第三話 汝の隣人を愛せよ(4)
わたしは眠ったふりをして、サンタが来るのを待っていた。そのためにたっぷりと昼寝したからいつもはとっくに寝ている時間になっても全然、眠くならなかった。
いきなり目を開けて驚かせてやろう、などと意地悪なことを考えていたら、少しずつ足音が近づいてくる。わたしは期待に胸を膨らませながらその瞬間を待ち構えた。
やがてドアが音を立てて開き、わたしは入ってくる何者かを薄目でそっと見る。
目深に被ったサンタ帽に真っ白な顎髭。ぶかぶかのサンタ服がちょっとヘンテコだったけど、最も奇妙な特徴に比べたら些細なことだ。
そいつの口髭は虹色に光っていた。
とても良い子にプレゼントを配る人だとは思えず、慌てて体を起こすと虹髭は困ったような笑みを浮かべた。
「ダメじゃないか、起きてちゃ。良い子は寝てないといけないんだ、分かるよね?」
虹髭は背中に担いでいる袋から刃物を取り出し、笑顔のまま迫ってくる。綺麗な歯並びと健康的な歯茎が逆に恐ろしかった。
わたしは布団を飛び出し、虹髭を避けてドアから外に逃げる。家を出て、寮から離れて、ひたすらに走った。だが虹髭は追いかけてくる。鼻がピカピカの虹色に光るトナカイに乗って、とんでもない速さでやってくる。
トナカイの角に弾き飛ばされ、壁にぶつかって頭を打った。もがくわたしにサンタはゆっくりと近付き、手にした刃物を構えると、容赦なく突き立てて……。
刺さる寸前で夢から覚めた。
目覚めると汗びっしょりで、喉がからからだった。冬の朝の目覚めとはとても思えなかった。
あまりに乾きが酷くて急いで台所に向かい、蛇口から出てくる水を手ですくって飲む。派手にむせたけど、ツーンとした痛みと涙がわたしを現実に引き戻した。
「勘弁してくれよ……」
気味の悪いものが苦手なのに、あんな怪物をお出しされてはたまったものじゃない。
汗と涙を流すためにシャワーを浴びたかったが、パトカーと救急車の音が交互に聞こえて妙に騒がしく、そちらのほうが気になった。
何か事件でもあったのかとベランダから外を見れば、黄色いテープの囲いが作られており、何人かの警官が物々しい雰囲気で立っていた。
そのうちの一人がわたしを見つけ、咎めるような視線を向けてきたので慌てて部屋に戻る。
気にはなるけどわたしが首を突っ込んで何かが変わるということもないだろう。そう言い聞かせてから朝の支度を済ませ、登校しようというところで玄関のチャイムが鳴った。
ドアモニターには見知らぬ男性の二人組が映っている。一人はスーツ姿、もう一人は警官の制服を着ていた。
「すみません、少しお話を聞かせてもらいたいのですがよろしいでしょうか?」
「父は仕事に出て不在ですが、わたしで問題ありませんか?」
「ええ、そんなにお時間は取らせません」
通話を終えて玄関に向かい、ドアを開ける。スーツ姿の男性は丁寧に頭を下げてから、手帳を開いて中にある身分証を見せた。
「朝の忙しい時だというのにすみません」
「いえ、まだ余裕がありますから」
刑事さんは噛み締めるように頷くと、早速用件を切り出してきた。
「話というのはお隣の、高原さんのことなんですが」
「隣で何かあったんですか?」
「いえ、そうではなくてですね」
そこまで口にすると刑事さんは声をひそめた。
「そこのお子さんがその、飛び降りまして」
「お子さんってキョウイチくんのことですか? 飛び降りって、まさか……」
刑事さんは重々しく頷く。わたしの心臓は早鐘のように鳴り始めていた。
「自殺、したんですか?」
「実に痛ましいことです」
「そんな、どうして……」
そこまで口にしたところで、昨日の会話を思い出す。彼は恋愛で深刻に悩み、己を強く責めていた。そのことを打ち明け終えた彼は何らかの決意を胸に秘めていた。
まさか、自殺して三角関係を終わらせるつもりだったのか?
刑事の質問は何か物音を聞かなかったか、不審な人物を見かけなかったか、などの単純なものだった。あまり熱心ではなく、事件の可能性も考慮に入れながら、自殺として結論付けていることがなんとなく伝わってきた。
だからわたしも昨日の話は刑事さんにしなかった。自殺の可能性がより確かになるだけだから。
もっと話を聞いてやるべきだったのだろうか。そんな後悔が胸の内で重々しく円を描く。
「ありがとうございます。ところでお父様は仕事とのことですが、お母様は?」
「母はいません」
「失礼しました。お父様にも一応、話を聞かせてもらうことになると思います」
それで刑事さんとの会話は終わりだった。わたしは一息つくと部屋に置いてあった鞄を手に取り、家を出る。
隣の部屋のドアを見たがうちと全く同じ作りで、中に息子を失った悲しみが満ちているようには見えなかった。
寮を出て、現場を後目に登校しようとすると、その中に見知ったスーツ姿の女がいた。彼女は先程やってきた刑事さんに上司のような振る舞いをしており、一通りの報告を聞くとこちらにやって来た。
「イブさん、なにやってるんですか?」
「私的探偵行為、というやつね」
イブさんはしれっとそう口にする。その言葉がわたしの中に染み渡るまで少し時間がかかった。
「つまり、ここで起きた飛び降りは自殺じゃないってこと?」
「いえ、自殺でしょうね」
わたしの推測をイブさんは軽く否定した。
「今日の朝早く、非常に強い力が発せられたの。神社にいても微かに伝わるくらいで慌てて現場まで駆けつけたんだけど、力を発した何者かの姿はなく、少年が倒れているだけだった。まだ息があったからわたしの力で回復できるか確かめようとしたんだけど……」
「息があったって、じゃあ死んでないのか?」
予期しない朗報にわたしは声を荒げていた。
「骨が何本も折れてたし、内蔵にも損傷はありそうだったけど、よほどのヤブを引かない限りは助かるはず」
「そうか、良かった。ありがとう、彼を治してくれて」
「いえ、治してないわ」
感激のあまりイブさんの手を握ろうとしたらまたしてもあっさりと否定された。
「人の来る気配があったから慌ててその場から離れたの。もう一度言うけど、わたしは彼の傷を治してない」
「じゃあ、低い階から飛び降りたのかな?」
「わたしもそう考え、救急への連絡を済ませてから飛び降りの痕跡を探したの。すると屋上に履物と遺書があった。地上七階の高さから何も身につけず飛び降りたら、人はまず間違いなく死ぬ。だからわたしはあの力が少年を助けるために使われたと推察した。ところであなたに訊きたいことがあるんだけど、飛び降り自殺した少年は良い子だった?」
それでわたしにもようやく、イブさんがこの事件に足を突っ込んだ理由が分かった。
「虹髭が彼を助けたってこと?」
「可能性はある。だからわたしの術でちょこっと情報を頂戴したってわけ」
「なんとも便利な能力を持っているなあ」
「便利だから身につけたのよ。お陰で彼の入院している病院も分かったし、早速張りつくことにする。もしかすると今夜にも現れるかもしれない」
「するとキララ抜きってことか?」
「あの子は怒るでしょうけどね」
「言い訳くらいは考えておくよ」
「そうしてもらえると助かるかな」
イブさんは珍しく気弱そうなところを見せる。教導家の台所ではキララの手伝いをして楽しそうに食事を作っていたし、個人的に気に入っているのかもしれない。
イブさんが去っていくのを見守ってから少しして、急に眩暈のような脱力感を覚え、慌てて膝をつく。涙が僅かに零れ、これが安堵のためであると気付いた。
「良かった……良くないけど、良かった」
自殺するほどの苦しみはそのままだが、命は助かった。少しだけ救われた気持ちだった。
放課後になるとわたしはサオリのじっちゃんの見舞いに向かった。副業でどうしても外せない用事ができたとのことで、サオリに手を合わせられたからだ。
『虹髭退治には間に合わせるけど、面会時間にはちょっと間に合いそうになくて……』
わたしは快く引き受けると教導の社務所で数日分の着替えを用意してから病院に向かった。
サオリのじっちゃんは個室のベッドで横になり、ぼんやりと外を見ていた。わたしが入ってくると孫を見るような顔をして、いつもありがとなと殊勝なことを言われた。
「歳は取りたくないね。怪我の治りは遅いし、自分に憑いている怪異の正体すら分からない」
髪の毛は真っ白だが二十歳は若く見えるほどふさふさだし、血色も良い。喋りもしっかりとしており、入院生活で衰えている様子もあまりない。足のギブスは痛々しいが、リハビリすればまだまだ普通に歩けそうだ。
けど、確実に弱々しくなっている。入院する前のじっちゃんは九十近いというのに、今への興味を欠かさない人だった。キララとも話が合うし、伊東四朗よりもバイオが上手いと豪語していた。少し前には儂もネット配信者になりたいなどと口にしたけど、かなり本気の発言だったと思う。
少なくともぼんやりと時間を潰すような人ではなかった。
「この歳だし、恨みも随分と買ってるから憑り殺されても仕方ないとは思うよ。できればサオリが大人になるまでは生きていたいんだが」
「サオリやイブさんが手を尽くしていますから、きっと解決できますよ」
わたしがそう言って励ますとじっちゃんは苦笑いを浮かべた。
「彼女がまだわたしを慕ってくれているとは思わなかった。いい女なんだから儂より良い男なんていくらでも引っかけられるはずなのに」
「そういうのは理屈じゃないんですよ」
「まあ、そうだな。儂だってそうだったから」
教導神社を離れられなかったのは、理屈ではない何かがじっちゃんの心を突き動かしたからなんだろうか。
「あの神社はそこまで大切なものだったんですか?」
じっちゃんは少し考えてから、ゆっくりと口を開く。
「そういうことなんだろうな」
それから咀嚼するように何度も頷いた。
「沢山のものが燃えた。人も、そうでないものも、多くのものが失われた。この国は赤く赤く燃やし尽くされるものだと思っていた。だけどそうなる前に終戦した。国としての体裁は辛うじて保たれた。それはつまり失われたものが再び生まれるかもしれないということであり、全く新しいものの登場する未来が拓けたという話でもあった」
「そのための神社ってことですか?」
「信仰は古くから伝わるものばかりじゃない。時代に応じて新しく生みだされる。刹那で消費されるものもあればどうにかして根付くものもあり、どちらにしろそれらには依代が必要になる。不届きものが神社の空白を狙ってくることもあったが、そういうのにはお帰り願うか、話し合いで解決するかのどちらかだった」
「例えば大老のニコラスとか?」
「ああ、あれは実に難儀だったなあ」
サオリのじっちゃんがかつて戦ったサンタのことを口にすると、張りのある笑みを浮かべた。
「善人で信念のあるやつは厄介なのだと思い知らされた。今風に言うと秩序、善ってやつか。子供は大切で、どんな子供も愛され、祝福されるべきであると信じ切っていた。あれほど正しいやつもいないだろう」
だが、サオリのじっちゃんはその正しさを諫め、現在の形に丸めたのだ。
「巷を騒がせている虹髭の話はサオリから聞いているよ。儂が出るべき案件だが、この足ではちょっとな。ユウコくんには一般人だというのに迷惑をかけることになるが、できる範囲でサオリを支えてもらえると嬉しい」
「もちろんです。サオリは大切な友達ですから」
サオリのじっちゃんは嬉しそうに笑う。力強さに満ちており、冥いものに連れて行かれそうな弱さは見られなかった。
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