第三話 汝の隣人を愛せよ(5)
面会を終えて病院を出ようとしたとき、見知った人物が受付で言い争っているのを見かけた。キョウイチくんの友達の一人、タカシくんだった。
「一目だけでもいいんだって、頼むよ」
彼はキョウイチくんになんとか面会したいようで、手を合わせて頼んでいる。受付のうんざりしたような顔を見た感じ、かなり粘っている様子だった。
「繰り返すようですが、面会謝絶です。手術の終わったばかりで感染症のリスクも高い。いくら仲の良い友達でも合わせるわけにはいかないんです。ご理解ください」
タカシくんはなおも食らいつこうとしたが、言葉は既に尽きていたらしく、深々と頭を下げてから受付を去っていった。
「キョウイチくんはここに運ばれてたのか……」
ここらで一番大きな病院だし、救急外来も充実しているからそれ自体に変なところはない。わたしが気になったのはタカシくんの表情だった。
仲の良い友達と受付の人が口にしたとき、一瞬だけ嫌悪感を剥き出したような気がしたのだ。
わたしの家を出たあと、キョウイチくんとタカシくん、ナツキちゃんとの間で何かが起きたのかもしれない。それによってキョウイチくんが自殺を選んだのだとしたら。
何を聞くかも分からないままタカシくんを追いかけたが、姿を見失ったままで追いつくことはできなかった。
わたしは少し迷ってからイブさんのスマホに電話をかける。
「どうしたの? 虹髭を見つけたのかしら?」
「いや、その……イブさんはキョウイチくんの遺書を見つけたって言ってたよね。中身を読んだの?」
「ええ、大したことは書かれてなかった。なんでそんなことを知りたいの?」
「いや、個人的なことなんだけど」
わたしはキョウイチくんが自殺する前日に恋愛相談を受けていたのだとイブさんに話した。その時の決意がキョウイチくんを自殺に追い込んだかもしれないということも。
「だから遺書を読めば動機が分かると思ったのね。でも本当に大したことではなかったのよ」
「それでも良いから」
イブさんは受話器の向こうで黙り込む。他人のプライバシーに踏み込むなと説教されることを覚悟したのだが、更に少しして僅かに低い声で答えてくれた。
「僕の罪は己れを愛するが如く、隣人を愛したことです。そのために僕は死ぬのです」
「……それだけ?」
「ええ、それだけ」
遺書の内容をそのまま読み取るなら、キョウイチくんは好きになってはいけない人を好きになった、その思いを消せないことの辛さゆえに自殺したということになる。
「しっくり来ないって感じね」
「ただ単に、納得できないというか」
「それなら突き詰めてみれば良いんじゃない?」
「突き詰めるって、どうやって?」
「本人たちに聞いてみれば良い。住んでる場所を知ってるなら簡単なことよね?」
つまりタカシくんやナツキちゃんの家を訪ね、三人の関係について問い質せということだ。部外者でしかないわたしにそこまでする権利があるとは思えなかった。
「それは、できない」
「何故? 彼の抱える問題が好転しない限り、同じことを繰り返す可能性が高い。それをたかが部外者であるというだけで見逃すの?」
イブさんは痛いところを突いてきた。
「後期クイーン問題なんてものは火に放り込んでしまうべきよ。神でないものが、所詮は人間程度が神のように振る舞うことを恐れてはならない」
後期クイーン問題がどういうものかは知らないが、わたしを励ましているのだということははっきりと伝わってきた。
「分かった。手を、尽くしてみる」
「もし失敗したら、わたしのせいにしなさい」
イブさんはそう締めくくり、電話を切った。
「なんだかんだ言って、面倒見の良い人だな」
そう呟くと、わたしは重い足取りで帰途に着いた。
ナツキちゃんの家を訪ねたのは夜七時を少し過ぎた頃だった。この時間なら家にいると思ったし、他人の問題に土足で上がり込む決心をするのに時間が必要だった。
チャイムを押そうとしたところで慌ただしい足音が近付いてきた。慌てて身を引き、ほぼ同じタイミングでドアが勢い良く開けられる。
わたしの顔を見るとナツキちゃんは一瞬だけ立ち止まったが、すぐにわたしの手を引いた。
「逃げないと!」
何からと訊く前に、そいつはぬっと姿を現す。サンタ帽を目深に被り、顎は白い髭、口元はぴかぴか光る虹色の髭。ぶかぶかのサンタ服、左手は荷物袋を背負い、右手は拳を握りしめている。
殺意で全身が凍り付きそうだった。ナツキちゃんが再び手を引いてくれたから辛うじて我に返り、ここから逃げ出すことができた。
エレベーター近くの非常階段に出ると、ナツキちゃんを前に立たせて大急ぎで下っていく。後ろからの足音は聞こえてこないが、まるで安心できなかった。
恐怖と焦り、戸惑いが心の中で行き来するのをなんとか抑えながら、ナツキちゃんを支えて一階まで下りる。そこでようやく連絡を取ることを思い出し、イブさんに電話をかけた。
「虹髭が出た、うちの寮の前」
「えっ、まじ?」
イブさんにとっても全くの予想外だったようで、素直な驚きが耳に響く。
「すぐ行く、一分持ち堪えて。サオリにも急いで駆けつけるよう伝えておくから」
それも一瞬のことだったようで、次には的確な指示が飛んできた。
「分かった」
そう答えて電話を切ると同時、ナツキちゃんの叫び声が聞こえてくる。慌てて彼女のほうを向くと、前方に虹髭の姿が見えた。いつの間にか回り込んでいたらしい。
「逃げよう。もう少ししたら助けが来るから」
ナツキちゃんの肩を軽く叩くと一瞬戸惑いを見せたが、次には虹髭に背を向けて一目散に逃げ出していく。
イブさんが来るまで虹髭を足止めするつもりだったが、ナツキちゃんの逃げた方からも強い光が放たれる。サンタの口髭と同じ虹色の輝きだ。
その光は凄まじい速さで近付いてくる。わたしは慌ててナツキちゃんに追いつき、横からぶつかっていく。二人で一緒に地面を転がり、そして先程まで彼女のいた場所を光が通り過ぎる。
そいつは慣性など存在しないと言わんばかりにぴたりと止まり、目の眩みそうな光を放ちながら再び突っ込んでくる。ナツキちゃんを強引に助け起こして突撃を避けたが、今度は虹髭が光の中からいきなり姿を現し、わたしの手からナツキちゃんを奪い取ると胸倉を掴んで持ち上げる。
「こいつ、いつの間に!」
側面から殴りかかったが稽古の時のイブさんと同じでずしりとして揺るぎがなく、たじろぐ様子が微塵もない。ナツキちゃんはなんとか虹髭から逃れようと足をじたばたさせているが、そちらもまるで効き目がない。
虹髭は胸倉を掴んだままナツキちゃんをぶうんと振り回し、無造作に放り投げた。
野球ボールのように人がまっすぐ飛んでいく。その先にはコンクリートの建物があり、わたしはその様子を見ていることしかできなかった。
だがナツキちゃんは壁にぶつからなかった。突如として現れた人影が彼女を空中で受け止めたからだ。そいつはナツキちゃんを抱えたまま軽やかな足取りでこちらに向かってくる。
「ぎりぎり及第点ってところかしら」
聞き慣れた声にわたしは思わず息をつく。イブさんは意識を失っているナツキちゃんをわたしに預け、立ち塞がるように歩を進めた。
「一分って本当だったんだ」
人間ならどんなに急いでも間に合う距離ではない。イブさんが人外であることを痛感するしかなかった。
「わたしのような天狗にとっては容易いこと」
そんな宣言に呼応するよう、虹色の激しい光が瞬いた。三度の強烈な突進を前にイブさんは避けるそぶりもなく、前方に手を伸ばす。
危ないと言う前に光を放つ物体が迫り、イブさんはたたらを踏むことなくそいつを受け止める。それでようやく正体が分かった。虹色に光る鼻を持つトナカイの頭が自転車に取り付けられていたのだ。虹髭はサドルにまたがっており、ペダルに力を込めるがそれでもびくともしない。
突進は効かないと判断したのか、虹髭はトナカイの自転車を捨てるとイブさんに向けて拳を振り下ろした。攻撃をかわした先に拳が突き刺さり、アスファルトが派手に割れる。イブさんはそれを見て口笛を吹いた。
「随分と粗末なソリじゃない。世界の景気が悪いとサンタもみずぼらしくなるのかしら?」
虹髭はイブさんの挑発に乗らず、拳を握りしめて殴りかかる。地面を砕くほどの一撃をイブさんは軽く受け流して足を払い、地面に転ばせると首元を全力で踏みつける。
ただの人間なら首の骨が折れていただろう。だが虹髭はびくともしなかった。それどころか踏みつけた足を力任せで持ち上げ、あっという間に立ち上がる。
「力任せの素人ね、まるでなっちゃいない」
言葉とは裏腹に、イブさんの顔からは少しだけ余裕が消えていた。虹髭はイブさんの実力を警戒してか一定の距離を取り、トナカイの自転車とともにこちらの様子をうかがっている。諦めて逃げる様子はなかった。
「ユウコはここにいて、その子を守って」
「それよりも逃げたほうが良くない?」
イブさんはこちらを向かず、首を横に振る。
「あのトナカイ、自転車に見えるけど虹髭の召喚物なの。サンタのソリを引くトナカイって複数いるわよね?」
イブさんと戦いながらトナカイをけしかけてくる可能性があるということだ。情けないことだがわたしだけでは人のいる場所に向かうまでの僅かな距離すら逃げきれる自信がなかった。
「しかも人払いの術を使ってる。あれだけ派手な姿で隠密ができる理由ってところかしら?」
「つまり、ここであいつをなんとかするしかないと?」
「そうみたいね。まあ、なんとかなるわよ。なにしろわたしは数せ……ごほん、数百年もの時を生きる偉大な天狗様なのだから」
いま何かとんでもないことを言おうとした気もするが、詮索している場合ではない。わたしはナツキちゃんを背負い直し、逃げるチャンスができたらいつでも動けるように体制を整える。
こちらの方針が決まってすぐ、いくつもの光が虹髭の周りに現れる。イブさんの言う通り、トナカイを複数召喚したらしい。
「本当にやってくるとは面倒臭い!」
トナカイたちは予備動作なく一斉に突撃してくる。標的はイブさんではなく、わたしの背にいるナツキちゃんのようだった。
イブさんの姿が霞のようになり、姿が消えたかと思えばトナカイたちを次々と迎え撃ち、吹き飛ばしていく。目にも止まらない猛攻とは正にこのことだった。
「こちらもとっておきの乗り物を見せてあげる」
いつのまにかわたしの前に戻っていたイブさんは素早く手を動かし、聞き慣れない言葉を呟く。
どちらも止まったと同時、目の前に炎の車輪が姿を現した。そいつはトナカイを次々と踏み潰していき、全て破壊すると虹髭に突っ込んでいく。
虹髭は大きく拳を振り上げ、車輪を殴りつけようとしたが、炎は拳から全身に伝わり激しく燃え上がっていく。これなら流石の虹髭もただではすまないはずだと思った。
だが、その期待はすぐに破られた。虹髭の拳から生まれた氷が炎の車輪を包み、あっという間に砕いてしまったのだ。
それを見たイブさんは炎を腕にまとわせ、虹髭に殴りかかる。拳と拳、炎と氷が激しくぶつかり合い、赤と青の光がちらちらと舞う。
その光景は長く続かなかった。虹髭の氷が炎を包み込もうとしたからだ。イブさんは慌てて距離を取り、一際激しい炎を腕にまとわせて絡みついた氷を溶かしていく。
それを好機と見たのか、虹髭の周りにトナカイが再び召喚される。先程の数倍、二十体近くはいるだろうか。
「大見得切っておいてなんだけど、ちょこっとだけまずいかも」
イブさんはわたしにちらりと渋い笑みを向ける。彼女がこんなに苦戦するなんて想像だにできないことだが、現実に起きていた。
「やることなすこと出鱈目過ぎる。花婿様でさえ一対一を避けるわけね」
イブさんはそう言うと炎の車輪を新たに生み出し、こちらに向かってくるトナカイを片っ端から打ち落としていく。だが、落とされる側からトナカイは新たに生み出されていく。
悪夢のような光景だった。サンタもトナカイもわたしの見た夢に出てきたそのままの姿で、あらゆる現実を蹂躙しようとしている。
わたしの出る幕などもう、どこにもない。
そのことを示すようなとびきりの悪夢が突如として現れた。
虹髭がわたしとナツキちゃんの目の前に立っていたのだ。
どうして、いつのまに、どうやって?
悪夢だからどんな理不尽でも起きるのか?
虹髭は殺意に満ちた拳を振り下ろそうとしている。もはや僅かな戸惑いさえ許されなかった。
わたしは背中のナツキちゃんを乱暴に下ろすと一歩前に出て、ささやかな壁になる。一秒でも時間を稼げばイブさんが何とかしてくれると期待してのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます