第一話 エコーチェンバー(1)

 ようやく一人になれる場所を見つけ、鈍く脈打つ痛みをいなしていたというのに、空気を読まない足跡が近づいてくる。慌てて平気な表情を作り、だらしなくベンチの背にもたれかかると強者の余裕が感じられるように、夜空を見上げながら大きく息をつく。

 暗がりから現れた彼女はそんなわたしの態度を鼻で笑った。

「なんだ、キョウカか」

 わたしのクラスメイトで、先程までわたしとチャンプの殴り合いを楽しそうに観戦していた。試合中だから視界の端に見えた程度だが、目を爛々と輝かせ、まるでご馳走を目の前にしているかのように、はしたなく舌なめずりをしていた。

 これまで彼女のことをいつも教室の隅で本を読んでいる、瓶底眼鏡の陰気なやつとしか認識していなかったから、あの態度は実に意外だった。試合への集中を割くほどの驚きではなかったけど。

「よくここが分かったな。ふらっと気紛れでやって来たところなんだけど」

「あなた程度の考えなんて簡単に見通せるの」

 そう言ってキョウカはわたしの隣に遠慮なく座る。

 人を見下すような物言いは割といつものことだ。陰にこもるもの特有の、同年代に対する侮蔑の念をあまり隠そうとしない。クラス替え直後はそのせいで一揉めしたこともあるが、すぐに誰も手を出さなくなった。口喧嘩が異様に強く、常に相手の思考に先回りするからだ。同じくクラスメイトの教導サオリと並び立つツートップであることからも分かるように、恐ろしく頭が良いのだ。

「考えを見通せるなら、わたしの攻撃を全部かわしたりできるの?」

「まさか、見通せても間に合わないんじゃ勝てるはずもない」

 わたしの切り返しにもキョウカは実に堂々としていた。謙遜して見せたけど、やろうと思えば勝てるなんて考えているのかもしれない。

 試しにひゅっと、軽く拳を鼻先につきつけてみたがぴくりとも動かなかった。

「わたしが殴らないの、分かってた?」

 キョウカは穏やかに微笑むだけだった。どうやらわたしは本当に分かりやすい性格らしい。

「なんで喧嘩なんてやってるの?」

「なんでだろな。キョウカには分かったりする?」

「自分でさえ分からないことがどうして他人に分かるというの?」

「キョウカはわたしよりずっと頭が良いから」

 衒いなく言うとキョウカは唇を薄く舐める。

「ユウコのそういうとこ、良いと思うな」

 それからわたしの名前を呼び、ぱちぱちと気のない拍手をする。

「そういうとこ、と言われても良く分からない」

「分からないならそれでも良い。そうね、的外れな私見を述べるならユウコの暴力は代替なのかな」

「代替……暴力ではなく他にやりたいことがあるって言いたいの?」

「いいえ、もっと他の本当に殴りたい誰かがいるのよ」

 わたしには本当に殴りたい誰かなんていない。的外れな私見の自己申告は実に正しいと返してやりたかった。

「かもしれない」

 実際は軽く答えるに留めた。躍起になって否定すると逆に彼女の術中にはまる気がしたからだ。

「そいつをぶん殴ったら、ユウコは喧嘩をやめるの?」

「いや、やめないと思うな」

 今度は気負うことなく本音を口にする。邪な理由で始めた喧嘩趣味だが、暴力を伴う運動が性に合っていることは否定できなかった。完全に我流の、正しく格闘技を修めている人たちからすればお笑いに過ぎないだろうけど。

 キョウカはわたしの答えに満足したのか、いつもよりずっと素直な笑みを浮かべる。普段からそんな顔ができるならクラスで孤立することもなかったのに。

「ごめんね、色々と話しかけて。本当は一人でいたかったのよね?」

「あと一人くらいなら大して変わらないよ」

 いつもわたしにつきまとうようなやつらだったら鬱陶しかったが、キョウカは会話を求めながらもペースを任せてくれるからまだ気楽だった。絶妙に死球を投げてくるのだけは勘弁して欲しいけど。

「でも今日はぐいぐい来るんだな。教室ではほとんど話しかけてこないのに」

「そうしたいのはやまやまだけど、サオリに悪いかなと思ってさ」

 そこでどうして教導さんの名前が出てくるのか分からなかったけど、深くは考えないでおいた。

「じゃあ、わたしはそろそろ帰る。あなたを知る人は周りにいないからゆっくりと一人を堪能して頂戴」

 キョウカはベンチから立ち上がり、来たとき同様ふらふらと闇の中に消えていく。普段からなんとなく感じていることだが、今日は特に人間離れしていたように思える。

 先程までより心が少し楽になったのは一人になったからだろうか。それともキョウカに鬱屈とした気持ちを吐き出せたからだろうか。

 夏の生温い風だというのに、何故だか妙に心地良い。もう少しここで休んで、戦いの痛みと興奮が抜けたら家に帰ろう。今日は久しぶりに、安らかに眠れそうだった。

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