第二話 柔らかな牢獄(7)

 そんなわたしを阻むものがあった。サオリ先輩がこちらに向かってくるのだ。助けてくれるって話だったけど、もう家族の問題は解決した。だから出る幕はないって言わなくちゃいけない。

「キララ、どこに行くの?」

「あの、サオリ先輩、実は……」

 全てを言い切る前にサオリ先輩が信じられない速度で近づき、あっという間に目の前にいた。逃げなくちゃと考える間もなく、サオリ先輩は包帯が巻かれた手をわたしの肩の辺りに伸ばす。

 〇・一倍速で再生したような、低く鈍い呻き声がして、肩がすっと軽くなった。

「捕まえた。こいつが原因よ」

 サオリ先輩は手に掴んだものをわたしに見せる。それは両親の不仲を唆してきたあの日本人形もどきだった。

 先程までの破滅的な行動が思い出され、震えがはしる。わたしの顔はいま、かき氷のシロップより真っ青に違いなかった。

「先輩、その……父さんと母さん、どっちも家にいたんです。まだ帰ってこないはずだったのに……」

「嫌な予感がして急いで駆けつけたけど、正解だったみたい。その様子だと派手にやらかした?」

「酷いことになってて。その……」

「説明が必要か。家に上がるけど、良い?」

 辛うじて頷くとサオリ先輩は日本人形もどきを手にしたまま家に上がる。わたしも後を追い、二度と戻らないと言ったばかりの我が家に戻る。

 父も母も青を通り越して真っ白に近い顔色だった。わたし以上に混乱し、言葉もないことがその様子から察せられた。

 サオリ先輩は日本人形もどきを床に叩きつけ、思い切り踏みつける。するとそれまでじたばたしていたのが嘘のように動かなくなった。憎々しげな様子でサオリ先輩を睨みつけようとしたが、頭を踏まれているのでそれすらも叶わなかった。

 両親に見られていることに気付き、サオリ先輩は日本人形もどきを踏んだままで会釈した。

「おじゃまします」

「ああ、うん、その……サオリさんだったよね。モトコのお友達の」

 父の言葉にサオリ先輩は頷き、目でわたしを指す。

「キラ……モトコに頼まれてこの家に憑いているものを祓いに来ました。もう終わりましたが」

 わたしといる時はぶっきらぼうなのに、今は普通に喋っている。両親の前だからだろうか。普段からそういう風に喋ってくれればいちいち解釈する手間が減るのに。

「憑いている……祓う……とはいったい?」

 父の問いかけはもっともだと思う。わたしだっていきなりそんなこと言われたら同じことを訊いたに違いない。

「言葉通りです。アニメや漫画などに詳しいとうかがっていますが」

「でも、妖怪や霊はあくまでも架空の存在であって……」

「それでしたら今日が初遭遇になります。現代では大半の人間が一生遭遇しないで生を終えますから、不運だったと言うべきでしょう」

 サオリ先輩が更に力を込めると日本人形もどきは苦しそうにもがき、わたしや両親に慈悲を訴える。目を潤ませた様は不気味だが妙な愛嬌があって、家庭を無茶苦茶にしたのに少しだけ可哀想に思えてきた。

「そいつのせいでわたしは……その、らしくないことを考えてしまったのでしょうか?」

 母が縋るような問いを投げかけると、日本人形もどきが涙を消してにいっと笑った。

「いいや、違うね。ほんの少しでも考えていたからこそ、わたしの力が効いてぐえっ!」

 サオリ先輩がぺしゃんこになりそうな勢いで踏みつけ、日本人形もどきの声が途中で止まる。

「このように人心をかき乱すのが好きなやつなのです。こいつに憑かれたらいざという時に思っていることと逆のこと、捻くれたこと、思ってもみないことが次々と浮かんできて止まらなくなる。天邪鬼あまのじゃくと言えば分かるのではないでしょうか」

 天邪鬼といえば捻くれ者の代名詞にして知名度が非常に高い妖怪だ。父も母もすぐに合点がいったらしく、足蹴にされた日本人形もどき=天邪鬼にじっと視線を寄せる。

「おいこら、なに見てんだよ。見世物じゃねぷぎゅっ」

「これ以上調子に乗ったら仏様に突き出す。嫌なら黙って踏まれていること」

 サオリ先輩の淡々とした警告に天邪鬼は憎々しげな顔をしたが効果はなく、不満そうに頬を膨らませる。どうやら不貞腐れたらしい。

「失礼しました。こんなやつですが落ちぶれても神の端くれ、伝染病のように偽心を伝わらせることができます。こうやって踏みつけることで力を発揮できなくなりますが、逆に言うと他に弱点らしい弱点もない。しかもどれだけ痛い目に遭ってもまた同じことを繰り返す。逃げ足も早いし、意外かと思えるかもしれませんが、普通に戦ってもかなり強い。今回首尾良く捕まえることができたのは僥倖ぎょうこうと言うべきでしょう」

 サオリ先輩は天邪鬼をかなり高く評価している様子だった。天邪鬼もそのことを察したのか、頬の膨らみが少しだけ引っ込んだ。

「こいつはわたしが連れ帰りますので安心してください」

 サオリ先輩は足を離すと同時に素早く首根っこを掴む。天邪鬼は再びじたばたし始めるが、今度も逃げ出すことはできなかった。

「胸の中に抱えているものがあるはずですし、部外者がいては気まずいでしょうから、わたしはこれでお暇します」

 そう言うとサオリ先輩はわたしに向けて迫力のある笑みを浮かべる。

「モトコ、あなたは事の顛末を一から正直に話す必要がある。嘘偽りのないように」

 両親にはサオリ先輩が華々しく見えただろう。でもわたしは虎に睨まれたかのようだった。正直に話さず誤魔化したりすれば、すぐに見抜かれて説教されるに違いない。

「あの、サオリさん。実を言うとまだ狐につままれたような思いなのですが」

 この場を後にしようとするサオリ先輩に父が声をかけ、深々と頭を下げる。

「わたしたちを助けてくださったのは確かなようだ。ありがとうございます」

 それでずっとぼんやりしていた母もはっと我に返り、父に続いて頭を下げる。

「友人が困っているから手を差し伸べただけのことです。お気になさらず」

 嵐は去り、家族三人だけが残される。これからは後片付けの時間だった。

「お茶を淹れてくる。少し長い話になりそうだし」

「わたしがやるよ。母さんは傷の手当てを」

 父と母が少しだけ時間をくれたので、三人分のお茶が揃うまでに心の準備を整えることができた。

 わたしは天邪鬼に両親の不仲を望んだこと、その動機は両親の仲が良くて多数決でいつも負けてしまうからだと、率直に伝えた。性生活のこと、作品の趣味が決定的に合わないことは二人を傷つけそうなので言わなかったが、それだけで二人はわたしの疎外感を少しは理解してくれた。

「悪いのはわたしだし、やっぱりお前みたいな子は出ていけと言われたら仕方がないことかなって思うんだけど」

「そんなこと、思うはずがない」

 母は慌てて否定し、父が大きく頷く。

「天邪鬼のせいとはいえ、どうしてあんなことを口にしたのか。縁を切ったつもりだったけど、やっぱり……」

 母が包帯の上から腕を掻こうとして、父はその手をそっと掴む。

「わたしもあの人たちと同じ血を……」

「引いていたとしても性格を引き継ぐことはない。それはわたしが一番良く知っているよ」

 今まで仲の良い二人しか知らなかったけれど、それ以外の、しかもかなり深い事情があるのだということが言葉の端々から伝わってきた。

「不安が押し寄せると肌を掻きたくなるの。結婚してからはずっと収まっていたんだけど……」

 母はぽつりと呟き、頬のガーゼに手を添えてそっと撫でる。それでわたしは大きな誤解をしていたと気付いた。

「顔の傷も同じように引っ掻いたの?」

「ええ、父さんが止めてくれたから大した傷にはならなかったけど、揉み合ったときに怪我させてしまって」

「こんなのは怪我のうちには入らないよ」

 そして父は指に絆創膏が貼られたほうの手を軽く振る。手の甲の上についた傷がそのままなのは、こんなもの気にする必要もないと示しているのだろう。

 わたしは思わず脱力して崩れ落ちそうになった。どれだけ不仲になっても暴力沙汰だけは起きていないと分かったからだ。天邪鬼に影響されていても、その一線だけは超えなかった。それどころか不仲になっていてもなお、互いを気遣える関係なのだ。そんな二人を仲違いさせようとしただなんて。

「母さんの自傷癖は家庭の問題が原因でね。この場では詳しく話さないけど、ほとんど逃げるようにして都会に出てきたんだ。わたしも母さんほど酷くないけど似たようなものでね、だからこれまで親戚参りや実家への帰省を一度もしたことがなかった」

 確かにわたしは父と母以外の大人からお年玉をもらったことがない。子供の頃、親戚が多くてお年玉を一杯貰えているクラスメイトの話をして、羨ましいとこぼしたことがあるけど、きっと気まずい思いをさせたんだろう。

「だからわたしと母さんで作る家は楽しいことばかりの、喧嘩も諍いもない場所にしようと誓い合ったし、上手くいっていると思っていた。まさか娘にそこまで気を使わせているとは……」

「ううん、大したことじゃないよ。欲しい物はいつも買ってくれるし、お小遣いにも満足してる。配信もやらせてくれるし、夜の外出にも目くじらを立てなかったし」

 最初は反対されたけど、サオリ先輩という熊でも殺せそうにない人を仲間に引き入れることでなんとか許可を得られたのだ。とはいえ寛容であることに変わりはない。

「わたしも母さんも家族に遠慮するばかりの日々を過ごしてきた。他で不満がなくても、モトコが家庭の中に居心地の悪さを覚えていたとしたら何の意味もない」

 そんなこと言われると逆に恐縮しそうだけど、母も父も至って真面目だった。少なくとも二人にとって、我慢しなくて良い家庭は本当に大事なものなんだ。

「だからね、辛いことや嫌なことがあったら遠慮なく言ってくれて良いの」

 母の言葉でわたしの不満が頭の中に溢れる。

 リビングでするのはやめて。

 三人で一緒に作品を観る日をやめたい。続けるなら恋愛ドラマや和製ホラーも上映して欲しい。

 苗字が似てるからって娘に攻殻機動隊の主人公と同じ名前をつけるのは酷いと思う。

 他にも細かい不満がいくつかあったけど、全て口にしなかった。遠慮なくと言われたけど、それらを容赦なくぶつけて今までより良い関係が築けるとは思えない。だから少しだけ我侭が通るようになっただけで良しとすることにした。

 それにわたしが悪かったことはどうやっても覆らない。そう心の中で付け加えると、両親を満足させるためのささやかな望みを口にした。

「じゃあ、一つだけお願いするね。朝ごはんはパンよりご飯のほうが良いなって前から思ってたの。だから、週に二回は和食の日にして」

 二人とも何だそんなことかと言いたげな顔をする。こんなの当然ながら嘘なんだけど。

 今日のやり取りで分かったことがある。この家は父と母が過去の苦しみから抜け出すためのものであり、わたしはあくまでもおまけなんだ。二人とも全力で否定するだろうけど、それでも違いない。

 いずれ傷が癒え、わたしも家族になれるかもしれない。でもそれは今ではないし、わたしがこの家にいるうちにその機会は訪れないだろう。

 わたしにできるのは些細な不満という嘘を時折口にし、父と母を安心させることだ。娘はきちんと不満を打ち明けてくれる、だから良い親であり、良い家庭なのだと信じてもらう。

 それがこれまでなに不自由なく育ててくれた両親への、ささやかな恩返しになる。

 父の退職に話が移り、真剣な二人をよそにわたしはそんなことをぼんやりと考えていた。



 家族会議と夕食が終わり、サオリ先輩に全てが丸く収まったことを連絡すると、すぐに返信があった。

《それは良かった、天邪鬼の力は尾を引くから。実は退治よりもアフターケアのほうが面倒だったりする》

《うへー、ほんと厄介なのに目をつけられたんですね》

《古くから伝わり続けるのにはそれなりの理由がある。明確な弱点があるからまだ御しやすいんだけど》

《踏んづける、でしたよね。仏様に踏まれたのがトラウマだったりするんでしょうか?》

《現代風に言えばそう。弱点属性とも表現できるかな。だから人ならざるものに出くわしたとき、いち早く正体を見抜くのが大事になる》

 わたしの知る限り、サオリ先輩は霊でも妖怪でも神でも容赦なく格闘戦で追い払っていたのだが指摘しないでおいた。わたしには違いの分からないことを細々と説明されそうだったから。

《で、天邪鬼はどうなったんですか?》

《お仕置き、説教、いくつかの尋問ののち釈放した》

《釈放? あんなのを世に放って大丈夫なんですか?》

《大丈夫なわけがない。おじいちゃんはあいつを少なくとも十回は退治してる。でも、どれだけ力を削いでもいずれ元に戻るし、厳重にふん縛っても封印してもすぐに抜け出されてしまう。全てが無駄だから力を削いで放流し、力を取り戻して悪さを始めたらまた叩くの繰り返し》

《いたちごっこですね。でも十回も退治されるなんて、ずっとこの辺りで活動してるんですか?》

《そう。ここから離れて別の土地に行けば、もっと好き勝手暴れられるのに》

 なるほど、わざわざ狙われるために悪戯するのか。今回わたしが標的だったのも、サオリ先輩やじっちゃんを引きずり出すためだったのだ。

《なんとも捻くれてますね》

《捻くれ者は世に絶えない。だから天邪鬼が力を失うこともない》

 そう締め括ると、サオリ先輩は続けてメッセージを送ってくる。

《ところで家事手伝いの件だけど、明日から早速お願いしても良い?》

《もちろん大丈夫です、任せてください》

《任せたついでなんだけど、冬の間ずっとでも良い?》

《ええ、帰宅部ですから。じっちゃんの入院、長引きそうなんですか?》

《それもあるけど、まあ色々と》

 サオリ先輩は謎大き人であり、わたしの知らない秘密が沢山ある。

 そのうちのどれが関わることかは分からないけど、わたしに言えるのは一つだけだった。

《夜不可視の活動も忘れないでくださいね》

 取り止めもない夜の肝試し、人智を超えた不可思議を探しに行く三人だけの活動。わたしとサオリ先輩とユウコ先輩を結びつけるもの。人ならざるものに痛い目に遭わされたけど、それはそれ、これはこれ。わたしのオカルト趣味はこの程度では消えてなくならないのだった。

《次のテーマ、考えておきます》

 サオリ先輩は少し間を置いてから、

《了解、楽しみにしてる》

 と返してくれた。



   柔らかな牢獄 終

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