第三話 汝の隣人を愛せよ(7)
「なんでだよ、どうして……」
慌てて心臓に手を当てると、確かな鼓動が感じられた。気絶しているだけなのには安心したが、目の前の状況は未だ飲み込めない。
「そいつがサンタの正体ね。知り合いなの?」
イブさんが訊ねてきて、わたしはなんとか最低限のことだけ口にすることができた。
「父さんだった」
それだけでイブさんは全てを察したのだろう。わたしの肩にそっと手を置いた。少しすると右腕の痛みが急速に楽になっていく。
「痛みだけ取ったわ。本格的な施術は神社に戻ってからで……」
イブさんはそこまで口にすると、わたしの手を掴んで引っ張りあげる。体が宙に浮き、わたしたちはサオリとナツキちゃんのいる後方まで一気に辿り着いていた。
父のいる場所を中心に地面が凍りついていく。あそこにいればイブさんはともかく、わたしは瞬時に凍りついていただろう。
父はゆっくりと立ち上がり……いや、サンタの服装に特徴的な口髭。
あれは虹髭だ。父から再びサンタの怪人に戻ってしまった。いや、もしかしたら倒したと思って近寄ってきたところを罠にかけようとしたのかもしれない。
「特効マシマシの拳を何度も叩きつけたのに駄目だなんて。これは負けイベントかしら」
「わたしにとっては悪夢かな」
夢に出てきた怪人に襲われ、しかもそれが父だった。悪夢と言わずしてなんと言うのだろう。
「これは現実、イベントでも悪夢でもない」
サオリは弱気になったわたしとイブさんにしっかりと釘を刺してきた。
「ここで踏ん張らないと、ユウコが助けようとしてる子はあいつに殺される」
そうだ、わたしはナツキちゃんを守らないといけない。あれが本当に父だとしたら尚更だ。絶対に人殺しをさせてはいけない。
「でも、倒しても倒しても蘇るし、力が尽きることもない。どうすればいいんだ」
むしろ力ますます盛んだ。今も虹髭を中心に広がる氷の影響か、かなり距離を取っているのに冷たい風が絶え間なく吹き、地面にはいつのまにか霜が降りていた。サオリが倒れているナツキちゃんを慌てて背負い、イブさんがうっすらと炎を走らせることで寒気を一時的に退ける。
「あんなのを本当に倒せるのか?」
わたしの問いにイブさんは悪巧みを思いついたかのような、情の薄い笑みを浮かべる。サオリはそれを見て露骨に嫌そうな顔をした。
「手段を選ばなければ、一つだけ」
虹髭が雄叫びをあげると周囲の温度が一気に下がり、歯ががたがたと鳴る。どうやらわたしたちを動けなくなるまで冷やすつもりらしい。実にシンプルかつ効果的なやり口だ。こちらから攻めようとしても、あいつを中心として地面に広がる氷が行く手を阻むだろう。
やはり手があるとは思えなかったが、イブさんは戸惑うわたしの耳にそっと顔を寄せる。
「あいつがユウコの父親を核としているのが功を奏するのよ」
イブさんはそう囁くと、手段を選ばない方法をわたしの耳に吹き込む。
思わず顔をしかめた。サオリが嫌そうな顔をするのも理解できる。できればそんなことはしたくない。でも、それしか方法がないのも分かっていた。
だからわたしはサオリの咎めるような視線を無視して頷く。するとイブさんは炎で地面を焼き、虹髭に近づくための道を作ってくれた。わたしは歯を食いしばりながらその道を進む。考える必要はなかった。そのための言葉はもう、心の中に十分溜め込んでいたから。
氷と炎がせめぎ合う先端に立つと、わたしは虹髭を倒すための、呪いの言葉を口にする。
「お前なんてサンタじゃない!」
虹髭はわたしをはっきりと睨みつけてきた。
「わたしはサンタだ」
だが、返事をするとは思わなかった。これまでずっと呻き声か雄叫びしかあげなかったから。
「良い子にプレゼントを配ってきた。何人にも、何十人にも。今も良い子にプレゼントをあげようとしている。邪魔をするな」
人を殺すことがプレゼントだなんて、なんという戯言だ。こんなことをするのが父だなんて信じたくなかった。わたしを動揺させるため、父の姿を借りたのだと思いたかった。
だけどイブさんの授けてくれた手段は虹髭が父でなければ通じない。わたしは望みを半々に持ちながら呪いを続ける。
「じゃあなんで、わたしにプレゼントをくれないんだ?」
虹髭の肩が小さく震える。だがすぐに、こちらを嘲るような笑顔を浮かべる。
「なんだ、プレゼントが欲しいのか。それなら、これが済んだら次はお前の所に行こう。良い子にしていたら欲しいものをなんでも……」
「嘘をつくな、お前はわたしの所にプレゼントなんて持ってこない」
「いや、持って行くよ。なぜならわたしはサンタだから」
「じゃあなんで、去年はくれなかったんだ!」
先程と違い、今度はぎくりと全身を震わせる。
「去年だけじゃない、一昨年も、その前の年もだ! 十二の時からずっと! わたしは父さんからクリスマスプレゼントをもらっちゃいないんだ!」
虹髭は口をぱくぱくとさせる。事実だから何も言い返せないのだ。つまりあいつは間違いなく、わたしの父ということだ。
「テーブルにお金を置いて、それで親の責任を果たしたみたいに! それに十三の時、父さんは酷く酔って帰ってきた。わたしを罵って、顔を叩いた! それがわたしへのプレゼントだったのか!」
「ち、違う。わたし、わたしは……」
虹髭は頭を抱えて苦しみ出す。これまでに与えたどんな拳よりも蹴りよりも深く傷ついているのが見て取れた。
もう沢山だった。これだけやれば十分だ。でも、ここでやめるわけにはいかない。父はまだ虹髭だし、周囲を覆う寒気も晴れてはいない。だからもっと傷つけなければいけなかった。
「これまで多くの子供にプレゼントを配ってきたんだってな。立派だと思うよ。でも、だからなんだっていうんだ。わたしは何ももらっていない」
昔は父を恨んだこともあった。でも、痛いのにはもう慣れた。父がずっと苦しんできたことも知っている。わたしさえ少し我慢すれば良かった。父のぎこちない暴力なんて平気だった。
「娘をずっとほったらかして、向き合わなくて。何も知らない子供にプレゼントをあげて、せこせこ埋め合わせをしてたんだろ。この、偽善者」
嗚咽を漏らしながら、虹髭が膝から崩れ落ちる。頭を地面につけ、蹲り、まるで子供のように怯えている。あんなに強かったやつがわたしの言葉でぼろぼろになっている。
それでも寒気は渦巻き続けている。だからとどめを刺すしかなかった。
「お前なんてサンタじゃない、聖人であってたまるものか! 単なるろくでなしだ!」
悲痛な叫びとともに、虹髭の体から黒い靄のようなものが抜けていく。鼻をつんと刺すような臭いを僅かに感じたもののすぐに消えていき、あとには父だけが残された。
あの黒い靄に取り憑かれていたんだろうか。だとしたら捕まえてやりたかったが、もはやどこにも見当たらなかった。
今度こそ大丈夫だと思ったが、罠にかけられそうになったこと、酷い言葉をかけてしまった気まずさが重なって、近づく気になれなかった。代わりにイブさんが迷いなく近付き、爪先で何度もつついて確認した。
「大丈夫みたいね、お疲れ様。すっとしたでしょう?」
そんなことはないと言いたかった。でも心に抱えていたものの一部がどこかに抜けてしまったのを否定することはできなかった。
羞恥にも似た感情を持て余しているとイブさんが父を担ぎ、どこかに連れて行こうとする。
「待って、父さんは……」
「あの黒いのに憑かれてたのよね、分かってる。少しだけ体を調べて、あとはそうね……暴漢に襲われたことにするのが一番丸いかな」
「あまり手荒なことはしないでくれると助かる」
「ちょっと怪我させるだけだから。わたしを信用して」
散々助けてもらってなんだがイブさんは天狗であり、人を軽んじているところがある。父を任せて良いのか迷っていたが、すぐに新たな問題が起こった。
背後から激しい泣き声が聞こえてきたのだ。見るとナツキちゃんが酷く取り乱しており、サオリが宥めようとしていたけど、上手くいっていない様子だった。
「父さんのこと、ほんと頼むから」
「約束を破ったら清水の舞台から飛び降りて見せますわ」
そんなことじゃ死なないだろうと思ったが、ここに置いておくわけにもいかない。だから父はイブさんに任せ、ナツキちゃんのもとに急いで駆け寄った。それから取り乱す彼女の手を軽く握り、ゆっくりと擦る。小さいときに父か母か忘れたけど、そうして慰めてくれた記憶がある。
その甲斐あってか少しずつ勢いが弱くなっていき、五分ほどするとしゃっくりを交えながらもぽつぽつと話すことができるようになった。
「わたし、こ、怖かった、よう……」
わたしはナツキちゃんの目元に滲む涙を指で拭い、そっと頬を撫でる。
「大丈夫、怖いサンタは退治したから。わたしと隣にいるお姉さんでね」
サオリは余所行きの笑顔をナツキちゃんに浮かべる。わたしには向けてくれない表情の一つだ。
「もう一人、お姉さん、は?」
「サンタを連れて行った。だからもう安心して良いよ」
ナツキちゃんは大きく息をつく。だが、次には目元に涙を溜めていた。
「ごめんなさい、泣いてばっか、で」
「いいよ、たくさん怖い目にあったんだから」
「それも、だけど」
そこでナツキちゃんは何度かしゃっくりをし、唾をごくりと飲み込む。
「辛いこと、あったの、思い出して。なんでわたしばっかり、とか思っちゃ駄目なのに」
「それくらい誰だって思うよ」
わたしだって父の暴力が常態化し始めた頃、似たようなことを考えていたし、拗ねたものの見方を自分で戒められるなら悪いことなど何もない。
一つだけ気になることがあった。ナツキちゃんはキョウイチくんを追い詰めるような真似をした可能性があるということだ。
「もしかして、キョウイチくんのこと?」
疑惑を隠して訊ねると、ナツキちゃんは重く頷いた。
「まさか自殺、するなんて思ってなかった」
「ナツキちゃんはキョウイチくんの告白を断ったの?」
ナツキちゃんはわたしの問いに大きなしゃっくりを返し、いやいやするように首を横に振る。
「違う、告白したのはわたしで、振られちゃったの」
予期しない話に頭の中が混乱する。告白したのではなくされたんだったら、自殺する必要なんてない。だってキョウイチくんもナツキちゃんのことが好きだから。そもそも振る必要がないし、虹髭がナツキちゃんを襲ったこととも矛盾する。
何かが致命的に間違っているのだ。でも、わたしにはその正体がまるで掴めなかった。
「キョウイチの顔、真っ青だった。わたしに告白されたのがそんなに嫌だったの? そこまで嫌われてたなんて、知らなかった」
再び泣き出そうとするナツキちゃんに、わたしはかける言葉が何もなく。するとサオリが代わりに声をかけた。
「キョウイチくんって子に、好きになりそうな女の子はいたの?」
「いないよ。ずっと見てたんだから、分かるよ」
サオリはふむと頷く。その顔に戸惑いはなく、それで物事がより明らかになったと思っているようだ。わたしには何も分からないというのに。
察しの悪いわたしを置いて、サオリはナツキちゃんに次の質問をする。
「じゃあ、好きになりそうな男の子は?」
それはあまりにも明確な答えだった。
思いつかなかったのが恥ずかしくなるくらい、それで全てが説明できた。
「います。でも、わたし……全然、気付かなかった」
ナツキちゃんはそう言って唇を噛みしめる。なんらかの後ろめたさを隠しているのが表情から見て取れた。
「わたし、タカシに告白されたばっかりで。他に好きな人が、いるって言ったら、寂しそうな顔をしたけど、すぐに笑顔になって。応援するって、言ってくれて」
なんというタイミングの悪さだ。その直後にキョウイチくんから告白されたのだとしたら、どんな罵詈雑言がタカシくんの口から出てきたか分かったものではない。
しかもキョウイチくんはその後で、ナツキちゃんに想いを打ち明けられている。以前の相談内容からして、彼はナツキちゃんの気持ちに気付いていなかったはずだ。
わたしはキョウイチくんが書いた遺書の内容を思い出していた。
【僕の罪は己れを愛するが如く、隣人を愛したことです。そのために僕は死ぬのです】
タカシくんを好きになったこと。
自分の想いにかまけてナツキちゃんの気持ちに気付いていなかったこと。
どちらか一つだけなら踏み留まったかもしれない。だが二つはほとんど同時にキョウイチくんを襲った。元々内罰的だった彼はいよいよ耐えきれなくなったのだろう。
彼の気持ちを知っていた虹髭はナツキちゃんを亡き者にすることがキョウイチくんへの贈り物になると思い込み、行動に移したのだ。
なんともやるせない話だが、ありふれた話でもある。
想いが伝わらないことなんていくらでもある。
ただ、それだけのことなのだ。
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