第四話 黒い靄(3)
キララを伴ってユウコが神社を後にし、さて今日も特訓だと腹を決めたところでイブに袖を引かれた。彼女はひっきりなしに鼻を鳴らし、不快感で眉をしかめていた。
「どうしたの、なにか変な臭いがするの?」
「どうもきな臭い。外に出ましょう、嫌な予感がする」
何が怪しいのかと訊ねかけ、意味を取り違えていたことに気付く。
イブが嗅ぎ付けたのは油の臭いだ。あの黒い靄がとうとうこの神社にまで近付いている。狙いはわたしとイブの二人だろうか。
そんなことを考えながら家から出ると、空の色が奇妙だった。二月中旬で午後六時過ぎなら日はすっかり沈んでいるはずなのに、はっきりと赤みを帯びている。
イブは人ならざる動きで鳥居まで一っ飛びし、辺りをぐるりと見回してからすぐに降りてきた。
「黒い靄が至る所で発生してる。空が不自然に赤いのも同じやつの仕業かしら」
わたしだけでなくイブも赤い空を見ている。おそらくは何らかの怪現象なのだろう。
「あと、妖の気配を漂わせた少女が二人、向かってきてるみたい」
「二人って……まさかユウコとキララ?」
二人が黒い靄に憑かれたかと危惧したが、イブは首を横に振った。
「あの二人は人間でしょう。そして黒い靄は妖気や霊気、神気といったものを全く発しない」
確かにイブの言う通りだった。それらが感じ取れるならわたしもイブも今日まで敵の正体を掴めないなんてことはなかったはずだ。
「わたしは街に出現した靄を調べて来る。サオリは神社に向かってくる奴らを退治しなさい」
わたしはイブのように空を飛べないし、祖父のような神速も使えない。その分担で対処するしかなさそうだ。
イブが風のような速さで飛んでいくのを見守ると、両拳に霊力を集中させるための包帯を巻く。あと何箇所かに巻いておきたかったが、その前に敵が神社の鳥居をくぐり、姿を現した。
どちらにも見覚えがある。
「ここに何しに来たの?」
キララの友人だから力付くの解決は避けたかったが、ヒナタとヒカゲは鼻で笑うだけだった。
「決まってるじゃない」
「モトコに付きまとう悪い虫を排除するのよ」
そう宣言するやいなや二人は同時に動き、鋭く接近して来ると全く同じタイミングで拳を放つ。辛うじて回避し、打撃の隙を狙おうとしたが、二人は左右に展開して両方向から拳や蹴りを見舞ってきた。
鏡写しのような連携で、すぐに防戦一方まで追いやられる。いつもは普通の人間と大して変わらないが、狛犬としての特性が全開になれば獲物を狙う獣のように容赦がなくなるらしい。
なんとか穏便に済ませたかったが、そんなことを考える余裕はなさそうだった。
わたしは拳を強く握りしめ、霊気を全身に巡らせて即席の自己強化を展開する。ヒナタとヒカゲの攻撃による痛みが急速に和らぎ、二人の攻撃にも余裕で目がついていくし、徐々に荒くなっていく呼吸もはっきりと聞こえるようになった。
妖怪にも人間のような体力の限界はあるし、人を越えた動きを続ければ消耗も早い。ヒナタとヒカゲはイブや虹髭のような規格外ではなく、あくまでも若い個体の範疇を越えていない。
数分の攻防で動きが荒くなり始めたのを見て、反撃に出る。まずは体制を僅かに崩したヒナタを肩で押しやって軽く遠ざけると、返す刀でヒカゲに拳を数発、蹴りを胴に見舞う。その様子を見てヒナタが急いで迫ろうとしたところを、横から襲ってヒカゲと同様、地面に転ばせる。
更に追い打ちをかけようとしたが、二人は犬のような四本足で素早く動き、わたしから距離を取る。二人とも狂犬のように牙を剥き出し、涎をだらだらと垂らしていた。
普段のいじらしい可愛さはどこにもない。獲物を狙う獰猛な獣に成り下がっていた。
「そんなざまでキララを護ると抜かすわけ? もう少しは気合いを見せたらどう?」
安っぽい挑発だったが、ヒナタとヒカゲには効果覿面だった。二人は息を整える間もなく四本足で地面を駆け、喉元狙って左右から同時に噛みついてくる。わたしはそんな二つの口を両の拳でそれぞれ受け止め、思い切り地面に叩きつけた。
この一撃は流石に応えたらしく、ヒナタとヒカゲは唸るような呻き声をあげる。願わくばこのまま戦意喪失してくれたら良かったのだが、ヒナタもヒカゲもふらふらしながら立ち上がり、わたしに変わらぬ敵意を向けてくる。
黒い靄が体から出て行かない限り動き続けるのだろう。虹髭の時はたまたま上手くいったが、今回もそうなるとは限らない。
取りあえず気絶するまで叩きのめそう。そう決心しかけたが、すんでのところで実行には移さなかった。キララとユウコが息を切らしながら戻ってきたからだ。
「ヒナタ、ヒカゲ、やっぱり……」
キララはそう呟くと息が整う間もなくわたしの前に立ち、大きく手を広げた。
「こんなことをしちゃダメ。サオリ先輩はわたしの大事な友達なんだから!」
キララの言葉にヒナタとヒカゲが動きを止める。敵意は収まったが、二人は主人に叱られた犬のように顔を伏せ、肩を震わせ始める。
「もちろん、ヒナタとヒカゲも。わたし、友達と友達が喧嘩するなんて嫌だよ」
キララはそう言って二人のほうに近付いていく。そして手が届く距離までやってくると、ヒナタとヒカゲは揃って天を仰いだ。
嘶きが二つ、空に向かう。どこまでも遠くを駆けていきそうな声とともに黒い靄が体から抜けていき、わたしたちをあざ笑うようにぐるぐると渦を巻く。虹髭の時と違って大気に消えるようなことはなく、まだ何かを狙っているようだった。
ヒナタとヒカゲは気を失い、地面に崩れ落ちる。キララは二人を受け止めようとして膝をつき、一緒に地面に倒れた。
「おいこら、卑怯者め。さっさと正体を表せ!」
ユウコが空を見上げて声を荒げると、黒い靄は突如として動きを止め、ユウコに向かっていく。
不意の突撃をユウコは辛うじてかわしたが、形のない靄は即座に停止して、バランスを崩しているユウコに再び向かっていく。
気がつくと体が動いていた。わたしはユウコの前に立ち、身を守るように立ちはだかると大きく口を開ける。憑りつくならわたしにしろと訴えるように。
だが、黒い靄は入ってこなかった。寸前で停止し、迷うような動きを見せたのち、空の彼方に逃げていった。
「大丈夫だった?」
「馬鹿! なにしてるんだよ!」
折角助けたのに、ユウコはわたしを怒鳴りつける。
「だって、危なかったから……」
「サオリが憑かれたらこの中にいる奴じゃ誰も勝ち目がないだろ。憑かれるべきはわたしだったんだ。その程度も分からないのかよ!」
「う、うぐぐ、助けて。おも、重いです……」
険悪になりかけた空気がキララの声で一気に霧散する。わたしとユウコは双子姉妹に押し潰されそうになっているキララの元に向かい、一人ずつ引き剥がす。その体は異様に重くなっていた。
「助かった……ヒナタとヒカゲったらまるで石のように重たいんですよ。いつもは羽根のように軽いんですが」
「おそらく、狛犬の属性が強く出ている」
「狛犬、ですか?」
キララはぽかんとした表情をしばらく浮かべたのち、慌ててわたしに詰め寄ってきた。
「狛犬って神社にあるやつですよね。左右に一対置かれていて、神社を護る役目のある架空の獣で……え、マジ? それ本気で言ってます?」
「こんなところで嘘ついてどうするのよ」
「いや、そりゃそうですけど。え、じゃあわたしの間近には不思議があって、ずっと見過ごしてきたわけで、サオリ先輩はそのことを秘密にしてたんですか?」
「ええ、キララの大事な友達だったから」
ヒナタとヒカゲが神社ではなく一人の少女を守護対象として選んだのは奇妙なことだが、サオリは今まで黙認してきた。狛犬の守護は何かと魅入られやすい少女を危険から遠ざけるために役立つと考えたからだ。
「悪い存在じゃないし、二人が狛犬だと知ったらキララは意識せずにいられないと思った」
キララは反論しようと口を開こうとしたが、一言も発せられなかった。夜不可視として定期的に夜回りを行い、現代の闇に潜む怪異を暴く活動をしているのだ。友達が狛犬と知ったら、これまでの関係ではいられなくなるかもしれない。
そのことを取り繕わず、黙して語らなかったのはキララの誠実さをはっきりと示していた。
「それより二人とも、どうして戻ってきたの?」
「ヒナタとヒカゲからメッセージがあったんです。モトコの悪い先輩を懲らしめに行くって。ユウコ先輩は隣にいたから、きっとサオリ先輩のことだと思って……」
「メッセージを送っても返信がないから、何かあったんじゃないかと考えて、急いで戻ってきたってわけだ」
そのメッセージでキララとユウコを釣り出すつもりだったのか、それともヒナタとヒカゲによるキララへの忠誠アピールだったのか。どちらにしろキララが戻ってきてくれたお陰で黒い靄を二人から追い出すことができたわけだ。
「でも、あのチョコは回収したのにどうして黒い靄に憑かれたんでしょうか? チョコから抜け出してこっそり二人の中に入ったとか?」
「キララがいない間にこっそり食べたんだ。イブさんが包みの中は空って言ってただろ?」
「そっか、昼休みは途中まで先輩がたと一緒でしたから、つまみ食いする機会はありましたね……また作るって言ったのに」
「バレンタインにくれたチョコってのが大事なんだよ」
ユウコは冗談めかして言ったが十分に有り得る話だった。狛犬の特性上、キララの言うことには逆らわないと踏んでいたのだが、二人の想いはわたしが考えていたよりずっと大きかったらしい。
「ごめん、わたしのミス。もっと優しい言い方にすべきだった」
「サオリ先輩は悪くありません。悪いのはバレンタインのチョコに悪意を混入したやつですよ」
キララにそう言ってもらえると、己の至らなさが僅かでも慰められた。
「あの黒い靄を捕まえることができたなら、みっちり説教しないといけませんね」
キララが空に向けて怒りを放つ。わたしもそれにつられて見上げると赤い色はいつの間にか消えており、夜の装いに戻っていた。
「そういえば二人とも、赤い空を見なかった?」
「赤い空、ですか? 夕焼けではなくて?」
キララには思い当たる節がないようだった。
「ここに来る途中、空が少しだけ赤かった気がする。日が沈んだ後なのに変だなと思ったけど」
対するユウコは僅かだけ垣間見ている。そしてわたしとイブはあの赤を明確に認識している。
霊感の強さに比例しているのだろうか。だとしたら他にもあの赤を見た者がいるかもしれない。
「キララ、次のネット配信で日没後に空が赤くならなかったかとリスナーに訊くことはできる?」
「ええ、問題ありません。それにしても黒い靄に赤い空ですか。ユウコ先輩のお父さんに憑依した時は氷の力をふるったそうですし、能力に掴みどころがありませんね」
ユウコは同意して頷いたが、わたしはそんなことないと思っていた。ヒナタとヒカゲの戦いを通して、黒い靄の特性を一つ理解できたからだ。
あいつは怨霊のように、憑依したものの冥い感情をかきたてるのだ。
そのためにヒナタとヒカゲはキララを拐かす悪い先輩を襲う凶暴な獣となり、ユウコの父親は娘への罪悪感から虹髭のサンタクロースになった。後者が氷の力を使ったのはサンタが寒い国からやってくるという知識がなせる技だろうし、深酒の習慣が悪い方向に力を増幅したのかもしれない。古来より神降しや獣憑きは疲労によるトランス、酒や薬を用いた酩酊などの組み合わせによって発現してきた。
だが、単なる獣憑きや降臨ではない。全くの新種といって良いだろう。そのためにこれまで誰も正体を掴めなかった。
それが今日になってようやく、正体の片鱗を見せた。空を赤く染める謎の特性と、そしてもう一つの見逃せないこと。
あの黒い靄はわたしに憑依する絶好の機会を見逃した。
あまり考えたくない結論に傾きかけたとき、イブが空から降りてきて、ふわりと着地した。
「急いで帰ってくる必要はなかったようね」
「当然。イブのほうは収穫あった?」
わたしが訊ねると、イブは黒い水の入った小瓶を取り出す。
「僅かだけど捕獲できた。さっきまでずっと暴れてたけど、ようやく観念したみたい」
小瓶の中の黒い液体は粘りが強く、液体と固体の間の子、印象としては固まりきっていないゼリーのようだった。
「原油やタールを彷彿とさせるけど、怨霊と同じような特徴を持つと考えられる。おそらく霊体とある程度の近似を持つ、感情の媒質と考えられるのだけど」
黒い液体は霊体なら容易に抜け出せるはずの容器を突破することができない。他に類を見ない存在だがあくまでも物質なのだ。
「こんなものがどうして生まれたのかしら?」
「さあ、どうしてだろ」
そう言いつつ、イブにそっと目配せする。まだ推測に過ぎないが、あの黒い靄の正体に迫る情報を有しているのだという手応えを感じている。その裁定をするのにイブほどうってつけのものはいないと考えたのだ。
「この場はわたしとサオリで収めるから、キララちゃんとユウコはもう帰ったほうが良いわね」
イブがそう提案すると、キララは双子姉妹に気遣わしげな視線を向ける。側にいて介抱したいというならば妨げる気はなかったが、キララは素直に従ってくれた。
「そのかわり、二人の安否は逐一報告してください」
「分かった、真夜中でも容赦なく通知を飛ばす」
それでキララは安心したらしい。ユウコは特に何も言わなかったが、あとで事情を話せと表情が語っていた。
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