1-③

「ホント、君といると何だか落ち着いてくるよ。年下なのに、頼るようでゴメン。でも、ありがとう。退院するまで、菜摘のこと、お願いします」


「……ありがとうございます」




 すみません、いい加減にしてくれ、とか思って。


 それで安らぐのなら、何度だって同じ話を聞きます。




 基本お兄ちゃん気質のハルである、頼られると俄然ヤル気が倍増する。


 さっきまでの貼り付けた笑顔でなく、心から笑って、俊明さんの話に耳を傾け。





「お待たせしました。立会して大丈夫ですって。やっぱり、旦那さんに手を握ってもらいたいそうですよ」



 中からサポートの看護師が顔を出し、声をかけてくれる。



「どうぞ中に入って……土岐田君も」



 声と共に招き入れられ、俊明さんに続いて分娩室に入った。


 陣痛の合間で、疲労感はあるものの、少し穏やかになった菜摘さんが、涙ぐんで俊明さんに手を伸ばす。



「ゴメンね、あんまり痛くて……でも、やっぱり……」


「いいよ、僕なんて手を握っているだけなのに、変なこと言ってゴメンね」


「ううん、私こそ……う、また来た」



 再び陣痛の波が襲い、菜摘さんが苦痛に顔を歪めると、助産師が「もう少しですよ、赤ちゃんも頑張っていますからね」と声をかける。

 やがて、助産師の誘導で呼吸を整えながら、いきみ始めた菜摘さんを見守り……。



「元気な女の子ですよ! お母さん、頑張りましたね。おめでとう」



 娩出べんしゅつされ、しばらくして大きな産声を上げた赤ちゃんは、菜摘さんの胸もとに運ばれ、親子三人の初対面を果たした。


 嬉しそうな菜摘さんと俊明さんの顔を見て、ハルは自分が生まれた時を思い浮かべた。もちろん記憶にはない。


 でも。



 まるで見てきたように思い出せるのは、今は亡き母の美晴みはるさんが瑛比古テルヒコさんと一緒に嬉しそうに語ってくれた思い出話のためだろう。


 きっと、こんな顔をして、喜んでくれたのではないだろうか。



 しかし、ゆっくり思い出に浸っている間もなく、続いて胎盤剥離たいばんはくり娩出べんしゅつと続き、さまざまな測定や観察に追われ、ようやく分娩見学が終了した頃には、すでに正午をだいぶ回っていた。



 疲労困憊ではあったが、同時に充実感もあった。指導者にあいさつし、相方の女子学生とともに昼休みに入るハルの足取りは軽かった。 



その時。

 



 階下にある食堂に向かうため、産科病棟のエレベーターホールの隅にある階段室に入ろうとしたハルの背筋が、凍った。


 振り向くと、ちょうど、エレベーターが開いた。




 出てきたのは、三十歳手前くらいの、若い女性と、六十歳くらいの初老の二人の女性。


 にこやかにおしゃべりしている初老の女性二人を、穏やかな笑顔で見守っていた女性は、ハルと目が合うと、「こんにちは」とあいさつをした。



「こんにちは」



 反射的に挨拶を返し、通り過ぎる女性達を見送る。三人は産科とは反対側の棟にある小児科病棟へ向かっていった。


 女性達がそれぞれ押していたのは、キャスターのついた本棚だった。



「そうか、移動図書室……」



 小児科病棟をはじめ、定期的に病棟に図書館職員がやってきては、本の貸し出しサービスをしていることを思い出した。


 それに、小児科病棟では、絵本の読み聞かせもしてくれていた記憶がある。


 入院患者ではないが、美晴さんの面会にきた時に、ナミにせがまれて一緒に聞いたことを思い出した。


 今ではあんなこまっしゃくれたナミが、絵本の読み聞かせをせがむなんて、そんなかわいい頃もあったんだよな、と思い出に浸りたいところだが。



「土岐田君、行くよ?」


 女子学生に声をかけられ、ハルは慌てて後を追う。




 階段を下りながら、ハルは先ほどの若い女性を思い出していた。


 ごく普通の、若い女性が普段着に来ているような、無地の水色のカットソーに、デニムのスカート。


 グレーのスニーカーは、パッと見、泥汚れはなかった。


 後ろで一つに束ねた髪の毛は、無造作ではあるが、ぼさぼさというのでもない、清潔な様子。


 それだけだったら、当たり前に見かける、風体なのに。



 むしろ、穏やかな笑顔は、春の日を思わせる。目が合った瞬間、自然に紡ぎ出された挨拶の声は、読み聞かせにも向いていそうな、優しく耳触りのよいメゾソプラノで。




 なのに。




 執着。



 羨望。



 嫉妬。




 エレベーターの扉があいた瞬間、そんな感情が、オーラとなって立ち上っている、気がした。



 今日感じた、様々な温かい感情が、みんな消えてしまいそうな……背筋が総毛立つ、寒気。





 春の日のような笑顔に似つかわしくない、そんなどす黒い感情に身を包まれたあの女性の存在が、ハルは恐ろしかった。

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