間話 恋する天狗と悩める巫女

 サオリは神社の片隅にあるプレハブ小屋に戻ると手にした天邪鬼を床に叩きつけ、ぐりぐりと踏みつける。

「さて、何か話すことはある?」

 天邪鬼はそっぽをむこうとしたが、より強く踏みつけられて情けない声をあげる羽目になった。

「妖怪には学校も試験も黙秘権もない」

「いてて、分かった分かった。素直になるから」

 サオリの剣幕に、天邪鬼は身動きの取れない体を僅かに震わせる。

「天邪鬼の素直なんて信用ならない。問われたことに答えるだけのマシーンになりなさい」

「なんてやつだ、お前のおじいちゃんはもう少し手加減してくれたもんだが。わたしよりお前のほうがよほど鬼じゃないか」

「友達を狙われてへらへらできるほどお人好しじゃない。で、誰に頼まれたの?」

「何のことか分からない、と言ったら痛い目に遭うよな」

 サオリは是非を答えず、天邪鬼をじっと睨みつける。それでいよいよ観念したようだった。

「おじいちゃんをかどわかして怪我をさせたやつ?」

 サオリの祖父は九十近いがあと三十年は生きるんじゃないかと思うくらいに頑健で、痴呆の兆候はなかったし、病院の中を何かに誘われるようにふらふら歩いていたという証言もある。

 そんな折、自分を祖父から遠ざけるような問題が発生したのだから、関連性を疑わないわけにはいかなかった。

「だとしたら話は簡単なんだが」

「その言いぶりだと違うの?」

 天邪鬼は小さく頷く。故あらば人を騙そうとするいつもの所作はなく、本気で困惑しているように見えた。

「依頼を受けたのは認める。目的はお前をあのジジ……もといおじいちゃんから引き離すこと。寿命でくたばる前になんとしても自分の手でケリをつけたいとのことだった。そのためには幼くも腕の立つあの退魔師を引き離さなくてはならない」

 サオリは思わずこめかみを揉みほぐす。祖父は少し前まで妖怪退治や除霊を生業としていたため、その手の敵はあまりに多い。隠居を老いと見て積年の恨みを晴らすことは十分に考えられた。

「依頼主はどんなやつ?」

「天狗だ、しかもかなりの大物」

 天狗の大物と聞いてサオリは目を細める。一つ心当たりがあったからだ。

「そいつ、もしかして夷伏丸と名乗ってなかった?」

「なんだ、知ってたのか」

 天邪鬼はつまらなさそうに呟く。サオリはかつて祖父が語ってくれた昔話を思い出していた。

『若い頃にとびきり美しく、強い天狗と戦ったことがある。その時は運も味方して、辛うじて勝つことができたんだがね』

 夷伏丸の勇猛華麗さを語る祖父はとても楽しそうであり、堂々たる火術を始めとした妖技ようぎの数々はその巧みな表現によってどれも目に浮かぶかのようだった。

『その美しさにあてられ求婚したこともあるが、大人しくさらわれない男を伴侶にするものかと袖にされてしまった。山まで追いかけることも考えたが、神社から離れるわけにもいかず、未練をすっぱり断ち切るよりほかなかった』

 祖父にとっては若い頃の遠い思い出だが、天狗にとって数十年など風が吹き抜ける程度の短さに過ぎないのだろう。しかも去り際の言葉からして未練がアケビのように連なっていることは明らかだった。

 今度こそ祖父を倒し、山に連れ去るつもりなのだ。それはそれで厄介だが、巧みに拐かして怪我をさせるやり口とは一致しない。

 祖父を脅かしたのは別の何かだ。

 サオリはそう結論づけると、天邪鬼の拘束を解く。こいつから聞き出せることはなく、だとしたらさっさと追い出すのが得策だと考えたからだ。

 しかし、天邪鬼は動こうとしなかった。

「どうして出て行かないの?」

「それはきっと、わたしが来たからね」

 背後から声がして、慌てて振り向く。そこにはスーツに身を包んだ女が立っていた。ユウコよりも背が高く、自然とこちらを見下ろす仕草と笑顔が様になっている。人など見下ろし慣れたとでも言わんばかりだ。

 サオリは思わず息を飲む。目の前の女は相対しているだけで気圧されそうな存在感を無造作に放っていた。

 今の自分では到底敵わない相手だとサオリは直感する。手合わせするまでもなく、ひしひしと伝わってきた。

「あんたがこいつに悪戯を頼んだの?」

「そうよ。でもさ、花婿様が怪我をしたと分かった時に契約はなしって話をしたのよね。なーんで仕事を続けちゃったかなあ?」

 どういうことかと問わんばかりに睨みつけると天邪鬼は部屋の隅でヘラッと笑う。

「まあ、そういう性分よね。わかるわかる。だからわたしは許そう、でもそこのおっかない巫女が許すかしら?」

「……とっとと去ね」

 本当はぎったんばったんに踏みつけてやりたかったが、目の前に災害のような女がいる。かまけている余裕など一寸もなかった。

 ドタバタと逃げ出していく天邪鬼を目で追うことさえしなかった。サオリの視線と心はスーツ姿の女にぴたりと寄せられる。

「あら、意外と寛容じゃない。容赦ないって聞いてたんだけど」

「面倒なことはしたくないだけ。ところであなたは夷伏丸で良いの?」

「ええ、合っていますわ。お義母様と呼んでくださっても構わないのだけど」

 歴史のある天狗だと分かっているのだが、妙に気さくで調子が狂う。しかも祖父を花婿様と呼ぶし、自分に義母と呼ばせようとする。それがサオリにはなんとしても祖父を攫おうとする気概に思えてならなかった。

「祖父を攫いに来たなら今は調子が悪い。とっとと自分の山に帰れ」

「あら、大したご挨拶だこと。残念ながらそうも行かなくてね。花婿様を泥棒猫から護る必要があるの」

「泥棒猫? そいつがおじいちゃんに怪我をさせたやつ? 正体を知ってるの?」

 だとしたらとっとと退治するべきだったが、夷伏丸はそっけなく首を横に振る。

「嘘ついてるんじゃないの? おじいちゃんを助ける代価として山に連れて行くつもり?」

「見くびられたものね。わたしは正々堂々と戦って勝利し、花婿様を山にお連れするの」

 夷伏丸はまるで乙女のように瞳を輝かせる。一途な恋心と戦闘狂の側面を併せ持つ、災害のような怪物に気に入られるなんて難儀なものだと、サオリは祖父に同情せざるを得なかった。

「そして恋路の邪魔をするものは荒馬のように蹴飛ばしてやりたいのだけど、追い詰めようとしたら煙のように消えてしまったの」

「追い詰める……もしかしておじいちゃんが病院を抜け出そうとした時のこと?」

「ええ、いきなりお見舞いに行ってびっくりさせるつもりだったけど、病室を窓から覗いてみたら怪我をしているとは思えない足取りで外に出ていくのよ。変なオーラを身にまとってたし、操られてる感じだし、なんかやばいのが憑いてると思ったわけ」

「ふわっふわな説明をされても困るんだけど」

「だって相手の正体が掴めなかったんだもの。分かることと言えば怖気が走るくらいの憎悪と、異質な存在感だけ」

「天狗のあんたでも分からないの?」

「ええ、一つだけはっきりしてるのは、あれに憑かれている限り花婿様を山に連れ帰るわけにはいかないということ。どんな影響があるか分かったものじゃないから」

「この街なら問題ないの?」

「あるに決まってる。あれはどこにいても厄をまき散らす可能性が高い」

「つまり、いつ破裂するか分からない不発弾を、分かっていながら見過ごすことしかできないと?」

「当面はそう。もちろん何もしないわけじゃない。どれだけ効き目があるかは分からないけど、悪意を退ける守りは既に施してあるし、何としても正体を突き止める。わたしの花婿様を奪おうとする泥棒猫に報いを受けてもらわなくちゃ」

 ぎらぎらとした殺気を放つ夷伏丸を前にして、サオリは気圧されずに立っているだけで精一杯だった。祖父は過去にどうやって、この剣呑極まりない天狗を退けたのか。そんな天狗でさえ正体不明、異質と断じたいかなるものが祖父に憑いたのか。

 分からないことだらけだが、そいつを何とかしなければ祖父だけでなく、より大きな被害が降りかかる可能性は高そうだった。

 自分の力だけでは到底無理だ。祖父を連れ去る気満々なやつだが、夷伏丸にも協力を仰ぐ必要がある。

「そんなわけで、今日からお世話になるわね」

 どうやって説得するべきかを考える間もなく、夷伏丸はさらっとそんなことを口にしてサオリを唖然とさせた。

「人間としての身分は持ってるけど、賃貸契約はいちいち面倒だしね」

「うちを宿坊か何かと勘違いしてない?」

 協力してくれるにしてもあまりに図々しく、サオリは思わず指摘せざるを得なかったが、夷伏丸は実に堂々としており、まるで悪びれるところがなかった。

「ここはあらゆるものが自由に羽根を休めて良い場所よ。それに今、ここを空っぽにしておくのは良くないしね」

「それはどういうこと?」

「空っぽの神社なんて異端そのものであり、今まで存在が許されてきたのは花婿様の類稀なる力と人徳のお陰よ。要たる存在の留守は有象無象が確固たる神格として収まる絶好の機会に他ならない」

「あなたが睨みを利かせてくれるということ?」

「ええ、それだけでなく半人前未満のあなたをひよっこくらいには鍛え上げてあげる。どうかしら?」

 天狗に限らず力のある妖怪に稽古をつけてもらえればそれだけで箔がつく。その効果は古来より、人ならざるものが育てた人間の名を残す活躍ぶりからも明白だ。この現代において得難い加護と言える。

「祖父の問題が解決したら、あなたを有害な妖怪として全力で追い払いにかかるつもりだけど」

「もちろん構わないわ。恋に障害は多ければ多いほど燃え上がるというものだから」

 この恋愛脳めと返したくなる気持ちを抑え、サオリは仕方なしとばかりに頷く。

「自分のことは全て自分でやって頂戴」

「それは道理ね。この五十年、一日も欠かすことのなかった花嫁修業の成果を見せてあげましょう」

「……やっぱ良い、人を雇うことにする」

 サオリは慌てて前言を撤回する。目の前の恋愛脳天狗に任せたら酷いことになるという予感を覚えたからだ。

「あらそう、それは残念」

 悲しげな顔を浮かべたのも一瞬のこと、夷伏丸はサオリに手を差し伸べる。少し迷ってからサオリは夷伏丸の手を取り、全力で握りしめたがびくともしない。

 祖父を守るためには正体不明の怪異を退け、そしてこの恋愛脳天狗を追い払う必要がある。

 正直なところできる自信はまるでなかったが、他の手段はどこにもない。

 だからどんなに困難な道でも進むしかなかった。

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