第三話 汝の隣人を愛せよ(2)

 五分のトレーニングに一分の休憩を一セット、合計五回で三十分。それだけで息も絶え絶え、汗がだらだら出て、体の節々がぎしぎしと痛む。教本やネットのトレーニングを三十分こなすのはさして苦ではないのだが、イブさんの指定したトレーニングは覿面に体を痛めつけてくる。

『ユウコの欠点は体が固いところだから、まずはそこを徹底的に矯正しましょう』

 弟子入り初日にイブさんが実演してくれたのはボクササイズとヨガを混ぜたような全身運動で、彼女は難なくこなしていたが、わたしが実際にやってみるとすぐに限界が来た。疲れて動けないと目で訴えるも、イブさんは高タンパクの菓子とアミノ酸飲料を半ば無理矢理流し込み、容赦なく続きを促した。

 体がへとへとになってようやくスパーリングの相手になってくれたのだが、疲れで体が満足に動かないし、おそらく五体万全でも敵わなかっただろう。細くしなやかな体だというのにどこを打っても蹴っても重たいサンドバッグのようでびくともしない。攻撃に転じればどのように回避しても打たれるし、防いだら軽く投げ飛ばされ、あるいは転ばされる。本当に手も足も出なかった。

『筋の良い若者を鍛えるのはいつの時代でも気持ちが良いわね』

 嫌味にしか聞こえなかったが、イブさんは割と本気で褒めてくれたらしい。最後に鍛錬を欠かさないようにと言い残し、涼しい顔でどこかに出かけて行った。

『いつの時代って……わたしよりいくつか年上なだけだよな?』

 それでようやくイブさんの素性を察して、サオリに聞いてみたら『そう、あいつは天狗よ』と、あっさりネタばらしされた。

 イブさんの稽古についていったらいつかは牛若丸みたいになれるのかもしれない。そう考えるとこれからも頑張ろうという気持ちになれた。

「そのためにはまず、この鈍な体をなんとかしないとな」

 気持ちが逸るも足に力が入らず、無様に尻餅をつく。夜不可視の活動もあるし、今日はこれくらいにしておくことにした。

 豆乳で溶いたプロテインを喉に流し込み、一息ついたところでチャイムが鳴る。宅配便かなと思いながらモニターを見ると、隣の住人が映っていた。

 大急ぎで汗を拭い、ドアを開けるとその子、キョウイチくんはわたしの体を控えめに見回し、ほっと息をついた。

「いくらお隣さんとはいえ、その態度はちょっと不躾かな」

「あ、すみません。その……ごめんなさい」

 キョウイチくんは顔を赤くしながら俯き、おそるおそる顔をあげる。

「大きな音がしたものだから、その……昼間だから違うと思ったんですが」

 遠慮するような言い方、先程の態度で彼が何を心配しているかが分かった。

「父は今日も遅くなると思うよ。気を遣わせて悪いね」

「いえ、悪いのは僕です。だって、何が起きてるか分かってるのに知らんぷりで……」

 キョウイチくんはうちで起きている暴力が心配で様子を見に来てくれたのだ。

「でも、今日は駆けつけてくれた」

 励ますように微笑むと、キョウイチくんは大きく首を横に振った。

「いつもと違うから心配になっただけで、父や母には本当は駄目だと言われてて」

「他の家の問題に首を突っ込むなってこと?」

「いえ、向坂部長は偉い人だからって」

 その一言でわたしは事情を察した。

 父は次期役員候補と目されるほどで、本来なら社員寮に住むような立場ではない。実際に五年前までは数駅離れた所にある一軒家に、わたしと母と三人で暮らしていた。

 いまここに住んでいるのは、母と酷い破局を迎えたからだ。父は思い出の残る一軒家を売り払い、事情を知った会社の偉い人が同情して、家族向けの社員寮に移り住んだ。

 そこまでの配慮を受けるほど優秀な人なのだ。家庭内暴力の話は会社にも届いているはずだが、注意を受けている様子はない。子供の権利とよく言われるけれど、故あれば子供はいくらでも蔑ろにされる。

「わたしは平気だよ。いや、あと一年三ヶ月を生き延びる自信があると言うべきかな」

「戦場にいるみたいなことを言うんですね」

「かもしれない。ずっとそうだから、色々麻痺してるのかも」

 平和な国でのちょっとした暴力でもそうなのだから、実際の戦争ではありとあらゆる心身の苦痛が行き交うのだろう。イブさんの言う通り、わたしはそんなに運が悪いほうじゃないのだ。

 キョウイチくんは再び俯いていたが、少しして今度はさっと顔をあげる。その目には何らかの決意が宿っているように見えた。

「実は、相談に乗ってもらいたいことがあるんです」

「相談ねえ。後輩の悩みにきちんとした答えを返せるほど、頭が良いわけじゃないよ」

「聞いてくれるだけで良いんです。答えは僕が出します。ただ、誰かに聞いてもらいたくて。一人で悶々としているだけなのが本当に辛くて……」

 キョウイチくんは悩みを内に溜め込むタイプらしい。そうだろうとは思っていたけど。

「予定があるから長くは聞いてあげられないよ」

「そんなに時間はかからないと思います。辛いことを抱えているのに僕の悩みを聞かせるなんて良くないと分かってはいるんですが」

「それなら問題ない、壁役なら慣れてるから」

 喧嘩にうつつを抜かすようなやつらはみな、何かしらの悩みを抱えている。そうしたことは弱いものから強いものに語られがちで、だからわたしは色々な話を聞く立場にあった。

「中に入って。誰かに聞かれたい話じゃないんだろ?」

 キョウイチくんは少し迷ってから、おじゃましますと丁寧に頭を下げて中に入る。

 四つ下とはいえ、親のいない家に男をあげるのはまずいかなと少し思ったが、ざっと観察したところ荒事に慣れている様子はない。何かしてきてもどうとでもなるだろうと結論づけた。

 ダイニングの椅子に座らせ、麦茶を出す。キョウイチくんは何口か飲んだあと、何度か深呼吸して、それからぽつぽつと話し始めた。

「そのですね、いつも一緒に行動してる二人がいるんです」

 彼が言っているのは寮の六階に住んでいるナツキちゃん、四階に住んでいるタカシくんのことだろう。キョウイチくんと三人でいるところをわたしもよく見かける。

「僕、その……好きな人がいるんです」

 二つの話は一見すると繋がらないように思えたが、すぐに状況を察した。

「もう一人のほうも同じ人が好きで、二人はよく楽しそうに話してるんです」

 わたしは重々しく頷く。理解しているから先を話して欲しいという合図だった。

「その様子を見ていると胸が苦しいことに最近気付いたんです」

 次の言葉を口にするのに、それから三十秒ほどかかった。

「ぼくは気付くのが遅かったほうだから、気持ちを告げる権利なんてないんです。でも、想いは募る一方で、何か言わずには耐えられそうになくて。でも仲の良い三人組という関係を壊したくない。二人が幸せになって、僕だけ我慢していれば全てが丸く収まりますよね?」

 わたしは何も答えなかった。本当は我慢して良くなることなんてあまりない、わたしがその好例だと言ってやりたかったが、これはキョウイチくん自身が答えを出さなければいけない問題ということもよく理解していた。

 沈黙は数分続き、キョウイチくんはゆっくりと立ち上がる。

「話を聞いてくれて、ありがとうございます」

 それから深々と礼をする。わたしは玄関までキョウイチくんを見送り、ドアを閉めると大きく息をつく。彼は本当に良い子だ。願わくばできるだけ幸せな結末が訪れますように。

 コップを片付けるとウェアや下着を洗濯機にかけ、汗を流すためにシャワーを浴びる。髪と体を乾かし、よそ行きの服に着替えるとちょうど良い時間だった。

 最後に乾燥の終わった服を畳んでタンスに入れ、ウェストバッグを身に着けて家を出る。商店街は既にクリスマス一色、二十四日になれば店員やバイトがサンタに扮するのだろう。

 多くの人にとっての楽しみが近付いている。けど、わたしにとっては何もないただの一日に過ぎない。



 サオリの家で騒がしく夕食をいただき、キララの宿題に付き合い、二時間はあっという間に過ぎていった。本来なら作戦会議は家の中でする予定だったが、道すがら情報交換することになった。キララの計画が予定通りにいかないのはいつものことなのだが。

「行ってらっしゃい、日が変わるまでには戻ってくるのよ」

 イブさんはまるでわたしたちの母親のように振る舞い、朗らかな笑みを浮かべる。キララは無邪気に返していたが、わたしとサオリは若干渋い顔だった。さもありなん。

「最初はなんか怖そうだなと思っていましたが、人を第一印象で判断してはダメですね」

 その印象は正しいと言いたかったが、説明できないことなので黙っておいた。オカルトや怪奇現象好きなキララのことだから、正体は天狗と知っても普通に仲良くしそうだが。

「さて、虹髭の情報ですがあれからもう少し調べてみまして。実はうちの高校でも一人、目撃してたみたいなんですよね」

「へえ、どんな人だったの。サンタにプレゼントをもらうんだから良い子だったり?」

「おっ、なかなか冴えてますね」

 なんとなくの思いつきだったが、今回はたまたま当を得ていたらしい。

「品行方正、成績優秀。裏がないか調べてみましたが、今どき珍しいくらい擦れたところのない方でした。で、気になって目撃証言をしてた人たちの発言を軽く追跡してみたんですが、似たような傾向がありました」

「発言を追跡ってそんなことできるの?」

「特別な技術は必要ありません。発言者が使用しているSNSやマイクロブログから過去の発言を見れば良いだけですよ。最新の発言を五十個くらい辿ればネット上でどのような人格を演じているのかが大体分かります」

「なんだか読心術みたいだな」

「わたしの場合、そこまでのものじゃないですね。この人は他人をよく褒める、この人は他人を見下している、みたいなことが大雑把に分かるだけですし、現実の性格がどうかまでは読めません。ネット上の発言を見た限りだと虹髭の遭遇者はみな、人を傷つけないような発言を心がけていました。子供というのは演技に地が滲みがちですから、大人より妥当性が高いかもですね」

 キララはネットの発言を使った分析を楽しそうに話している。同世代だが、わたしにはキララのようには無邪気になれそうになかった。

「キララにとって、わたしは分かりやすい人間かな?」

「うーん、分かりやすいところと分かりにくいところが極端ですね。陰影が深いと言うべきか。付き合いが短いのもありますが、ユウコ先輩は自分の心を隠すのに長けています。可愛い後輩にはもっと胸襟を開いて欲しいものですが」

「善処するよ」

 軽く言いながら心の中ではほっとしていた。わたしの冥さをあまり人には知られたくないから。

「ちなみにサオリ先輩の考えていることはまるで分かりません」

「そうかな、なんとなく伝わってくるものはあるけど」

「それはユウコ先輩の独特なコミュニケーション能力の賜物かと」

「こら、人を珍獣みたいに言わない」

 サオリの不機嫌そうな態度に、わたしとキララは揃って笑う。三人で夜回りに出るたび思うことだが、キララやサオリとはとても馬が合う。気味が悪いのは苦手なのにいつも夜不可視の活動に付き合うのは恐怖と対峙して心を整理するという本来の目的もあるけれど、わたしにつきまとう冥さを二人といる時だけはほんの少しでも忘れられるから、というのも大きい。

「ユウコ先輩のネットワークだと、虹髭の噂ってどんな感じですか?」

「目撃証言なし、これも良い子の所だけに出没するという説を補強することになるかな?」

 わたしのネットワークは喧嘩仲間を中心に広がっている。根は悪くないやつも結構多いが、喧嘩に勤しむような子供を良い子とはあまり言えないだろう。

「となると夜回りをするより、良い子を探してその家の前で見張るほうが効率良いですかね?」

 キララの提案にキョウイチくんの顔がふと浮かぶ。彼は文句なしに良い子だが、そのことは口にしなかった。ずっと心の中に溜め込んでいる問題を解決するため、今も一人で悩んでいるかもしれない。そんな彼のことを万が一にでも邪魔したくなかった。

 サオリにもキララにも良い子のあてはないようで、それなら仕方ないと夜回りに出かける。気乗りしなさそうなサオリの表情を見て、今日の夜回りは空振りになりそうだなと思った。

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