第一話 エコーチェンバー(5)
山彦が恋した美声の持ち主は会社勤めで、昼間に会うことはできなかった。最初のときも建物から出てきたのを少しだけ尾行して、周りに誰もいないことを確認してから声をかけたらしい。
出てくるまで建物の前で待つと言い張るのをなんとか宥め、涼しい場所で待とうと説得すると、わたしは炎天下の中で着ていてもおかしくない薄手のパーカーと適当なキャップを目についた店で見繕い、山彦に着せてやった。ぼろぼろの服装というのは大きな特徴であり、いちいち視線を呼び込むし、ふわふわの髪とコンパクトで贅沢な体型という別の特徴も合わせて隠すことができる。
それでも多少の視線を感じるのは、平日の昼間に学生と思しき二人が歩いているからだろう。わたしはできるだけ堂々としながらも人目を避けるように動き、ネカフェを見つけると素早く駆け込んだ。
店員はわたしたちを怪しむ素振りを見せたが、初回利用は会員登録料をいだたきますけど大丈夫ですかと訊かれただけだった。いくつかの言い訳を考えていたが、嘘をつかないにこしたことはない。ざっと店内を見回せばわたしと近い年の子たちもちらほらといる。何らかの事情で学校や家に居辛くて、避難してきているのだろう。
適当な席を取り、ここがどういう所かを説明すると山彦は目をきらきらと輝かせた。
「お山にも漫画本はあるけど、誰かが捨てていった古いものばかりで、連載ものの一話だけ読んでもよく分からなくて。読み切りだと気にせず読めるのだけど」
「どれでも好きなのを読んで良いよ。会社の退勤時間が迫ってきたら教えるから」
山彦はこくこく頷いてからあちこちの棚をうろちょろとしていたが、ごっそりと本を抱えて興奮した様子で戻ってきた。鬼との戦いを描いた漫画、全二十三巻。
「これはまた有名なのを選んできたな」
「わたしの住んでいる辺りの山を登る人が最近よく話題に出すから気になってたの。主人公兄妹の出身地があるから登山道の入口に着物と同じ柄の旗を立てたりもして」
なるほど、現代の怪異はそうした方法で情報を仕入れてくるわけだ。
「恋愛漫画もあるけど、そういうのは興味ない?」
美声の持ち主を追って山から下りてくる情熱を持っているのだから興味があるかと思い、試しに訊いてみたのだが山彦は良い顔をしなかった。
「そういうのって苦手だったりする?」
「いえ、面白い作品があるのは分かってるけど、流石にもう読み飽きたというか……」
「お山には古い雑誌しかないって話だったけど」
「古いものばかりと言ったけど一つだけ例外があるのよ。
いぶしまるというのは何とも古風な名前だ。祐子という名前も古いというか流行をかなり外しているわけだが、夷伏丸というのはいかにも時代がかっている。
「お山に暮らす天狗様の一人で、この現代においても古い力を難なく行使できる偉大なお方よ。面倒見が良く、人とそうでないものの融和をずっと考えてきて、その素晴らしさは疑いようがないのだけど……」
美辞麗句の中にどこか、歯にものの挟まったような言い方が散見された。おそらく数多の美点を打ち消すような、独特の問題点があるのだろう。
「夷伏丸様には好いておられる人間がいるの。退魔を生業とする美丈夫で、人の身でありながら天狗を打ち負かす稀有な才能を持っているらしく。いつかその人間を実力で打ち負かし、お山にさらって甘い生活を送るのだと宣言しているのだけど、その指南書として大量の恋愛漫画を買い込んだの」
なるほど、それは少し……いや、かなり厳しい。今なら恋愛脳とでも揶揄されるタイプだ。
「でも、わたしも人のこと言えないかも」
「言えなかったことを伝えるだけだろ?」
山彦は僅かに気まずそうな顔を浮かべる。もしかするとわたしに言ったことが全てではなく、言えなかったことを伝えるだけでは満足できないのだとしたら。
例えば……美声の持ち主を山に連れ帰るとか。教導さんは温厚だから問題ないと言っていたが本当に大丈夫なのだろうか。
目の前にいる山彦はうんざりするくらいの恋愛漫画を読了している。そうした作品に影響されることがないとは言い切れないのではないか。
「今から気に病み過ぎるのもなんだし。楽しい本を読んで心をほぐすのも良いんじゃないかな」
わたしの提案に山彦は渋々頷き、持ってきた漫画に目を通し始める。作中の世界にすっかり没頭したのを確認すると、わたしはチャットで教導さんに心中の懸念を送る。
《気にする必要はない。向坂さんは山彦が未練なくお山に帰れるようにサポートするだけで大丈夫》
その回答を見ても気分は晴れなかったが、わたしよりずっと人外の問題に詳しいであろう教導さんに反論するだけの確証はなく。
振動だけのタイマーを仕込むと、わたしも気になっていた漫画を見繕い、時間を潰すことにした。
タイマーの振動を感じると本を閉じ、山彦の様子を見る。ちょうどタイミング良く最終巻を読み終えたらしく、読後の余韻に浸っていたので軽く肩を揺する。
「時間なのでそろそろ移動するけど大丈夫?」
「分かった、本を片付けてくる」
お互いに本を棚に戻し、精算を済ませて外に出ると日がかなり傾いており、空が若干赤らんでいた。未成年が私服で外を歩いていても問題のない雰囲気で、わたしと山彦はこそこそすることなく、美声の持ち主が勤めている会社に戻っていく。オフィスビルが増えてくると若干場違いにはなってきたけど、不審がられるほどではなかった。
会社の前まで来ると、さも人を待ってますといった調子で待機する。少し強引だが、親の退勤を待つ姉妹と見えないこともないだろう。
退勤時刻になると定時で仕事を終えた人たちが一斉に中から出てきて、十分ほどすると人の出が疎らになる。山彦はその誰にも反応を示すことなく、建物の入口にじっと視線を向けている。
それから何も起きることなく一時間が経った。タイミング悪く仕事の長引いた日に当たったか、いつも遅くまで仕事しているのか。
「前に声をかけたときは何時くらいに退社したんだ?」
「時計を持ってないから分からないけど、そんなには待たなかったと思う」
山彦の回答は慰めにはならなかった。人間と人外では時間の感じ方が全く違うかもしれないからだ。わたしはそこまでせっかちではないけど、同じ場所で一時間待ち続けるのは十分に長い。でも人外にとってその程度は一瞬と変わらないかもしれない。
約束したからには最後まで付き合うつもりだが、ずっと一所に立っているわたしたちを見て不審に思ったり、心配になって声をかけてくる人がいるかもしれない。
だからそわそわしている風を装ったり、視線を感じたらお父さん遅いなとわざとらしく呟いたりして、わたしなりに声をかけられないように振る舞った。都会には他人に無闇に干渉しないという不文律があるからそんなことをしなくても大丈夫とは思ったのだけど。
山彦がぴくりと反応したのは午後九時を少し過ぎた辺りだった。
「もうすぐ出てくるから、しばらくは距離を少し取って追いかける。人間には難しいかもしれないけど、できるだけ気配を消すよう心がけて」
気配を消すだなんてバトル漫画みたいなことはできる気がしなかったけど、頷くしかなかった。できないと言ったらわたしを置いて一人で追いかけていきそうだったからだ。
そんなことを考えていると、山彦はいま会社から出てきた男を指差した。
「あの人よ。さあ、追いかけないと」
山彦は若干前屈みになり、爪先を立てて歩き始める。どう考えても不審な挙動であり、その姿を怪しむ視線が投げかけられているのを見るに、気配を消すというのもまるで上手くいっていない様子だった。そも本当に気配を消せるなら、無用なトラブルを起こすこともなかったはずだ。
やれやれと思いながら山彦の後を追い、その少し先を行く男に目を向ける。一見すると細身に見えるがしっかりと筋肉はついており、歩く姿も実にきびきびしている。登山やハイキングを趣味にしているのが目に見えるようだ。
遅くまで残って仕事をしていたようだが、さして疲れた様子もない。心身ともにタフな人物なのだろう。
それにしても山彦の追跡はあまりに不審過ぎる。これで前回はよく接近するまで気付かれなかったなと思う。そこで運を使い果たしたからトラブルに巻き込まれてしまったのかもしれないが。
数分ほど歩くと一時的に人通りが少なくなり、山彦はそれを機と見て一気に距離を詰めると辿々しく声をかける。
男は足を止め、声がした方に振り向く。おそらくは二十代、健康そのものといった感じだが若干やつれているように見えないこともない。
山彦の姿を見て、男はほうと息をつく。
「おお、前に会った山彦ちゃんか。今日は良い服を着せてもらってるようだけど」
男は彼女が山彦であることをまるで疑っておらず、目と軸を外して声をかけた。
「あの、はい。親切な方に買ってもらって……その、先日は言い忘れたことがあって」
「言い忘れたこと?」
「ええ、その……わたし、次も目一杯山彦を返しますからって。それを言えなくて……」
山彦の辿々しさに男は目をぱちくりさせたが、次には気持ちの良い笑みを浮かべていた。
「そっか、じゃあ次に登ったときも大きい声を出すから。約束するよ」
そう言われ、山彦は顔を真っ赤にしながら何度も頷く。ここまでいじましいと見ているわたしのほうが恥ずかしくなってしまいそうだった。
山彦はしばらく俯いていたが、顔を上げて何かを伝えようとする。それはとても恥ずかしいことだったのか実際は声になることなく、踵を返して逃げ出そうとした。
わたしはそんな彼女の腕を咄嗟に掴む。
「ここで逃げると山に帰れなくなるんじゃないか?」
手をふりほどこうとする山彦の耳に、わたしはやんわりと声をかける。
「まだ言いたいことがあるんだよな?」
山彦は抵抗するのをやめ、そっと頷く。そんなやり取りを男はじっと見守ってくれていた。
「その、わたし……待ってますから」
「うん、分かった。実を言うとね、秋にはテントを担いで一泊しようと思ってたんだ」
わたしは二人のやり取りに息をつく。促しておいてなんだが、あなたを山に連れて行きたいとか、そんなことを言い出したらどうしようかと内心ひやひやしていたのだ。
二人は指切りを交わし、男は小さく手を振ってからこの場を後にする。なんとも動じない人だなと思ったが、人外とのやり取りに慣れているのかもしれない。
一息つこうとしたところで山彦が突然、わたしに強く抱きついてきた。
「ありがと。わたし、言いたいことを言えたよ」
「じゃあ、これから家に帰るのか?」
「うん。あなたもいつかきっとお山に来てね。わたしの山彦を聞かせてあげるから」
山彦は腕をほどき、紅潮した頬をぺしぺしと叩く。わたしに抱きついたのは湧き上がる気持ちを抑えようとした結果なのだろう。体の骨が僅かに嫌な音を立てたけど、おくびに出さず笑い返して、夜の街を上機嫌で去っていく山彦を見えなくなるまで見送った。
わたしはスマホを取り出し、教導さんに事の顛末が分かるメッセージを飛ばす。
《というわけで無事に片付いたと思う》
「そうね、ご苦労様」
教導さんの声がして、スマホを耳に当てる。間違って電話したと思ったからだが、すぐに番号を教えていないことに気付き、慌てて振り向く。
彼女の姿がそこにあり、わたしは動揺が隠しきれなかった。
「え、なんで教導さんが……?」
「様子を見てたからに決まってる」
「いや、決まってるって……いつから見てたんだ?」
「ネカフェで本を読んでるところから。早退届はキョウカに頼んで出してもらった」
「いや、それは良いんだけど……もしかして、ずっと監視されたってこと?」
「あの山彦のことは気になってたから」
さらっと口にする教導さんをじっと睨みつける。流石に聞き捨てならないと思ったからだ。
「チャットでは心配いらないと言ってたのに。もしかして嘘をついたのか?」
「そういうことになるかな」
「なんでそんな嘘をついたんだ?」
わたしの問いに教導さんは目を細める。まるでこちらに落ち度があると言わんばかりだった。
「怪奇現象は苦手って聞いてたから。わたしはそういうの得意だし、扱いにも慣れている」
「つまりわたしが苦手なことを代わりに引き受けようとしてくれたってことか?」
「その必要はなかったみたいだけど。そういうのが苦手なのって単なるポーズだったりする?」
「いや、苦手だけどあいつは普通の人間みたいだし、物陰から脅かすタイプじゃなかったから」
「何が大丈夫で何が駄目か分からない?」
少し考えてから頷くと、視線をそのままに少しだけ近付いてくる。整った顔立ちがあまりにも眩しく、わたしは彼女からそっと視線を逸らした。
「それが分かる方法があるとしたら?」
教導さんはそう言って、頬の傷に手を添える。
「様々な怪異に触れること。わたし……いえ、わたしたちはその機会を提供できる」
「それって夜の街をどうとかってやつ?」
「夜の街に不可思議を視る会。どう?」
そんなものに参加するなんてお断りだ。わたしはホラーや怪奇ものといったジャンルが苦手で、耳にするのだって避けたいと思っている。
それなのに教導さんの提案に抗えない。いや、避けられないと言うべきだろうか。
何故ならば、教導さんは答えを知っている。だからわざわざ頬の傷に触れたのだ。
「怖いのが苦手と分かってて誘うんだ」
「わたしがいればどんな怪奇現象も恐れるものではない。安心して頂戴」
かなり遠回りだけど、教導さんはチャンプと同じことを言っている。辛くなったらいつでも頼って良いのだと。
あと一年八ヶ月だけ我慢すれば良い。既に三年近くも我慢して、ずっと誤魔化して来れた。だから大丈夫だし、教導さんは余計なお世話を焼いている。
「同情なら必要ないよ」
「わたしは同情で誘ってるわけじゃない」
では、どうして誘ってくれるんだろう。理由を考えようとしたが、教導さんの顔が間近にあってまともに考えることができなかった。
「その会って二人でやってるんだろ? キララちゃんだっけ、彼女にも訊かないといけないんじゃないの?」
せめてもの抵抗としてそう口にしたのだが。
「わたしなら既に賛成済ですよ」
キララは物陰からひょこっと顔を出し、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。これまた予想だにしない声と登場だった。
「わたしともサオリ先輩とも違うネットワークを持っていますし、頼りになりますし。やっぱこういう活動って三人組が鉄板じゃないですか!」
相変わらずの前提をすっ飛ばしての発言だが、キララの中では揺るぎのない理屈ができあがっているのだろう。
二人にぐいぐいと迫られ、わたしは退路を完全に断たれていた。いや、これまでの流れを読まず二人の提案をはねつけることだってできるはずだ。
それができないというのはつまり、わたしは三人目になりたいと思っているのだ。ホラーや怪奇現象に苦手意識を持っているというのに。
「そうだ、初回体験キャンペーンということでユウコ先輩にも今日の活動に参加してもらいましょう。本命の山彦にまつわる問題は解決しましたが、夜の街を歩けばまた別の不可思議に遭遇できるかもしれませんよ」
キララに期待の眼差しを向けられ、観念するように息をつく。
「分かった。でも、向いてないと思ったらやめるから」
そうは言ったものの、わたしは三人目になってしまうのだろうという漠然とした予感があった。
ささやかで、しかし明らかに現実と乖離したいくつかの現象を目の当たりにし、ふわふわとした気持ちで家に帰りつくと少しして、教導さんからメッセージが届いた。
《一つ伝え忘れたことがあるのだけど》
それから数分して、次のメッセージ。
《わたしのことはサオリでいい》
そんなことをわざわざ連絡してくるのがなんとも律儀というか、教導さんらしいなと思った。
《じゃあ、わたしのこともユウコでいいよ》
これまでは同じ教室の遠い仲だったが、これからは会の活動を通して頻繁に会話やメッセージを交わすだろう。それなのに苗字でさん付けは他人行儀過ぎる。
そう思ってのメッセージだったが、教導さんからの返答はそれから五分経って、しかも素っ気ないものだった。
《おやすみ、ユウコ》
《うん。おやすみ、サオリ》
わたしはスマホを充電器に繋ぐと電気を消そうとして。
夜の街に見たものを思い出し、電気を点けたままにして、そっと目を閉じた。
エコーチェンバー 終
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