第一話 エコーチェンバー(4)
チャンプというのは渾名だと思われがちだがれっきとした本名だ。勝子という漢字でチャンプと読ませる。典型的なキラキラネームで、父親はチャンプを女性ボクサーにするため、物心がつかないうちから厳しいトレーニングを強要した。友達も作らせなかったし、学業が疎かになっても一向に構わなかった。チャンピオンになればどちらがなくても暮らしていけるからだ。
彼女にとって不幸だったのは本当にボクシングの才能があったことだ。普通の子供ならすぐに音を上げる練習も消化できたし、十歳の頃には同い年どころか中学生や高校生でも勝負になる相手はほとんどいなかった。
将来を嘱望され、ネットニュースの取材をいくつか受けたそうだ。いずれは地上波でもその活躍が取り上げられ、有名人になれる。父親はかつて自分が果たせなかった夢を娘が叶えてくれると半ば確信していたらしい。
その全てが崩れ去ったのはチャンプが十二歳を迎えた日だった。誕生日プレゼントに最新のトレーニング器具一式を与えられた彼女は両親の前でその全てを叩き壊した。金属が使われている器具に拳を叩きつけたから両手は血塗れになり、骨が何本も指からはみ出したと笑いながら語ってくれた。急いで手術をしたが一線級のボクサーを続けていくのは無理だと宣告され、両親の設定した将来は完膚なきまでに崩れ去った。そして家族としての関係もその時に終わった。
拳を壊したが、短時間なら無理をすれば安い喧嘩の売り買いができた。そしてチャンプの才能とこれまでの積み重ねがあれば路上での喧嘩などそれだけで十分過ぎた。わたしが辛うじて彼女を倒せたのは実力伯仲の相手に泥仕合を仕掛ける戦い方との相性が最悪だったこと、そして彼女がわたしの顔面を狙わなかったからだ。わたしも彼女の顔は狙わなかったからそこの条件は一緒なんだけど。
つまるところそういう打ち明け話をされるほどには仲が良いし、チャンプのアパートを訪ねたらあっさりと中に入れてくれた。酷いやられ方をされたのは本当らしく、わたしと戦った時に比べて更に傷が増えていた。それでもチャンプは大したことないように振る舞っていたし、軽い足取りでお茶と食べ物を用意してくれた。
「いやー、わたしとしたことがこんな短い間に二度も負けるとはね」
わたしがここを訪ねた理由を察していたのだろう。チャンプはそう言って豪快に笑い飛ばす。だからわたしも余計な前置きは言わなかった。
「どんな相手だったんだ?」
「それがわたしより頭一つくらいちっちゃいやつでさ」
つまりわたしとの体格差もそれくらいだ。わたしとチャンプはほぼ同じ背丈だから。
「そのくせ出るとこは出てて、いかにも男にモテそうなやつだった。しかもどこかから家出してきたかのようにぼろぼろだから嫌でも目立つんだな。ある人物からの話をもとに、グルチャにメッセージを流したらすぐに目撃証言が手に入った。急いで駆けつけて本人を見聞したんだが、びくびく怯えてばかりでね。周りのやつらを睨みつけたら俺たち何もやってないし、こいつ頭のネジが少し外れているようですよって言われたよ」
チャンプはそこまで口にしてわたしをちらと見る。話についてきているかどうかの確認だろう。わたしはある人物がキララであることを知っていたが、何も知らないふりして続きを促した。
「できるだけ怖がらせないように声をかけたら一字一句、同じ言葉を返してきた。何を言っても同じことの繰り返しで、頭のネジが外れてるという表現がようやく理解できた。おそらく周りの奴らにも同じ反応をしたんだろう。少し前にこの辺で喧嘩をしたかと訊いたけど、やはりわたしの言葉をそのまま返すだけで埒が明かない。そこでわたしは彼女を試すことにした。ほんの軽く、拳でちょこんとつついてみたんだ。するとわたしより少し早く、強くつつき返された」
わたしはチャンプの瞳に少しずつ、闘志の色が宿るのを見た。誰彼構わず喧嘩をふっかけるようなことはしないが、未知の強者にちょっかいを出すくらいには好戦的なのだ。
「つい悪い癖が出て、どこまでできるかを試してしまった。そしてこのざまというわけさ。あいつときたらどんなに強く殴っても、それより少しだけ強く殴り返してくる。しかもわたしの拳は大して効いていないときた。結構粘ったと思うが敵うことはなく、わたしが倒されて皆が怯んでいる隙を見て、彼女はそそくさと逃げ出してしまった」
なんとも信じられない話だった。ちょっと喧嘩ができて粋がってるやつならともかく、チャンプを同じように倒してしまえるとしたら、それこそ現役のプロでも呼ばない限りは無理な話だ。
キララがエコーチェンバーと呼ぶ何者かは人の手が及ばない怪異だというのだろうか。これまでに怪奇現象なんて一度も遭遇したことがないけど、彼女を追いかければ初めての体験になってしまうのだろうか。
「ユウコはわたしの話を聞いてどう思った?」
「とんでもなく強いやつということは分かった」
「あいつは多分、人間の敵う相手ではないと思う」
チャンプの発言にわたしは思わず体を震わせる。
「幽霊とかそういうの、怖いんだっけ?」
「スプラッタなら辛うじて大丈夫なんだけど」
肉体があるとはっきりしていればそこまで怖くもないが、影からすっと現れるやつとかああいうのは想像しただけで嫌になる。
「あいつは実体があるし、人間の姿だし、積極的に脅かしには来なかった。ユウコのような怖がりが初めて出会う人外としてはうってつけかもな」
だとしてもできるだけ会いたくはない。それなのに何故か無性に気になってしまう。わたしはまだ出会ったことのない彼女の何をそんなに気にしているんだろうか。
わたしの悩む姿をどう受け取ったかは分からないが、チャンプはぽつりと呟いた。
「それに勝ち方はある……と思う」
「勝ち方って、どんな攻撃でも増幅する力の持ち主にどうやって勝つって言うんだ?」
「わたしに情報を教えてくれたのは女の二人組だが、そのうちの仏頂面をしたほうが教えてくれた。もし彼女と戦うなら決して相対してはいけないと」
仏頂面というのは教導さんのことだろう。彼女はおそらくエコーチェンバーの正体を既に看破している。だとすればそのアドバイスは的確で、わたしを勝たせてくれるものだ。
「ユウコはあいつと戦うつもりなのか?」
興味がないと言えば嘘になるけど、わたしはチャンプほど好戦的ではないし、そもそも暴力で解決する問題ではない気がする。
「いや、遠慮しておくよ」
「そっか、わたしの仇はユウコにとって欲しかったけどしょうがない。そっちは諦めるとしよう」
チャンプは小さく息をつくと、雰囲気をがらりと変え、頬の傷に手をやる。
これまでずっと友好的だった顔はいつの間にか怒りに滲んでいた。
「あのクソ野郎、またやりやがったんだな」
背を向けて逃げるには遅かった。そうすればチャンプはわたしを無理矢理押さえつけ、なんとしても話を聞こうとするだろう。純粋な力勝負ではチャンプに敵わない。
もしかしたら訊かれるんじゃないかと思っていたからいつでも逃げられる準備はしていたのだけど、すっかり見透かされていたというわけだ。
わたしは観念し、頬の傷を作った出来事をチャンプに打ち明けたのだった。
辛くなったらいつでもうちに来て良いから。
最後にそう言われたのを軽くかわし、チャンプのアパートを後にする。チャットを覗くと教導さんからのメッセージが入っていた。そういや相互にしたっけなと思いながら内容を確認すると、ありがたいお言葉が入っていた。
《急病で休みってことにしたからズル休みの理由を教えなさい》
《チャンプの家に行ってた。昨日、教導さんやキララと別れてから襲われたらしい》
《そっか。つまりエコーチェンバーは少なくとも昨夜まではそこにいた》
《今もいるのかな?》
《多分。エコーチェンバー……そういやチャンプにした忠告も聞いてるんだっけ。じゃあ、もう正体は分かってると思うけど》
忠告というのは相対するなというアドバイスのことだろう。わたしはその点から改めてこれまでに起きた出来事を整理する。
朧げな可能性が一つ、頭に浮かんできた。
《もしかしたら間違ってるかもしれないけど、エコーチェンバーって山彦のこと?》
《そう。山彦はたまに山から下りてくる。美声の持ち主を追いかけてくるの》
山彦にそんな習性があるなんて聞いたことがなかったし、そもそも山彦というのは音が遅れて跳ね返ってくる単なる現象としか認識してなかった。
《ずっと付きまとうわけじゃなくて、もう一度声を聞かせてあげれば満足して山に帰るから普段は放っておく。温厚な性格で、こちらから手出しをしない限りは害を及ぼして来ないから》
チャンプともう一人が痛い目に遭ったのは、言い方は悪いけど無駄にちょっかいを出したからなのだろう。
《じゃあ、この件も放っておいて良いのか?》
《ええ。勝手に目的を果たして、山に帰っていく》
《分かった、それならもう関わらない》
教導さんは最後のメッセージにグッドのマークをつける。エコーチェンバーがいま何をしているか、気になる自分がいるのは確かだが、人外の可能性が高い彼女にしてあげられることなどないだろう。
そう結論づけて帰途につく途中、路地裏から言い争うような声が聞こえた。随分と剣呑な雰囲気で、わたしはスマホを耳に当てると警察に通報する演技をしようとした。
すんでのところでやめたのはチャンプの仇という聞き捨てならない言葉が耳に入ったからだ。
慌てて飛び出していくと男が三人で女を取り囲んでおり、女の特徴はキララやチャンプが話してくれたのとほぼ一致している。彼女がエコーチェンバー、山から下りてきた山彦なのだろう。チャンプの言う通り確固たる実体があり、少なくともわたしには普通の人間に見えた。
「そいつを離してやってくれないか」
男たちに声をかけると一斉に睨んできて、わたしが誰か分かると嫌悪感を剥き出しにした。
「こいつを庇うのか? まさかここいらで暴れるよう命令したんじゃないだろうな?」
妙な疑いをかけられてしまったけど、喧嘩自慢が立て続けに二人、一方的に負かされた。ぴりぴりしている中でわたしが姿を現せば、そんな疑いも立てたくなるだろう。
「チャンプが狩れって言ったのか?」
問いかけを無視して逆に訊き返すと男たちは黙りを決め込む。既に事情を知っているわたしはチャンプがそんな命令を出さないと分かっていたので、ぐいぐいと追い込みをかけていく。
「わたしは一度片付いた問題を混ぜっ返すような馬鹿じゃない」
「それを俺たちに信じろって言うのか?」
わたしは大きく頷き、男たちに隙だらけの姿を晒す。何発か食らわされるかなと思ったが、予想に反して男たちはそそくさと逃げていった。
あとにはわたしと山彦の女だけが残される。彼女はおどおどとした視線をわたしに向け、素早く逸らしてからこの場を逃げ出そうとする。咄嗟に体で行く手を遮ると、山彦は少し迷ってから両の拳をぎゅっと握りしめ、わたしが打ってくるのを待ち構えた。
「申し訳ないけど、お前の正体は分かってる」
「「申し訳ないけど、お前の正体は分かってる」」
わたしの発した言葉が一字一句違わずに返ってくる。チャンプの教えてくれた通りだった。
「山彦だろ。声のいい人間を追って山から下りてきたことも知っているよ」
視線を大きくずらし、相対さないように話すと彼女は何も返してこなかった。目だけでそっと様子を見ると、山彦は観念したように俯いた。
「わたしのこと、捕まえに来たの?」
「いや、成り行きというかなんというか。あのまま放っておいたら被害が広まっただろうし、放置するわけにはいかなかったかなと」
教導さんは放っておいて良いと言ったが、見過ごす気にはなれなかった。
「声の主が見つからないのか?」
「ううん、見つかった。いきなり声をかけたら驚かれたけど、すぐにどこかで会ったことがありますかって訊いてきたの。わたし、上手く喋れなくて、山の仲間には駄目だって言われてるのに、山彦だって言っちゃったの」
「それは相手も戸惑ったろうな」
「うん、だけどあの人はそうかそうかと頷いて、また山彦を聞かせてくれと言ってくれたの。わたし、胸が一杯で何も答えられなくて。慌ててその場から逃げ出しちゃって。目一杯、山彦を返しますねって言いたかったのに……」
頬を赤らめながらもじもじする様子はいじましく、正に恋する乙女だった。
「居場所は分かってるけど、会いに行こうとするごとに恥ずかしくて。どうしようか迷っていたら、怖い男の人に声をかけられて強引に連れて行かれそうになったの」
そいつが山彦の最初の犠牲者だろう。そして立て続けにチャンプが返り討ちに遭い、今に至るというわけだ。
「わたし、もう山に帰ったほうが良いのかな?」
教導さんならその通りだと答えたかもしれない。けどわたしには彼女を放って家に帰ることはできそうになかった。乗りかかった船から降りるのがどうも苦手なのだ。損な性分というやつだろう。
「逃げ出さないようにわたしが付き添ってあげる」
「それは……ありがたいけど、わたしは山神の端くれといっても雀の涙程度のご利益しかなくて。約束できるのはいつか山に登ったとき、立派な山彦を返すことだけで」
「ちょうど山に登ってヤッホーしたい気分だったから助かる」
「それなら得意技なんで任せて!」
あっさりと騙されるところも腕こぶしを作るところも実にあざとい。人外であることはほぼ確定しているが、これだけ愛嬌があって姿も人間だと怖がれというのが無理な話だった。
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