第四話 黒い靄(1)
「おはようございます、先輩がた」
キララはいつもよりテンションの高い挨拶をすると、可愛くラッピングされた袋を差し出した。
「そして早速ですが、わたしからの気持ちです」
中身が何かは開けるまでもなかった。今日が何の日かを考えればあまりにも明白だ。
「もしかしてバレンタインのチョコか?」
「ええ、いつもお世話になってますから」
妙に凝ったところのない、友チョコと一目で分かるものだった。
「ふーん、わたしたちだけで良いの?」
「さっきヒナタとヒカゲに渡しましたし、父さんと母さんには朝食のデザートとして食べてもらいました。それで全部ですね」
「なんだ、本命はいないんだ」
「残念ながら……いや、そうでもないですね。恋愛沙汰はないけど楽しい学校生活を送れていますし、まだ二年もあるんですから。来年までに本命をものにして見せますよ」
「わたしとサオリはあと一年しかないけどね」
「む、まるでわたしがあてつけたような言い方ですね」
「そうじゃないの?」
「ユウコ先輩もサオリ先輩も、その見目麗しさを然るべく用いれば恋人の一人や二人くらい簡単にゲットできるでしょうに」
「ゲットって、恋人をゲームの捕獲可能なモンスターみたいに言うなよ」
特別な日といってもユウコとキララの騒々しさは変わらない。わたしは会話を適度に受け流しながら祖父のこと、副業のこと、イブとの訓練のこと、その他雑多を並行して考えていた。
祖父の足はやっと歩行に耐えうる状態にまで回復したが、当初の想定より怪我の治りは遅くリハビリも芳しくない。イブが不審に思われないレベルで治癒を施しているが、それでようやく回復に針が傾いたといったところだ。
『わたしの力が阻害されている。花婿様の中にいる正体不明の仕業に違いないわ、腹立たしい』
イブは力のある天狗だが、その彼女をもってしても祖父に憑いているものの正体は未だ分からずじまいだ。分かっているのは黒い靄として現出すること、灯油を燃やした時のような臭いがすること、ユウコの父親に憑依してサンタクロースの怪人である虹髭を生み出したことくらいだ。その後の目立った活動はなく、こちらとしては手ぐすねを引いて待つしかない状況が続いている。
副業に関しては現在、規模を縮小している。新規案件の受付は中止、最低限の保守のみを行う。本当なら電話の問い合わせをメールやチャット、ボットに移行したいところだけど、わたしの扱う顧客は年を経ている方が多い。ツールでの問い合わせ方法もレクチャーしたが、電話で直接聞くのが一番早いという結論に至った。キララがフォローに回ってくれることもあり、今のところは問題なく運用を行えている。
イブとの訓練は二月に入っていよいよ過酷さを増してきた。これまで治してくれた傷も自力で回復しろと言われたし、当たりどころが悪ければ命のない攻撃を容赦なく放ってくるようになった。
『痛みなくして得るものなし、恐怖なくして成長なし』
というのがモットーなので、常にわたしが痛みと恐怖を感じるように創意工夫をする。イブはそれができるほど強く、わたしはまだ彼女の足元にも及ばない。虹髭との戦いで遅れを取ったのはサンタという属性が彼女と致命的に相性が悪かったせいだ。自称数百年を生きる天狗は子供と対極的な位置にある。逆に言うとそこまでの相性差がなければ勝つことのできない相手だということだ。
『たかだか数ヶ月の訓練でわたしを超えることはない。でも一人で神社を切り盛りすることなら辛うじてできるようになる。わたしと花婿様が添い遂げた後のことも考えてあげてるわけ』
なんとも上から目線だがありがたいのは事実だ。祖父はわたしに一通りの知識と技術を授けてくれたが、鍛えてはくれなかった。
決して甘えていたわけではないが、これまでは持ち前の能力だけで解決できていたからたかを括っていたところは間違いなくある。イブはそんなわたしの甘さを容赦なく正してくれた。
一方的に暴力を振るわれるのだけはいつまで経っても慣れないけど、受け入れるべき痛みと言い聞かせている。
キララとユウコの話が他愛のない雑談から今月の活動に移ったので、一旦そちらに耳を傾ける。
「ところで先輩がた、土曜日の夜に時間をいただけますか?」
「構わないけど新しいネタを仕入れてきたの?」
「いえ、今年になってからどうにも不漁でして。全体的になりを潜めているというか……」
頻繁に騒ぎを起こされるのは問題だが、平穏過ぎるのはそれにも増して良くない兆候だ。特にキララは時としてわたしも唸るほど、奇妙な問題を見つけるのに長けている。十月に体育祭で発生した悪寒の呪いもまた、キララが持ち込んだ話をきっかけとして判明したものだった。
そんな彼女ですら何も掴めなくなっているなら、この辺り一帯に雑多な悪意や呪い、悪戯を遠ざける何かが台頭し始めている可能性がある。
「噂をもとに活動できないなら、フィールドワークによって問題を捜し当てる。逆転の発想というわけです。それにユウコ先輩のアクションカムを活躍させてあげたいですし」
「確かに幽霊の一つも映せてないよな、わたしとしてはそっちのほうがありがたいけど。人ならざるものを映したカメラって曰くがつきそう」
「なに言ってるんですか、曰くがついてこそなんぼのものですよ」
「雑多な霊の十や二十が映り込んだ程度で曰くなんてつかない。たまたま撮った写真に虫が写り込むのと同じようなもの」
知識を正すとキララはロマンがないと言いたげな顔をするけど、事実なんだから仕方がない。
「いま使ってるスマホに曰くが付いたら困るんじゃないか? SSRが引けなくなるかも」
「げー、それは嫌ですねえ。じゃあ、夜不可視の曰くはユウコ先輩のアクションカムに一任ということでよろしくお願いします」
「あまり任されたくないなあ」
キララとユウコが雑な会話を楽しんでいると朝のチャイムが鳴る。いつものようにキララは慌てて教室を後にし、ユウコは包み紙を手早く取ると中のチョコを口に放り込む。渋い顔をしたところを見るとあまり美味しくなかったらしい。
朝礼が終わるとわたしはユウコに話しかける。
「帰ってから食べればよかったのに」
「いや、寝坊して朝食を取ってる暇がなくてさ」
「だったら始業の三十分も前に来る必要はなかったと思う」
「言われてみればそうだな、癖になってて気付かなかった」
ユウコが照れ隠しの笑みを浮かべ、わたしは安堵の息をつく。家の中が熟睡できるほど気を緩められる場所になったということだからだ。父親の断酒が上手くいっているのだろう。
「呆れられるのはしょうがないけど、もう少し優しく接してくれても罰は当たらないと思う」
誤解されてしまったが解くつもりはなかった。呆れていると見えるように振る舞ったから。
ユウコはわたしのことを理解できているというが、まだまだ甘い。でも、それは無理からぬことだ。わたしだってキララやユウコのことを十分に理解しているとは言い難いのだから。
ある程度は洞察できるけど、それでも限界はある。率直で分かりやすそうに見えるキララでさえ、ときに驚くべき複雑さを発揮する。いかなる人も単純と侮ることはできないのだ。
「それにしてもキララって味見しないタイプだったっけ? まさか罰ゲームじゃないよな?」
ユウコはまだ少し辛そうな顔をしている。そんなに不味かったのだろうか。
「わたしの家で料理を作る時はいつも味見してる。変な料理がでてきたことはあっても不味い料理がでてきたことは一度もない。ちなみにどんな味だったの?」
「苦くて、少しぬるっとしてた。妙なバズレシピを参考にしたのかも」
ユウコは大きく口を開け、舌を出す。その色は不自然にどす黒く、微かに油の臭いがした。
わたしはユウコの手を取り、急いで教室を出る。戸惑いと抗議の声はもちろん無視だ。説明している暇はない。人気の少ない水飲み場まで来ると、蛇口を捻って水を出す。
「口を濯いで、嫌な味がしなくなるまで。あと、胃に入ったチョコを吐いて。いますぐ」
何かを問いたげな顔をしたが、ユウコはわたしの指示にすぐ従い、口をよくゆすいでから近くのトイレに駆け込むと、指を喉の奥に入れて素早く吐いた。
便器の中はどす黒く染まっていき、水を流していないのに便器の奥に吸い込まれていった。あとには僅かなすっぱい臭いだけが残り、ユウコは敵を見つけたかのように便器を睨みつける。
「もしかして、父さんに憑いてたのと同じやつなのか?」
「ええ、おそらくは」
黒いものから霊や妖怪の気配は感じなかった。だが間違いなく人ならざるもので、憑依されたら性格に悪影響を及ぼしただろう。
「キララのチョコを通してわたしの中に入ろうとしたってことか。卑怯なやり方だな!」
便器に話しかけたのは黒いものに挑発を仕掛けたのだろう。だが返事も反応もなく、これ以上の追跡は諦めるしかなかった。それにもっと優先すべきことがある。
「キララの友達も既に食べたかもしれない」
ユウコは一瞬だけ便器を覗き込んだが、胃液混じりの唾を吐いて、水と一緒に未練を流した。
二人で教室の前まで来るとキララの友人、双子姉妹のヒナタとヒカゲが立ちはだかる。いつものようにキララを守ろうとしての行動だろう。
「もうすぐ一時間目の授業なんで」
「モトコを不良の道に誘わないで」
うるさく騒ぐ二人の舌を確認したが、黒く染まってはいなかった。
「誘わない。それよりキララのバレンタインチョコは絶対に食べちゃ駄目だから」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはない」
「そうそう、どっか言って頂戴」
二人は揃って吼える犬のような表情を浮かべている。前々から分かってはいたが、この二人にはとことん嫌われているらしい。
この駄犬どもをどう諭すべきか考えていると、キララが慌ててやってきた。
「どうしたんですか、先輩がた」
「こいつがモトコの作ったチョコを食べるなって言ってるの!」
「味に難癖つけにきたのよ、きっと」
すっかりおかんむりの二人に、ユウコはあからさまな不機嫌顔を作りながら言った。
「すごく苦かったから作り直したほうが良いと思って」
キララはユウコと双子の顔を見比べ、ぺこりと頭を下げる。
「ごめん、ちょっと作り方を失敗しちゃったみたい。だから一度回収させて、明日こそ美味しいのを持ってくるから」
どうやらわたしたちのことを信頼して、ヒナタとヒカゲを説得してくれたらしい。二対の瞳がわたしを威嚇してきたけど、黙って鼻を鳴らすほかなかった。
キララは渋る二人からチョコの包みを受け取ると鞄の中に入れる。それを確認してから教室に戻ると、キララから新着メッセージが入っていた。
《ちゃんと味見はしましたし、両親は美味しいと言ってくれたんですよ》
《苦味を我慢していた可能性は?》
《友達に配るって話をしました。父と母にだけ渡すものなら我慢したかもしれませんが、外に迷惑をかけるならちゃんと指摘してくれたはずです》
するとキララの両親が食べたチョコに異物は入っていなかったと考えるべきだろう。これ以上の対応は必要なさそうなことがわかり、心の中でほっと息をつく。
《キララが悪くないことは分かってる》
フォローの返信をしている間に一時間目開始のチャイムが鳴る。わたしは急いで追加の一文を送っておいた。
《今日の昼はこっちに来て欲しい。詳しい事情を話す》
黒い靄のことをキララにはまだ説明していない。夜不可視のテーマとして扱えるようなものではないからだが、黒い靄のほうでキララを積極的に巻き込んできた。
となると何も知らないないほうがリスクになる。だから全てを話してしまうつもりだった。
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