間話 沢渡コダマと夷伏丸

 もうすぐお山に辿り着くという間際になって、沢渡さわたりコダマはくよくよと躊躇っていた。一日か二日なら無断で持ち場から離れても何も言われないだろうが、既に一週間近くも経っている。

 役目をほったらかしてどこをほっつき歩いていたんだと説教されるに違いない。若い妖怪はいつだって責任感が足りないし、在るべき形を軽視しがちだ。これだから旧い力もろくに使えなくなっていくのだ云々。

 想像するだけで気は滅入ったが、更なる逡巡ののちコダマはお山に足を向ける。

「だって、わたしの山彦を待ってくれる人たちがいる」

 あの優しくて美しい声の男に、それから都会で親切にしてくれた女の人。だから逃げるわけにはいかなかった。

「随分と遅い帰還だったわね」

 聞き覚えのある声が闇夜の狭間から耳朶を打ち、コダマは思わず体を震わせる。そんな彼女をからかうように赤い炎がぽつ、ぽつ、と周りを囲う。

「夷伏丸様、戯れはやめていただけると……」

「あら、酷いいわれようね。上司の説教を恐れる必要はないと伝えに来てあげたのに」

 夷伏丸と呼ばれた女はそう言って暗闇から姿を現した。仄赤い火は暗闇の中にあった彼女の体をくっきりと照らし出し、コダマはその美麗さにほうと息をつく。

 三県をまたがる山々に暮らし始めて少なくとも数百年、人もそうでないものの営みも等しく見つめ、そして受け入れてきたお方であり、コダマのような旧い力をろくに使えない木っ端にも分け隔てなく優しい。

 だが、今の夷伏丸を見て人格者と思うものは誰もいないだろう。頬を僅かに赤く染め、期待と恥じらいの眼差しを浮かべるその姿はまるで年相応の娘のようだった。

「あなたは粗相をして、償いのためわたしの屋敷で働いていたことにしたから安心して頂戴。ところでコダマちゃん、わたしのちょっとしたお願いは聞いてもらえたかしら?」

 コダマは慌てて頷く。美声の持ち主にもう一度だけ会うため、お山を下りようとしたコダマを夷伏丸は目聡く見つけ出し、良きに計らうから一つだけ頼みごとを聞いて欲しいと提案してきたのだ。

 そして実際に約束を守ったのだから、夷伏丸の用件を忘れたとあってはただでは済まないだろう。自分のことを粗忽ものだと思っているコダマだが、そこまで致命的ではなかった。

「えっと、言われた通りの場所に向かいましたが……」

「ん、どうかしたの? 変なことでもあった?」

「いえ、夷伏丸様は退魔の力を持つ稀代の美丈夫がいると仰られましたよね?」

「ええ、その通りよ。素敵な方だったと思うのだけど、もしかして花婿様の身に何かあったのかしら?」

 コダマは慌てて首を横に振る。夷伏丸の言った美丈夫らしき男性は神社にいて、コダマが山彦だと一目で見抜いた上で優しくもてなしてくれた。

 そして夷伏丸のことを話すと高らかに笑い、いつ挑戦をしにきても構わない、まだまだ負けるつもりはないがなと強気の発言を見せた。夷伏丸に勝てる人間がいるなんてコダマは今でも信じていないが、もしかしてと思わせるくらいの迫力があった。

 傑物であることは間違いないが、彼はよぼよぼの老人だった。そんな彼を美丈夫だなんて、夷伏丸様はわたしをからかっているのかしら……などと考えながら次の言葉を選んでいると、周囲の炎がいきなり輝きを増した。

「もしかして花婿様に情熱を抱いたのかしら?」

 そして夷伏丸はとんでもないことを口にする。上機嫌そうな表情とは裏腹に炎は徐々に明るく、強くなっていく。

 これはまずい。下手な真似をしたら焼き殺されてしまう!

 コダマは慌てて首を横に振るが、炎は収まるどころかいよいよ盛んに燃え上がり、熱と圧で息苦しくなる。

「花婿様にそんな魅力はないと言いたいのかしら?」

「いえ、わたしが……その、想うのは……そう! お山で良い声を聞かせてくれた方だけなので!」

 咄嗟の言い訳だったが夷伏丸はふむと頷き、周囲の炎から熱が急速に失われていく。

「えっと、その……お子様がいらしゃったようですので。そのことをお伝えしてよろしいものかと、はい……」

 コダマは嘘を言っていない。夷伏丸が訪ねるようにと伝えた神社には巫女の衣装を着た少女がおり、コダマと彼が話すのを少し離れた場所からじっとうかがっていた。どちらかといえばコダマは彼女のほうが怖かった。並々ならぬ霊力を彼女から感じたからだ。

「その子なら知ってるわ。花婿様が縁戚から引き取った子でね。優しいお方だから、困ったことがあれば手を差し伸べずにはいられないのよ」

 夷伏丸はそう言ってコダマの頭をそっと撫でる。

「気遣ってくれたのね、ありがとう」

 コダマはしばらくなすがままにされていたが、そのうちに夷伏丸はぽつぽつと呟き始める。

「でもね、花婿様は七十年以上も殉じてきたのよ、安寧の世というものに。人の生にはあまりにも長すぎる。そろそろ解放されるべきじゃない?」

 夷伏丸の口にしたことが正しいのかどうか、彼との関係を知らないコダマには分からない。

 どちらにしろ立場の弱いコダマは、追従するように頷くことしかできなかった。

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