第一話 エコーチェンバー(3)

 担任に呼ばれた理由はやはり顔の傷のことだった。

「他はともかく顔の傷はな、訊かれてしまうんだ。すまないね」

 担任は指導室で二人きりになると厳格な表情を崩す。いつものように説教ではなく、わたしを指導したという建前が欲しいだけのようだった。

「いえ、迷惑かけてるのはこっちですから」

「わたしは迷惑だなんて思ってないよ。ところで昨夜は派手に喧嘩したそうだが」

「顔は殴られないように気をつけたんですが、なかなか強いやつで何発かもらっちゃいました。まだまだですね」

 誤魔化すような笑みを浮かべると、担任は大きく息をつく。やはり騙されてはくれないようだ。

「辛いようだったら遠慮なく相談しなさい」

「大丈夫ですよ。わたし、痛みには強いので」

 暴力に慣れたというのも若干あるけど、それを置いても打たれ強いほうだとは思う。大体の場合は速攻を決めるけど、実力伯仲だと打ち合いを制して粘り勝つことになる。昨夜の喧嘩が正にそうで、痛みは端々に残ったけど良い仕合ができたと思う。

 話が途切れ、どうにも気まずくなる。とはいえあまりに早く部屋を出たらちゃんと説教したのかを疑われてしまう。合間を埋めるため、少しだけ気になっていたことを訊いてみた。

「そう言えば教導さんって格闘技とかやってるんですか?」

 担任ははいともいいえとも答えず、いつにも増して険しい表情を浮かべる。

向坂こうさかくんが強いのは分かってる。でもね、教導くんだけはやめておきなさい」

 あのキララとかいう後輩の話だけでは信じなかっただろう。だが、冗談の苦手な担任まで揃って、教導さんの強さをまるで疑っていない。

「わたしは以前、教導くんに命を救ってもらったことがある」

「命、ですか?」

 俄に信じがたいことだが、担任の顔は真剣そのものだった。

「先祖は少しばかり悪いことをした人でね、その因果が子孫のわたしに祟ったわけだ。恐ろしい形相の武者が忘恩の徒、国賊だと罵りながら襲いかかってきてね。わたしは夜道を逃れに逃れ、しかし相手は物理法則などものともしない亡霊だった。すぐに追いつかれ、血に濡れた刃をもってわたしを袈裟斬りにしようとした。その間に割って入ったのが当時の教導くんだった」

 とても現実の話とは思えなかったが、担任は適当な作り話をするような人ではない。仮にそういう趣味があったとしても、受け持ちの生徒を登場人物に使うような不誠実はしないはずだ。

「彼女は亡霊武者の太刀筋をなんなくかわし、目にも見えない速さで殴打と蹴りを叩き込むと最後に頭を踏み潰して霊体を散らした。あどけなさの残る子供が振るうとは思えない冷静で透徹な暴力だ。唖然としているわたしに彼女はこう言った。一時的には散ったが恨みは晴らされていない、先祖の因果を調べて供養するようにとね」

 信じ難い、いや信じたくない話だった。人ならざる血まみれの武者が追いかけてくるだなんて想像しただけでも怖気が走る。ああいった理屈の通らない話は苦手なのだ。

 それでも興味が勝り、わたしは担任に問いかけていた。

「そして先祖の悪行を発見したんですか?」

「母の実家が古くから続く商売の家系でね。決めつけたわけではないが、ある代を境目にして一気に成長したという話を幼い頃、曾祖母から聞かされた記憶があったんだ。あそこには古いものが色々としまい込まれているから悪行の証拠が残されているのではないか。そうしたことを伏せて実家に連絡すると、蔵を整理していたら骨董品がいくつかでてきた。あなたは歴史の教師でそういうことに詳しいだろうし、価値を鑑定して欲しいと言うんだ」

「それはなんとも、タイミングの良い話ですね」

 都合の良いと言いかけ、慌てて替わりの言葉を思いついて口にする。担任はわたしの言いたいことが分かっているのか、自嘲するような笑みを浮かべた。

「なるほど、これが因果かと思ったわたしは二つ返事で引き受け、週末になると実家に足を運んだよ。詳しい顛末は端折るが、そこでわたしは一振りの古びた刀を発見した。手入れされておらずすっかりと錆びており、刀身には血のついたであろう痕跡が散見されてね。これに違いないと思ったわたしはその刀を手間賃代わりに譲り受けると、教導さんが巫女を勤める神社に持ち込んで供養してもらったんだ」

「その供養も教導さんがやったんですか?」

「いや、そちらは神主の方が対応してくださった。もう九十近いとうかがっていたがそれよりも二十は若く見えたし、態度も話しぶりも若々しくてね。嘘か本当か、刀の持ち主のことを世間話でもするように語ってくださったよ。幕軍に所属していた武士で、わたしの先祖は彼を匿う振りをして寝込みを襲ったそうだ。世の趨勢は既に薩長へと傾いており、戦後の立場を慮ってのことだったらしい」

 ありそうな話だが、だからこそいくらでもでっちあげられそうでもある。いつもお世話になっているのに穿った見方だが、担任は亡霊武者の幻覚を見たのかもしれない。歴史の教師ならそういった心の病み方をするのはあり得ないことではない。

 そんな彼の心を落ち着かせるため、適当な歴史を語ったというのは十分に考えられる。

「この話を信じるかどうかは自由だ。亡霊武者はわたしの病んだ心が見せた幻覚かもしれないしね」

 そして担任はわたしの考えていることなどとっくの昔に思いを巡らせていた。

「どちらにしてもあの武者を打ち倒した少女が教導くんであることは確かだ。わたしが彼女の担任になって間もない頃、あの時のことを訊ねたんだが、自分で間違いないとはっきり答えたよ」

 幽霊を倒すのと幻覚を倒すのはどちらがヤバいのだろうか。

 その問いは心の中にしまっておいた。口にすることすら馬鹿らしいし、担任に聞いても困った顔をされるだけだからだ。

「喧嘩を売るのはお勧めしないが、友達になりたいというなら止めはしないよ」

 そして最後に予想もしない提案をされた。何しろ教導さんは高嶺の花だ。そんな彼女と友達になるなんてこれまで一度も考えてみなかった。

「さて、上手く時間も潰せたようだし、そろそろお開きにしようか」

 わたしはゆっくりと椅子から立ち上がり、バランスを崩して机に手をつく。あまり認めたくないが教導さんと友達になるというアイデアはことのほか、わたしを動揺させたらしかった。



《小柄ながらになかなかグラマラスな、中学生くらいの女の子だったそうです》

 翌朝、目が覚めて通知を確認するとキララから妙なメッセージが入っていた。意味が分からず頭の隅に追いやって朝の支度をしていたのだが、寮を出た直後に何のことか分かった。

《まさか、あいつの所に行ったのか?》

《ええ、手負いの熊のように目立つからすぐに分かりました。声をかけたら酷い言葉を吐きかけてきたのでサオリ先輩が丁寧に説得しまして、そうしたら慣れた犬のように大人しくなりました》

 グルチャ経由で評判を漁ったら悪い話しか聞かないし、以前に喧嘩で負けた相手を闇討ちして再起不能にしたなどという悪質な噂もあって、どう考えても相手にしないほうが良いやつだった。それをまるで犬のように手懐けただなんてとてもではないが信じられなかった。

《そいつはふわふわ髪のショートヘアで、ごま団子のような独特の甘い匂いがして、服やズボンがぼろぼろだったから声をかけたらしいんです。ナンパじゃなくて純粋に心配してとのことですが、どうだか分かりませんね》

 キララの追加情報が頭の中を上滑りしていく。教導さんが屈強な男を叩きのめすイメージをなんとか思い浮かべようとしたが上手くいかない。

《とまあ、穏便なやり取りをしてたら意外な人が現れたんです。チャンプという名前の付近一帯をまとめている女性で、サオリ先輩を宥めると熊みたいな男の尻を蹴飛ばして追い払ったんです。それからわたしが改めて事情を説明すると、あいつはゲス野郎だがうちの縄張りで起きた喧嘩だからこちらで収めさせて欲しいと言われまして》

《それで一旦、引き下がったのか?》

《ええ、サオリ先輩もひとまずは納得しました。命の危険まではないとの判断だそうですよ》

 そう言い切れるってことは、教導さんはその正体不明が何者かを既に掴んでいるのだろうか? わたしには皆目見当もつかないのだが。

《わたしとしてはサオリ先輩に解決してもらったほうが良い絵を取れてありがたいんですけどね。面子とか縄張りとか、そういったものはどんなに馬鹿馬鹿しく見えても尊重すべきだと言われました》

 正しい生き方から逸れた奴らは得てしてそうしたものを大事にする。他に縋るものがないからだ。わたしはあまり拘らないほうだが、ケツについてくる奴らや背中を見てくれる奴らを蔑ろにされたらそれなりの態度に出るだろう。先日、チャンプと仕合したのもそうした事情が絡まってしまい、穏便な方法では解けそうになかったからだ。

 教導さんは品行方正に見えるが、そうしたことを理解できる人間らしい。

《チャンプさんがエコーチェンバーと戦ってどうなるかはユウコ先輩のネットワークに流れてくると思いますので、また情報共有をお願いします》

《分かった、約束するよ。ところでエコーチェンバーって名前で通すのか? コピー怪人のほうがよほど分かりやすいと思うんだけど》

《コピーではなく増幅ですからね。コピー怪人のほうが説明は楽ですけど、そこは命名者の拘りを通させて欲しいというか。それにサオリ先輩も良い名前だと言ってくれましたし》

《なるほど、じゃあ良いや》

《みんなサオリ先輩の言うことだと納得するんですよね。ぶうぶう》

 キララの可愛らしい不満を宥めてから、喧嘩仲間のグルチャに新しいメッセージが入っていたので目を通す。

《チャンプが昨日、酷くやられたらしいです。やったのは姐さんじゃないですよね?》

 あまりの急展開に、わたしはスマホを取り落としそうになった。

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