

「確かに、難しい」

「サオリなら素敵な大人になれるよ。根拠はないけど保証する」

 根拠がないなら信じようがないけど、祖父の言葉なら上手く行きそうな気がした。

「ところで、今日は一つ訊きたいことがあるんだけど」

「ん、なんだい。また虹髭みたいな妙ちきりんに遭遇したのか?」

「赤く広がる空、街が燃える悲惨な夢を見たことはある?」

 率直に切り込むと祖父は肩を震わせ、それからわたしの顔を覗き込んでくる。

「イブさんに聞いたのかい? いや、彼女にも話した覚えはないはずだが」

「友達や知り合いが何人もそれを見た。わたしも赤い空だけなら目撃している」

 そのことを聞くと祖父は項垂れるように瞑目し、すぐに顔を上げる。その表情からしてどうやら話してくれるようだった。

「被災して一月ほど経った頃から、毎日のように燃える街の夢を見るようになった。目覚めるたびそのおぞましさに涙を流し、敵国への憎悪を膨らませていった。いつかこの街と同じ空を、炎をお前たちにも与えてやるんだって」

 祖父はそこまで一気に語り、息をつく。

「だが戦争は終わり、それからは燃える街の夢をぱたりと見なくなった。赤い空を見たのは玉音放送を聴いている時で、呆然としている儂の頭上でぱあっと煌めいた」

 祖父はその時のことを思い出したのか、天井に視線を向ける。

「頭に浮かんだのは空襲のことで、戦争が終わったというのは敵国の流した嘘なのではと慌てて空を見たが、敵機の影も形も見当たらない。そのうちに空は青の色を取り戻し、茫漠ぼうばくたる不安が、無軌道な怒りがいつの間にかすっかりと薄れていたのを感じたよ」

 視線が戻り、きつく結ばれた表情が少しだけ緩やかになる。

「赤い空って結局なんだったの?」

「分からない。だが、他にもあの空を見て同じように安らぎを得たものがいた。儂は戦争で亡くなった方たちが、生き残った者の業を引き受けてくれたしるしだと考えることにした」

 わたしは赤い空に安らぎを覚えなかったし、イブもそんなことは口にしなかった。かつて祖父が見た現象とは関係ないのだろうか。

 祖父はかつてのことを噛み締めるように頷き、話を続ける。

「儂はその日から心に決めた二つだけを考えて生きることにした」

「一つはおじいちゃんが建てた神社のこと?」

「そう、戦火によって消えたのは人だけではない。神や妖でさえ人の文明がもたらす戦争を避けることはできず、存在や信仰を散らした。やがて街が復興すれば再び祀られるかもしれないが、二度と戻らないものもあるだろう。そういったものたちに軒を貸す場所を作りたかった」

 これはかつて祖父から何度も聞いたことだから、改めて話されても意外には思わなかった。

「もう一つは?」

「この国が敗戦を飲み込むための新しい教えを築くこと、だった」

 それは国を変えるほどの一大事業だ。祖父がそんな大それたことを考えていたなんて想像だにしていなかった。

「でも、今のおじいちゃんは妖怪退治が上手いだけの好々爺でしかない」

 神社にお参りする人もいるけど、それは新しい教えのためではなく単に神社の形をしているからだ。何も祀られていないことを知らず、家から近いというだけで選んでいるだけ。積極的に教えを説き、導くなんてことはやっていなかった。

「そうだね。二つ目は早い段階で放棄、いや方針を変えたと言うべきか」

「方針を変更、と言うと?」

「かつての大敗北で、この国にある神仏は省みられなくなると思った。全てを賭けた戦に勝たせてくれなかったのだから」

「古来より神仏に願を掛けて負けた例はいくらでもある。どれほどの敗北であっても、宗教ってそう簡単になくならないと思うけど」

「そう、そんな単純なことさえ当時の儂には見えていなかった。実際には神仏とともに復興があり、信仰が廃れることはなかった。だから儂は蘇りつつある人を、社会を守るためもって生まれた特別な力を一心に磨き、役立てる道を選んだ。そうして今日まで生きてきた」

 祖父の顔は穏やかな中にも誇らしげに輝いており、自分の生き方を貫いた大人の強さが見えた。こんな人が世に擾乱じょうらんをもたらすような真似をするとは思えなかった。

 そんなことを考えていると、祖父の顔が徐々に曇り始める。

「だが、数ヶ月ほど前から再び、炎に燃える街の夢を見るようになった。どこからかゆうやけこやけの歌が聞こえてくる。とても懐かしくて、儂はその声に心を引きずられそうになる。そしてすんでのところで目が覚める。その繰り返しだ」

 ゆうやけこやけのくだりはこれまでにない情報であり、わたしはその話にじっくりと耳を傾ける。

「過去は濯がれたと思ったが、そうではなかったのかもしれん。それか歳を取ったせいで必要以上に昔のことを思い出すようになったのか。どちらにしろ、全ては儂の中にだけあること。それを夢に見る人たちが現れたというのは奇妙な話だ」

 わたしは祖父の困惑をじっと観察する。嘘をついているようには見えないが、祖父はいざとなればあらゆる感情を誰からも隠すことができる。何らかの企みを胸に秘めているかもしれない。

「儂が何かしでかしている、あるいは既にしでかしたのかもしれんが、だとしてもそのことをまるで覚えていない。これまで様々な怪異に対面してきたが、こんな体験は初めてだ」

 これもただの演技なのかもしれない。だが、わたしは祖父を信じたかった。イブには甘いと言われるかもしれないが、祖父さえ与り知らぬ事態が起きているという前提で話を進めることにした。

 だとしたら、何が祖父に憑いているのか。わたしにその正体を探り当てることができるのか。

「おじいちゃんに酷いことをするやつは許さない。わたしが正体を暴いて、懲らしめてやる」

 不安は尽きないが、祖父には堂々と解決を宣言する。少しでも安心して欲しかったから。

「すまないね、虹髭の時と同じでサオリに頼ることになりそうだ。何か思い出したら、すぐサオリに伝えるようにするよ」

 わたしは重く頷き、祖父との会話を終えると使用済みの下着を手早く回収しながら、キララに送る追加の依頼文を頭の中で組み立てていく。

 もうじき完成するというところで、祖父が声をかけてきた。

「サオリの部屋で何かを見たような気がする」

「わたしの部屋で?」

「ああ、何かを見て……気がついたら儂は病院にいた。その間の記憶がまるでないし、その日からあの夢を見るようになった」

 わたしはその日のことを思い出そうとする。祖父が怪我をしたと聞かされたとき、わたしは何かをしていた。何か……何を? わたしは何をしていた?

 何も思い出せない。まるで記憶にぽっかり穴が空いたようだった。

 わたしは何かを忘れさせられており、いまこの瞬間までずっと気付いていなかった。

 祖父が入院したのは十一月下旬、キララがたちの悪い天邪鬼に騙され、右往左往していた頃だ。その時のことをもっと思い出そうとするけど、頭がずきずきと痛んで上手くいかない。

 忘却を振りまく何者か、そいつが黒い靄を使役する元凶なのだろうか。

 未だその正体は霧の中だが、僅かに光が指したような気がした。

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