第四話 黒い靄(4)

 二人を見送ったあと、イブがわたしに近付いてきた。

「もしかして黒い靄の正体が分かったの?」

「ええ、あれは多分……空襲の煙なんだと思う」

 空襲の一語に、イブの顔が怒りを帯びる。わたしが言いたいことをすぐに理解した証だった。

「全ての元凶は花婿様だと言いたいの?」

 力強く頷くと、イブは腹立たしさを隠すことなく反論してきた。

「花婿様の怪我は嘘じゃないし、あの年で足を悪くするのはリスクしかないはずよ。何らかの事情で病を装うなら認知症の振りでもすれば良い」

「自分で生み出したものを制御できなくなる、というのは古今東西を問わず、いつの時代でも起きている。憎悪や怨念から生み出されたものだとしたら尚更のこと。長い年月を生きてきた天狗であるあなたなら思い当たる節もあるんじゃない?」

 イブは何か言い返そうとしたが、ぐっと口を噤む。その顔には深い憂慮が刻まれていた。

「かつて花婿様が語ってくれたことがあるの。炎によって焼かれた全てのものに報いる生き方しかできないのだと。わたしはそれを信念の話だと受け取ったけど、報復を考えていたと言うの?」

「おじいちゃんは雄弁なように見えて、隠し事が上手いから。ずっと一緒に暮らしてきたわたしにすら垣間見ることのできなかった巨大な感情が、今になって黒い靄という形で表出したというのもあり得ない話ではない」

 祖父は力のある天狗を倒し、異教の最大信仰の一つをも退けた規格外である。その力が負の方向に傾いた時の影響は計り知れないものがある。

 最悪の可能性を前にしばらく二人して黙っていたが、やがてイブがぽつりと呟いた。

「あなたは育ての親を退治するつもり?」

「それを決めるため祖父に直接問い質すつもり。この世に仇なそうと考えているなら容赦はしない……と思う」

 ここで言い切ってイブに覚悟を問うつもりだったが、できなかった。

「甘いわね。わたしは愛する人であろうと目的のためなら容赦しない」

 イブはつとめて明るく振る舞っていたが、ぴりぴりとした緊張感がこちらにまで伝わってくる。わたしの推測に確かめる価値があるということなのだろう。

「さて、話もまとまったところでお騒がせな狛犬たちを家に運びましょう。この季節に野ざらしは妖怪であっても堪えるでしょうし」

 イブに促され、ヒナタとヒカゲを一人ずつ背負う。まだ狛犬の特性が抜けきっていないのか、まるで石像を運んでいるかのようだった。

 二人を布団に寝かせてから間もなく、ヒナタとヒカゲが同時に目を覚ます。二人はわたしを見て露骨に嫌そうな顔をしたが、隣にいるイブを目にすると慌てて布団から飛び出し、平身低頭の姿勢を見せる。まるで主人に伏せを命じられた犬のようだった。

「これは天狗様ではありませんか」

「このような場所にいかなる用事で?」

 わたしに対する数々の言動が嘘だと思えるほどの畏まった態度だった。

「婿取りに来たんだけど、重大なトラブルに巻き込まれてしまって、絶賛対応中ってとこね」

「それはそれはご苦労様でございました」

「ところで隣の手合いは対魔を生業とする女でございます。ご命じいただければわたしどもで追い払いますが」

 ヒナタとヒカゲがわたしに敵意を向けてくる。先程こてんぱんにされたことは全く覚えていないらしい。

「人である、妖であると言っていられない事態なの。己が未熟をとくと聞かせてあげるからそこに直りなさい」

 イブの迫力にヒナタとヒカゲは正座し、背筋を伸ばす。説明はわたしが引き継ぎ、バレンタインのチョコを盗み食いしたことで起きた出来事を余すことなく語ってやった。ヒナタとヒカゲは面白いように表情をころころと変えたが、キララにも危険が及びかけたことを話すと揃って真っ青な顔になった。

「わたしたち、モトコを護るって決めたのに」

「危険な目に遭わせるかもしれなかったなんて」

 妖怪はアイデンティティの崩壊がときとして致命的になる。ヒナタとヒカゲもそのタイプらしく冷水に落ちた人のようにがたがたと震え、呼吸すらままならないほどになっていた。

「結果として大事には至らなかったのだから、これからで挽回すれば良い。差し当たっては黒い靄の件が完全に解決するまでキララの周辺を護って頂戴」

 わたしの提案に震えがぴたりと止まり、揃って睨みつけてくる。

「そ、それはもちろん」

「あなたに言われなくたってやるから」

 声を荒らげているうちに血色もみるみる回復していく。なんとも立ち直りの早いことだ。若い妖怪の特権とでも言うのだろうか。

「ところで一つ質問。キララのチョコから油の臭いがしなかった? 犬だから鼻が良いでしょ?」

「狛犬は犬と違うからそこまで鼻は良くないの。人間に比べたら敏感だけど」

「確かに少し灯油みたいな臭いがするなって。でも、そういう成分なのかなと気にしなかった」

「そんなことあるわけないじゃない」

「そうなの? でも今日はそこかしこから同じような臭いがしてたよ」

「そこかしこから?」

 わたしが強めに訊ねると、イブが隣で「あっ!」と声をあげる。あまりの大きさに耳が少しひりひりするくらいだった。

「どうしたのよ、やぶからぼうに声をあげて」

「ずっと疑問に思っていたの。黒い靄はどうしてわざわざチョコに混ざっていたのか。ガスのような存在なら体中の穴という穴から侵入すれば良いだけなのに」

「言われてみれば確かに。何か理由があるの?」

「ええ。人に憎悪や呪いを受け入れさせるための、最も適した方法ってなんだか分かる?」

「極度の精神疲労とトランス状態を組み合わせるとか、そういう感じ?」

 虹髭の例を思い出して答えると、イブは首を横に振った。

「いえ、違う。それらを自ら受け入れるという意志を持たせることよ」

 イブの説明でわたしにもようやく、黒い靄の悪辣なやり口が見えてきた。

「親しい人からの気持ちを自らの意志で口にし、体内に取り込むという行為は、強引に侵入するより遙かに少ないコストで憎悪や呪いを受け入れさせることができる。バレンタインの意図を最大限に利用した策略ってことね」

 だとしたら黒い靄を取り込んだ人間は既に、至る所に存在していることになる。もしも数千、数万の黒い靄に支配された人たちが一斉に、何らかの目的で動き出したとしたら、わたしたちに勝ち目があるとはとても思えない。

「これみよがしに黒い靄を出して騒ぎを起こしたり、空を赤くしたのもそれらしい問題に飛びつかせ、本命から気を逸らすのが目的だったんでしょう。キララちゃんのチョコに細工したのもわたしやサオリの身内に憑いて調査の手数を奪う目的があったのかもしれない」

 だとしたら最後の策だけは裏目に出たことになる。そのお陰でイブが悪どいやり口に気付いたのだから。

「街を見た感じ、今のところ怪しい動きは起こってない。不幸中の幸いと言えるけど、こちらは目視と臭い以外に黒い靄を追跡する方法がない。もっと鼻が利くやつに頼ることも考えられるけど、街中の潜伏者やチョコの所有者を一つずつ潰していくのはあまりにも効率が悪い」

「となると元凶を叩くしかないってことか」

 わたしの結論にイブは黙り込む。議論が巡った結果、祖父を問い質すしかないというところに話が戻ってきたからだろう。

「おじいちゃんに訊いてみる。それで何の収穫も得られなかったら黒い靄がことを起こしたとき、すぐ対応できるように備えておくしかない」

「こいつらからなんとか情報を引き出せないか」

 イブは中身をいたぶるように瓶を振るが、黒い液体は動じる様子を見せない。

「あとは望み薄だけど、皆のネットワークを使ってチョコレートを食べないよう遠回しに注意喚起する。それとキララに依頼した件から何らかの情報が得られるかも」

 こうして列挙したらできることがいくつかはある。雲を掴むような話だが、現状できることを試すしかない。

 話し合いは続いたが、そこから結論が変わることなく、その日は解散となった。



 翌日、いつも通りの時間に登校するとユウコはまだ来ておらず、朝練の生徒は外で活動中ということもあり、わたしの他に一人しか教室にいなかった。

 スマホで本を読んでいると少しして、ユウコからメッセージが届く。

《少し遅れる、担任には連絡済み》

《了解。寝坊でもしたの?》

《父さんが悪い夢を見て、取り乱したんだ。宥めるのに時間がかかった》

《断酒のフラッシュバックか何か?》

《それが燃える街の夢を見たらしい》

 ユウコのメッセージを見てわたしは思わず目を細める。

《妙な偶然もあるもんだなと思ったよ》

《偶然……まさかと思うけど、ユウコも同じ夢を見たの?》

《そう、わたしの夢は回線が悪い時の配信みたいに不明瞭だったけど。これって黒い靄と関係あるのかな?》

《かもしれない。ユウコのお父さんから詳しい話を訊くのは難しそう?》

《善処する》

 わたしはスマホをしまうとキララの教室に向かう。確認したいことがあったからだ。

 いつもだったらこの時間には来ているのだが、今日に限って教室におらず、心配になってメッセージを送る。すぐに答えがあって、わたしは思わず息をついた。

《ヒナタとヒカゲのお迎えが少し遅れたので、いま三人で学校に向かってるところです。何の用ですか?》

《二人の遅刻の原因が悪い夢を見たせいなのか訊いてくれない?》

 少し間を置いて、キララから返事があった。

《弁解は罪悪と言って話してくれませんでした》

《初日からの遅刻を怒ってるわけじゃない。街が燃える夢だったかを知りたいの》

 返事には先程よりも更に長い時間がかかった。

《そうみたいです。そのことを話そうとしたら泣き出しそうになって……》

《ユウコの父親も同じような夢を見て取り乱したらしい》

《それは奇妙な一致では済まされないですね》

《その様子だとキララは夢を見なかった?》

《そうですね、ぐっすりと眠りました》

《そしてわたしも見ていない。となると考えられるのがあの黒い靄。ユウコの父親、ヒナタ、ヒカゲ、この三人は後で吐き出したとはいえ、一度体内にしっかり取り込んでしまっている。ユウコはすぐ吐き出したけど、微量の摂取は避けられなかった》

 だとしたら赤い空だけでなく、街が燃える夢についても確認を取る必要がある。

《今日の配信でそのことをリスナーに訊いてみます。ネットで話題になっているかどうかも調べますし、あとは校内の伝手も頼ってみます》

《お願い。ユウコのネットワークも使うし、わたしも神社や副業の繋がりを探ってみる》

《了解です。しかし、あの黒い靄は何がしたいんでしょうか。人や妖怪に憑りついて変貌させるというのは悪者のお決まりっぽいですが、赤い空や街が燃える夢を見せるというのはなんというか、毛並みが違うように感じます》

《どんな魂胆か知らないけど、ろくでもないことを考えているのは確かだと思う》

《同感ですね。夜不可視としてなんとしてもこの現象を解き明かし、悪巧みを止めないと》

 なんとも前向きなキララの態度が羨ましい……いや、見習うべきなのだろう。例え五里霧中であっても目を瞑っていなければ、見えるものはあるかもしれないのだから。

《放課後はおじいちゃんのお見舞いに行ってくるから留守番をお願い》

《分かりました、いつものように家事をやっておきます》

 わたしは感謝のスタンプを送ると、大きく息をついて感情を整える。祖父を詰問するなんて本当は嫌だけど、避けて通ることはできない。せめて穏便にことが運べば……いや、そんな弱気ではいけない。元凶と分かれば容赦なく退治するのだ。

 血の繋がらないわたしを今日まで育ててくれたことも、いつも優しいことも、世を乱す行いへの免罪符にはならないのだから。

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