第二話 柔らかな牢獄(6)
先輩たちの教室に顔を出したが、サオリ先輩もユウコ先輩もいない。途方に暮れていると隅のほうで本を読んでいたクラスの人がのそりと近付いてくる。先輩たちのクラスメイトにして文芸部の現部長、キョウカ先輩だ。
教室にいる時はいつも無表情なのだけど、今日は珍しく親しみのある、わたしが文芸部モードと呼ぶ表情になっていた。
「あの二人を探してるの?」
「ええ、その……相談したいことがありまして」
「サオリはまだ来てない。ユウコは先生に呼び出された」
「ユウコ先輩が?」
どうしてと口にしかけ、慌てて閉じる。ユウコ先輩が先生に呼び出されたのだとしたら理由は一つしか考えられない。
慌てて職員室に向かう途中でユウコ先輩と鉢合わせする。頬には痛々しい傷跡があり、ユウコ先輩はそれを隠そうとしていなかった。
「おや、そんなに急いでどうしたんだ?」
「先輩が先生に呼び出されたと聞いて」
「そっか、心配かけたな。わたしなら大丈夫、今の担任は家の事情を知ってるから。別の先生が派手に騒ぎ立てて、説明しなくちゃいけなくなったんだ」
気まずそうな笑みを浮かべるユウコ先輩を、わたしはじっと観察する。頬だけでなく、服で隠せない場所にもいくつか傷があった。
強者と戦ってついた傷の可能性もあるけど、だとしたらむしろ溌剌としているはずだ。へらへらと誤魔化すような諦めの笑みを浮かべているのだから、やはり犯人はあいつしかいない。
「場所を変えよう。話したいことがあるんだろ?」
今のユウコ先輩に家庭内暴力の話をするのは傷口に塩をすり込むようなものだ。でも、他に頼れる人がいなかった。ヒナタやヒカゲならきっといくらでも慰めてくれるけど、おそらく何の解決にもならない。
そうと分かってなお迷っていたが、ユウコ先輩は待ってくれる様子がない。だから迷いを抱えたまま追いかけるしかなかった。
ユウコ先輩は校舎の外に出ると、取り壊しが決まっている倉庫の立入禁止ロープを躊躇いなく乗り越える。少し前の全校集会で危険だから近付かないようにと注意されていたが、わたしは迷わずユウコ先輩の後を追う。
誰も入らないのだから埃まみれなだけかと思いきや、地面を見ると新しめのパンの袋やペットボトルなどが無造作に転がっていて、規則破りが他にもいることをうかがわせた。
「こういう話をする時の定番って屋上なんだけどね」
うちの高校は屋上に運動場や花壇があり、朝から放課後まで休み時間は誰かしら人がいて内緒話をすることはできない。頬に傷を負った美人がいるなら尚更だ。
「ここなら後ろ暗いことを話すにもうってつけだろ?」
「わたし、話したいことなんて特にありません」
ユウコ先輩にじっと見られ、わたしは思ってもないことを口にする。
「特にってことは、普通に話したいことならあるんだ」
「普通もないです」
「じゃあ、わたしとは一言も口を聞きたくないんだ。それはちょっと悲しいかな」
「そういうことじゃなくて、大した悩みなんてないと言いますか……」
「大きくなくても悩みは悩みだよ。キララはそういうのを細かく吐き出すタイプだと思ってたけど」
「でも、ユウコ先輩のほうがずっと辛いじゃないですか。それやったの、あいつなんでしょ?」
「友人の父親をあいつ呼ばわりは良くないかな。まあ、慣れっこだよ。それよりもわたしは慣れてない辛さのほうが気がかりだ」
そう言って、ユウコ先輩はわたしの目をじっと見る。
「わたしの傷を見て遠慮するなら同じ悩みってことだ。家庭で何か問題が起きてるんだろ?」
そして懊悩の源をあっさりと見抜いてみせる。だから渋々頷くしかなかった。
「あの双子には話してないの?」
「二人は本気で怒ってくれると思います。でも他人の家のことだから何もできません。だから苦しさとやるせなさが募るだけです」
「分かる分かる。わたしもサオリやキララに家庭の事情を打ち明けるのは勇気が必要だったからね。明らかに自分より強いやつと殴り合うよりもよっぽど怖かった」
そんなにからっと言われたら思い悩んでいるのが馬鹿みたいだ。いや、今回ばかりは言い訳しようのない馬鹿をやらかしたし、手段を選んでいる場合ではない。それなのに素直に打ち明けようとすると、喉の奥がうっと詰まる。
「聞いたらわたしのこと、嫌いになるかもしれません」
辛うじて出てきた言葉をユウコ先輩は軽く笑い飛ばした。
「そんなの今更じゃない? 夜不可視の活動に散々巻き込んでおいて。わたし、こう見えても結構怖いもの苦手なんだけどな」
「本当に酷いことで、だからきっと一人で解決しないといけないんですよ」
思ってもいないことばかりが口から出てくる。おかしいと分かっているのにどうしても抗うことができない。きっとユウコ先輩はもどかしく感じているだろう。
それでも苛つくことなく、辛抱強い態度で宥めてくれる。だから助けを求めても構わないはずなのだ。
「わたしなんて助けなくて良いですよ」
目から涙がぼろぼろと零れる。助けて欲しいのに、そんなこと駄目だと心をひっくり返される。わたしはあの日本人形もどきに一体、何をされたんだろう。
ユウコ先輩はそんなわたしをそっと包み、人を殴り慣れた手で背中を擦ってくれた。それで心の頑なな部分がほんの僅かだけでも溶かされたのか、わたしはようやく事の顛末を話すことができた。
両親の仲が良過ぎるという悩みから生まれた邪な考え、そこにつけ込んで姿を現した日本人形もどき。そいつの予告通り両親が不仲になり、いよいよ家庭内暴力にまで発展したらしいこと。
そしてわたしも人形もどきに心をいじられている可能性が高いこと。
本当に最低限の途切れ途切れな告白だけで耐えきれなくなり、みっともなく大声をあげて泣いた。こんなに激しく泣いたのは小三の夏休みに猫の真似をして、塀の上を歩いていたら落っこちて骨折したとき以来だった。
ようやく気持ちが落ち着き、ユウコ先輩の腕からそっと離れるとスマホを見る。朝礼はとっくの昔に終わっており、一時間目も半ばだった。
「どうしよ、先生とかに連絡しないと」
「大丈夫、キョウカに頼んどいた。こんなことになりそうな気がしたからね」
ユウコ先輩の用意の良さにほっと息をつき、すると今度はしゃっくりが出始める。いつもならすぐに止められるのに、今日に限って何をやっても駄目だった。
「一時間目は休んだほうが良いね。ここなら誰も来ないだろうし、来たとしても知らんぷりしてくれる。それじゃ、わたしはこれからサオリの手伝いに行ってくる」
「そういえばサオリ先輩がいませんでしたね。じっちゃんの調子が悪いんですか?」
「ああ、悪い足で部屋をふらふらと抜け出してまた転んだらしい。もう片方の足も痛めたそうだ」
ユウコ先輩のやろうとしていることが分かり、わたしは慌てて声をあげた。
「それはわたしがやらないと駄目ですよね?」
「ベッドから抜け出そうとする老人を怪我しないよう扱うのには力がいる。わたしのほうが向いてるよ。キララは家族を守ることに専念して」
非力であることを盾にされると何も返せないが、ユウコ先輩の言う通りだった。いつベッドを抜け出すか分からない人をつきっきりで見ながら家族のことを考えるなんて、わたしには絶対に無理だ。
「すみません、お言葉に甘えます」
ユウコ先輩は返事の代わりにスマホを取り出し、いくつかのメッセージを素早く送る。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
そして散歩に出かけるような気軽さで倉庫を後にする。一人になった不安か、頼りになる先輩に動いてもらえた安堵からか、わたしはしばらく一歩も動くことができなかった。
残りの休憩時間はヒナタとヒカゲを宥めるのに使われた。わたしがユウコ先輩についていったという情報をどこかから得ており、一時間目のサボタージュ、隠しきれない涙の跡となれば誤解するのもやむなしなのだが。
その間もメッセージをこまめにチェックしていたが、サオリ先輩からは早々に連絡があった。
《事情は分かった。言いたいことはあるけど、ユウコがあまり叱るなってことだから説教はなし》
《恩にきります》
《恩はいらない、貸し借りもなし。その代わり、体で払ってもらう》
突然の話にどう返そうか悩んでいると、次のメッセージが飛んでくる。
《おじいちゃんの世話が多くなりそうだから、代わりに家事をやって欲しい。それと参拝客の案内も。まあ、これはそんなにないから安心して。最初の一週間は手間賃代わり、それからは給料を出す。期限は祖父が退院するまで》
常識的な提案に息をつき、それから望外の好条件に申しわけなさが湧いてくる。
《別に全部ただ働きでもいいんですが》
《給料を出すほうが結局は得になる。わたしのためと思ってもらっといて》
その理屈はよく分からなかったが蓄えの増えるのは良いことだし、その条件を謹んで飲むことにした。
《服は多分、わたしので合うと思うけど》
《サオリ先輩の服を借りる必要はないですけど》
《巫女服を持ってるの? キララはアバターを使うからコスプレ配信用じゃないし、するとコスプレパーティーか、それとも同人誌即売会?》
話が予期しない方向に進み、わたしは慌ててメッセージを返す。
《参拝客の案内って、巫女服でやるんですか?》
《神社だから。キララはわたしの巫女姿を見たことがあるはず》
サオリ先輩の言う通りだが、わたしには関係のないことだと思っていた。
《臨時ってことで巫女姿じゃなくても良いけど》
《いえ、大丈夫です》
サオリ先輩の代わりをなるべくしっかり務めたいし、実は巫女服に興味がないわけでもなかった。
それから一分ほどが経ち、用事が済んだので離席したのかなと思い始めたところで、サオリ先輩からのメッセージが再び飛んできた。
《こちらの用事が済んだらすぐキララの家に向かう。両親の仕事帰りって何時頃?》
《定時なら十八時過ぎかな。父さんは最近忙しいからもっと遅くなるかも》
《了解。十七時にはキララの家に着くようにする》
サオリ先輩が事態の収集に動いてくれると分かり、わたしは安堵とともに帰宅したのだが、その気持ちは家の前で容赦なく破られた。中から父と母の言い争う声が聞こえてきたのだ。
まだ十六時過ぎなのに、どうして二人とも家にいるの?
心の叫びを聞き取るものは誰もおらず、サオリ先輩にメッセージを送っても反応がない。用事とやらにかかりきりになっているのだろうか。その間にも口論は徐々にエスカレートしていく。
あの中に飛び込むのは嫌だったが、意を決してドアを開ける。このまま放っておいたら父がまた母に暴力を振るうのではないかと思ったからだ。
できるだけ音を殺して靴を脱ぎ、足音を立てずにリビングへ向かう。父と母はテーブルを挟んでソファに座り、極めて深刻な顔をしている。これまでずっと仲が良く、喧嘩一つしたことがないだなんて、この光景を見たら誰も信じないだろう。
「その、ただいま……」
なんとかこの空気を破ろうと声をかける。言い争いは収まったが、二人は揃ってわたしに視線を向ける。まるで喧嘩を止めるなと咎められたみたいだ。
父は何故か寝間着のままで、母はスーツ姿で右腕をひじの辺りまでまくっている。広い範囲で赤く腫れたようになっており、ところどころに血が滲んでいた。
この場から逃げたかった。でも、こんなことになってしまったのはわたしのせいだ。それにユウコ先輩からは家族を守るように言われた。
「ほら、モトコも帰ってきたことだし……」
「だからなんだって言うのよ!」
父の取りなしを母は悲鳴のような怒声で上書きする。
「ゴミは出さない、子供のような買い食いに、今度は無断欠勤。しかも仕事をやめたいって!」
仕事をやめるという話にわたしは思わずぎくりとする。満足に休めてなさそうなのは知っていたが、まさかそこまで思い詰めていたなんて知らなかった。
「わたしだって我慢しながら仕事を続けてるのにそちらだけ我侭ばかり! もううんざりよ!」
母は左手で右腕をかきむしる。腫れと傷がますます酷くなるのを父が慌てて止めた。
「次の仕事はもう当たりをつけてる。しばらく収入は落ちるけど、すぐに挽回できるはずだ。ずっと迷惑をかけるわけじゃなくて……」
父は必死で宥めるが、母は怒りを収めようとはしなかった。
「それすらも許せないほど、わたしが嫌いになったってことか?」
母は父の問いにそうだとは答えなかった。でも首を横に振ることもなかった。そして父ではなくわたしに視線を向ける。父も続けてこちらを向き、先程の気まずさがたちまち甦ってきた。
どうして二人の問題なのにわたしを見るの? そんなのおかしい……いや、本当は分かっている。離婚することになればどちらがわたしを育てるかが問題になる。
どんな選択をすれば家族を守れるのか。わたしは慎重に言葉を選ぶ必要があった。
それなのに何もかもが面倒になってきた。嫌になってきた。家族なんてどうでも良いのだという破滅するような選択が頭に浮かび、そして抑えられなかった。
「二人が離婚するならわたし、家を出るから。どっちにもついていかない」
気付けばそんなことを冷たく口にしていた。
「一人で生きてくよ。面倒なのも遠慮するのももううんざり。父さんも母さんも、どっちも嫌い」
新しい配信機材を買うためにお金を貯めてるから少しは持ち合わせがあるし、サオリ先輩に泣きつけば住み込みで働かせてくれるかもしれない。きっとどうにかなるはずだ。
「そうか、じゃあ出て行けば良いな」
父の顔がいつの間にか余所余所しい。わたしのことを汚物とでも考えているかのようだ。
「そうね、モトコがいなくなれば全部解決じゃない。堂々と離婚して自由に生きていける」
母は希望に満ちた表情を浮かべている。わたしを邪魔者だと考えているのがはっきりと分かった。
父も母もこんなに冷たい人だなんて思わなかった。こんな所にはもう一秒たりともいたくない。
「分かった、じゃあ出てく。二度と戻らないから」
わたしは両親に背を向け、家を出る。
こんなに晴れ晴れとした気持ちは初めてだった。
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