第二話 柔らかな牢獄(5)

 サオリ先輩に気の利く後輩アピールをしたかったが六時になっても帰ってこなかったので、ユウコ先輩にわたしが手伝ったことを話すように言い含めてから帰路に着く。わたしの家は教導神社からだと徒歩で三十分ほどかかり、電車を使えば十分ほど短縮される。今日はできるだけ早く帰りたかったから電車を使うことにした。

 駅から自宅までの街灯は十分に明るいが、今くらいの時間に一人で帰途につくのはちょっと怖い。

 夜不可視の活動がある時はもっと遅い時間に帰るけど、サオリ先輩かユウコ先輩のどちらかが送ってくれるから日の下を歩くように安心できる。二人とも鬼のように強いというのもあるけど、普通のクラスメートでも心細くはないだろう。一人であること、暗くてよく見えないこと、この二つが重なって初めて恐怖は忍び寄ってくる。

 そんな気持ちも今日は少しだけ歓迎していた。あの日本人形もどきは不安に思う心を嗅ぎつけて姿を現しそうだったからだ。でも、期待に反して道中で出現することはなく、あっさりと家に着いた。

 中に入ると味噌の香ばしい匂いが漂ってきた。きっと父が好きな牡蠣鍋を用意しているのだろう。今くらいの季節から鍋の頻度が増えてくるのはわたしにとっても嬉しいことだ。趣味は合わないけど、食については両親とほぼ同じものが好物だったりする。ずっと食卓を囲み続けているのだから当たり前かもしれないけど。

 部屋に戻ってみたが、そこにも日本人形もどきはいなかった。お試し期間なのだから気に入らなければ即キャンセルしても構わないはずなのだが。

「おーい、わたしが探してるのは知ってるでしょう? さっさと出てきなさい。さもないとサオリ先輩をけしかけてやるから」

 弱みをついたつもりだがそれでも反応はない。そこでスマホを取り出し、連絡するふりをした。じっちゃんのことで忙しいだろうから実際には送らなかったけど、効果抜群のはずだ。

 しかし、そこまでやっても姿を現さない。

 もしかして、この家にはもういないのだろうか。お試し期間なんて嘘で、両親の仲を割いてわたしを苦しめるのが最初からの目的だったのか。

 嫌な予感が増していく。どうしてわたしはあいつの言葉に耳を貸してしまったのだろう。

 わたしの心をいじって、そうするように仕向けたというのは分かっている。けど、僅かでも望んでいたからこそ誘いに乗ってしまったに違いない。

 体だけでなく心にも耳がある。人ならざるものが訴えかけるのは専ら後者だ。

 かつてサオリ先輩に聞いた忠言が頭を過ぎり、外からの声がそれをかき消した。

 ドアを少しだけ開けると両親の言い争いが聞こえてくる。食事を作って待っていたのに外で食べてくるなんて、それなら連絡してよ。用意してるならメールなりメッセージなりで先に伝えておいてくれよ……小さな行き違いから始まり、お互いを責める言葉は止まらない。聞いているのが辛くなり、わたしはそっとドアを閉めた。

 それから少しして母の呼ぶ声がする。おそるおそるダイニングに向かうと父の姿はそこになく、二人分の食器が並び、テーブルの中央にはできたての鍋が置いてある。

「父さんは先に食べてきたみたい。二人で食べましょう」

 上手く隠しているし、いつも通りの笑顔だけど、涙の跡が微かに見えて痛々しい。

 こんなとき、どう言い繕って良いか分からなかった。だって父と母はこれまで全く喧嘩をしたことがなかったのだから。

 わたしにできたのはわざとらしく明るい顔をし、さっきまで両親が喧嘩していたのは知らない振りをすることだけだ。常に気を張っているから美味しいはずの料理の味が酷く曖昧だった。

 気まずい食事を終え、後片付けは積極的にかって出た。食事中に何度も箸をとり落としていた母に任せたら食器がどれだけ駄目になるか分かったものではないからだ。

 母はわたしの様子に目もくれることなく、椅子に座ってぼんやりしており、終わったよと言っても生返事をするばかりだった。

 部屋に戻り、あの日本人形もどきの姿をもう一度くまなく探してみたが、やはりどこにもいない。いよいよ堪忍袋の緒が切れて、サオリ先輩に連絡しようとした。

 でも、本当にそれで良いのだろうか。じっちゃんが怪我してそれどころではないのに、しかも身から出た錆にも拘わらず安易に頼るだなんて。いつでも連絡して良いと言われてるけど、こんな時は流石に迷惑じゃないか。

 色々と考えてしまい、連絡する勇気が出てこない。代わりにネットで色々調べてみたけど、人間関係を悪くする、縁を断ち切るといったおまじないやお参り、関連する怪異や現象は山ほどあってお腹が一杯になりそうだった。

「みんな、誰かと仲良くなりたいと思ってるし、逆に離れたいと思ってる」

 わたしはといえば両親とは別れたくないし、ヒナタとヒカゲは大事な友達だ。サオリ先輩とユウコ先輩は夜の街を行き、怪異を追いかける仲間だし、どうしても無理って人は身近にいない。配信では流石に礼儀を弁えない人も出てくるけど、ほとんどの人は悪ノリの過ぎた冗談を口にした時以外は親しく接してくれる。

 切りたい縁なんて一つもない。それを自ら壊そうとしたなんて馬鹿みたいだ。

「みたい、じゃなくて馬鹿なんだよね」

 あの日本人形もどきは絶対に見つけ出してやると気持ちを新たにしたところで部屋のドアがノックされた。

「その、入って良いかな?」

 慌ててドアを開けると力ない笑みを浮かべた父が立っていたので、何も言わずに招き入れる。父は少し迷ってから、探るような視線とともに口を開いた。

「モトコにその、訊きたいことがあるんだ」

「母さんのこと?」

「うん……その、夕食のときどんなことを話していたのかなって」

「元気なさそうだったし、後悔してたよ」

 父も後悔しているのだから隠す必要はないと思ったし、これがきっかけで仲直りしてくれるのではないかと期待したけど、父は渋い表情を浮かべた。

「後悔してるなら最初からあんな言い方しなければ良かったのに。朝早く家を出て、我侭な客の相手が続いて気が滅入ってた。小遣いの範囲なんだし、美味しいものを食べて憂さを晴らしても許されると思うんだよな」

 いつもより明らかに刺々しい物言いだった。これまでどんなに疲れたときでも父は常に穏やかで笑顔だったし、不機嫌を剥き出しにもしなかったのに。

「うん、それは分かるけどさ。母さんもずっと気に病んでたし、父さんが大変なことを誰よりも分かってたから、好物を作って待ってたんだと思う」

 なんとか父の気持ちを落ち着かせようとして、わたしは母の気持ちを代弁する。

「……モトコは母さんの肩を持つのか?」

 でも、父の苛立ちは収まることなく、わたしをじっと睨んできた。

「そういうつもりじゃなかったの、ごめんなさい」

 だからつい、何も考えずに謝ってしまった。

「そうだよね、父さんも大変だよね」

「まあな。これも家のため、二人のため……だった」

 だった。まるで今はそうじゃないみたいな言い方。それだけのことでわたしは小動物のように体を震わせてしまった。

「母さんは父さんと仲直りしたいと思ってるよ」

「それは……わたしも同じだよ」

 父は深く息をつき、わたしの頭を軽く撫でる。まるで物事を知らない小さな子供を諭すように。

「明日もう一度、話し合ってみる」

 父はそう言うと頭から手を離し、部屋を出る。

 これまでそんなこと一度もなかったのに、父に触れられるのが、頭を撫でられるのが無性に恐ろしかった。

「あんな怖い父さん、初めてだ……」

 しでかしたことの重さが改めて全身にのしかかってくる。

 やはりサオリ先輩に相談するべきではないか。

 しかしその日は結局、何もすることはできなかった。決意と躊躇が山谷を描き、思いが定まらなかったからだ。

 わたしも両親と同じで、あの日本人形もどきに惑わされている。分かっているはずなのに、迷いという名の鎖が心に巻き付いて外すことができなかった。



 翌朝、固いものの割れる音で目が覚めた。

 また両親が争っていると考えるだけで恐ろしく、わざとらしいのそのそとした動きで身を起こしてからそっとドアを開け、ダイニングに顔を出す。

 そこには出社の準備を整えた母とパジャマ姿の父がいた。

「ごめん、そろそろ出ないといけなくて」

「大丈夫、こっちで片付けとく。今日は早番なんだろ?」

「そうね、お願い」

 父の顔に昨夜の不機嫌さはなく、いつもの人が良さそうな笑顔だった。対する母は暗い表情をしており、右頬を覆うようなガーゼを貼っていた。

 大丈夫と訊ねる間もなく出かけてしまい、わたしは父と二人きりになる。父は割れた皿の破片を素手でつかんでは袋の中に入れるという危なっかしいことをしていた。

「指を怪我するよ、っていうかもうしてるし」

 人差し指から血が滲んでおり、それから手の甲の上辺りに擦過傷のようなものが見えた。

「大丈夫だと思ったんだけどな」

「わたしが片付けるから父さんは切ったところを水でしっかり流して。終わったら……」

「絆創膏だろ。薬箱がどこにあるかは知ってるよ、なにしろ自分の家だし」

 分かりにくいユーモアもいつもの父だ。母を気遣うような態度も見せたし、元通りとまではいかなくても少しは仲直りできたのかもしれない。

 そんなことを考えながら押し入れの前に立ち、掃除機を取り出そうとしたところでふいにぎくりとした。

 指の先を怪我するのは分かる。でも、手の甲の上辺りの傷はなんなのか。

 わたしは拳を握りしめて硬い物を殴ったとき、そこに傷がつくことを知っている。ユウコ先輩に格闘技を教えて欲しいとねだったとき、調子に乗って拳を振っていたらうっかり壁を殴ってしまい、怪我をしたことがあるからだ。

『拳は割とすぐに痛むよ、わたしも今より無茶してた頃にもう少しで駄目にするところだった』

 そんなことを言いながらユウコ先輩は無造作に拳を握る。わたしと違って手の甲の上辺りは真っ平らで、拳を振るい慣れていることが見て取れた。

 わたしは胸中の不安を無理に払うと台所に戻り、母がいつも使っているゴム手袋をつけ、大きな破片を拾ってから掃除機をかける。

「これで大丈夫だと思う」

「ありがとう、モトコ。みっともないところを見せてしまった」

「わたしが子供の頃に比べたら些細なことじゃない?」

 それもそうかと笑い、わたしも笑い返す。口元がひきつってないか心配だったけど、父が何かを察した様子はなかった。

 わたしはそれからパンを焼き、バターとママレードをつけてから牛乳で流し込む。一秒でも早く、父と一緒の状況から逃げ出したかった。

「ごちそうさま。パパは今日在宅?」

「だと良いんだけど、単なる半休……昨日の出張の資料をまとめないといけないし、午前中も実質在宅みたいなものか。まあ、食器を片付ける時間くらいはあるよ」

「そっか、いつも大変だね」

 父に労いの言葉をかけてから自分の部屋に戻ろうとしたけど、やはり母の傷のことが気になる。訊くのは怖いけど、有耶無耶にしたら一日思い悩みそうだった。

「母さんの怪我、どうしたの?」

「ああ、うん……」

 だから思いきって訊いてみたが父は露骨にお茶を濁し、それからぼそりと呟いた。

「わたしのせいだな。モトコが気に病むことじゃない」

 家庭内暴力を気に病むなだなんて無理に決まっている。父は明らかにおかしい。これもきっと、わたしがあんな願いごとをしたからに違いない。

 そのことを示すように、父は手の甲にできた傷を冥い瞳でじっと見つめている。わたしはいよいよ怖くなり、鞄とスマホを手にしてから慌てて家を出た。

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